陰になり
「流石にちょっと多すぎじゃない?」
数式の並べられたプリントを横切り、そのままテーブルから転げ落ちそうになったガムシロップを摘まみ上げて手渡す。
あわわわわ……とよくわからない擬音(?)を発して慌てていた藤野は、ようやく右手に持っていたグラスを置き、柳瀬から受け取ったそれと一緒に散らばったガムシロップを寄せ集めた。小さいとはいえ彼女の左手にぎりぎり一掴み、ざっと10個近く。そんな量を一度に置こうとしたらこうなるのはわかりきっている。
「ごめん柳瀬! プリント汚れてない? 大丈夫?」
「未開封のガムシロップがどうやったら俺のプリント汚せるの?
いいから続きやりなよ。そっちはあと英作文だけでしょ」
視線を感じてふとその方向に目をやる。2人がいる席から左奥、少し離れた席に同じ制服を着た女子たちが数人、柳瀬達と同じ4人用のボックス席にいるのが見えた。振り返ってこちらを窺っていた彼女たちと目線が合いそうになったところで彼女たちは自身のテーブルに視線を戻す。その上には柳瀬たちと同じようにプリントや教科書が散在しており、似たような境遇であることが察せられた。
あと数問で解き終わるプリントに目を戻し、シャープペンシルを走らせる。前期の期末テスト初日まで残り4日。テスト前の学校付近にあるファミリーレストランなんてどこも同じような生徒ばかりだ。
汗をかいているアイスコーヒーのグラスを取り上げ、最後になった1問の途中式を乱暴に書きつけながら1口含む。――それでも、もう少し学校から遠いところにすればよかったかな。
解き終わったプリントを濡らさないように畳んでしまう。ちらりと藤野を窺うと、グラスを両手で抱えてノートを凝視していた。見つめる先には罫線しかなく、要するにまだ白紙のまま。軽く息を吐いて「摂取した糖分も貢献できなくて嘆いてるよ」とノートの端を指で叩く。
「うー……。もいっこガムシロ追加する……」
「いやあれ以上は糖尿病、」
言いかけた言葉が止まる。藤野の傍らには確かにガムシロップの容器はあるものの、使い終わった後のものは1つしかなかった。残りは未開封のまま少し離れたところにまとめて寄せられている。
「取りすぎじゃない?」
「え? 1個しか摂ってないよ?」
「そういうことじゃなくて。
そんなにたくさん取ってくる必要なかったんじゃない?」
「あれ、柳瀬も使わないの?」
心底意外そうに発せられた一言に目を瞬かせてしまう。
「別に俺甘党じゃないよ。今飲んでるのもブラックだし。
飲めないことはないけど」
「そうなの? じゃあこいつらには私の英作文の糧になってもらうか……」
8割ほど残っていたアイスコーヒーに、ガムシロップが2つ投入される。更に景気よくもう1つガムシロップが投入されそうになるところに「はいストップ」と制止をかけた。
「だから糖尿病。糖分取るより先に問題見せて。その英作そんな難しいの?」
少し抜けているような印象を与える藤野ではあるが、柳瀬の記憶が正しければそこまで勉強が出来ないということはなかったはずだ。
しかし「神!」と拝み手の後に差し出された課題に記されたテーマは「高校生活で打ち込んだもの」というオーソドックスすぎるものだった。しかもこの課題は柳瀬のクラスでも今日の授業で課せられていたはずだ。
「これ俺のクラスでも出たよ。80字って言われてたけどそっちは?」
勢いよくコーヒーを飲み干した藤野がそのままテーブルにうつぶせる。そのまま発せられたくぐもった「一緒……」という返答に柳瀬は内心首をひねった。
「じゃあそんなに難しくないんじゃないの。藤野、確か俺より英語出来るよね」
機械仕掛けのおもちゃのように跳ね起きた藤野に「うわ怖」と声が漏れる。失礼極まりない言葉を全く意に介することなく「英作苦手なの!」と藤野は高らかに宣言した。それ全く誇れることじゃないからね、と釘を刺す。一呼吸置いてから「なんでまた?」と尋ねた。
「んー、なんていうか、答えがないじゃん。英作文って」
「テーマ逸れてなくて文法が合ってれば何書いても正解だよ」
「それはそうなんだけどさー」
「美術部だったことにしたら? スペルミスないし字数稼げるよ」
「私たち吹奏楽部でしょーが!」
まあそれは冗談として、と柳瀬も自身のグラスにガムシロップを1つ消化させる。マドラーはないのでグラスを傾けて軽く混ぜた。
「英作文は定型文使えば楽だよ、頑張れ。俺も今からやるし」
定型文ね……と唸る彼女を眺めつつアイスコーヒーに口をつける。微かに甘さはわかるが全く飲めないほどではなかった。さっさと終わらせてしまおうと柳瀬も英語のノートを開く。
「ちょっとおかわり行ってくるね」と席を立った藤野をもうガムシロップいらないからね、と見送ったところでまた左奥から視線を感じた。ガムシロップをもうひとつ追加して、そのまま英作文に集中しようとする。字数が稼ぎやすくスペルミスの少ないテーマを選び、もう覚えてしまったよく使われる雛形に当てはめて埋めていく。不安が残る文法は使わない。間違えていなければある程度の点はもらえる。
――あと少しなんだけどな。
数えて残り13字。約1文書けば終わるところで手が止まった。何かいいものはないかとノートから目を離して、正面の藤野に視線を移す。いつの間にか戻っていた彼女は相変わらず苦戦しながら進めているようで、ノートも何行か英文が書かれているのが見えた。ぬん……と妙な言語を発しながら顔を上げた彼女と目が合う。
「柳瀬もう終わったの!? 私の方が先にやってたのにぃ……」
「いや、あと1文くらい。何書こうかなって」
「あっぶな。あっでも柳瀬の方が進んでいる……。ちくしょ……」
「まだ思いつかないから今のうちに追いついてよ」
一度シャープペンシルを傍らに置いて、少しぬるくなってしまったアイスコーヒーに口をつける。口中にはりつくべったりとした甘さに、渋い表情になったのが誰に指摘されなくともわかった。甘いものは嫌いとまではいわない。それでもあまり口にしたくないのは、その後味がどうにも好きにはなれないからだ。口にした一瞬は甘くてもそのあとに残る酸味のような気持ち悪さが苦手で、普段は「甘いものは苦手」と言うことにしている。
「藤野」
「んー?」
「俺は少し疲れました」
「はい。ちなみに私も疲れてます。あと50語くらい残ってます」
「応援のお言葉を頂けないでしょうか」
「嫌です」
傾けたグラスが止まる。
「……そんなに?
大丈夫だよ、先に解き終わっても藤野が終わるまで待っとくから」
「えー、んー、いや、そういうことじゃないんだけど……。あれ……」
柳瀬よりも余程不思議そうな表情で、藤野は課題から目を離しくるくると横髪を弄ぶ。
「何でって言われたら困っちゃうんだけど、何か嫌なんだよね……」
「何で?」
「だから困るんだってば! 何となくなの!!」
「気になるなー。俺すごく気になるなー。
藤野が言ってくれたら頑張れるのにショックだなー」
「棒読みやめい!」
きっちりと柳瀬に突っ込んでから、一向に進んでいない課題の横にシャープペンシルを置いて腕を組み始めて長考に入る。うーん……?と言いつつ本格的に考える姿勢に入った藤野を横目に、柳瀬は散らばった未開封のガムシロップの容器を手慰みにする。
「頑張るからかなあ、柳瀬は」
自分の中で咀嚼しながら発せられたようなゆっくりした口調なのに、藤野は不思議なくらいにきっぱりと言い切る。こういうところなのかな、と柳瀬はうっすら思う。
――藤野? ちょっと変わってるよね。悪い奴じゃないのはわかるけど。
――え、どこってわけじゃないけど。何か時々思うかも。
――そういえばたまに一緒にいるよな? 意外感あるわ。
「あ」
いつの間にか弄んでいた容器の蓋を剥がしてしまっていた。仕方がないので自分のグラスに入れる。指先にべったりとシロップがつき、紙ナプキンで拭う。まだ少しべたつく。
「……それで? 俺が頑張るからってどういうことなの」
「頑張れって言ったらちゃんと頑張るじゃん、柳瀬。頑張れなくても。
それはやだなって」
「いくらなんでも大袈裟じゃない。たかが英文1つだよ」
「それはそうなんだけどー!」
プラスチックのカトラリーケースから布ナプキンを取り出して更に指を拭った。べたつきは取れたがなんとなく気分が悪く、自分のハンカチも使う。目の端にガムシロップをいくつも含んだ自分のコーヒーがちらちらと過ぎる。もうこれ飲めないな、とどうでもいいことが脳裏に浮かんで散った。
「それに、仮にそうだとしてさ、それで今頑張れなくて困るのって俺だよ。
他でもない本人が求めてるなら、応えるものなんじゃないかなって俺は思うけどね」
「あー、確かにそうか……? ううむ……」
再び考え込んだ藤野に、ガムシロ入れすぎたから取り換えてくるね、と言い置いて席を立つ。「残りのお飲み物はこちらにお流しください」と書かれた流し口の前で、一口だけ含んでみる。案の定胸焼けしてしまいそうな甘ったるさに吐き気がする。無理やり飲み下してからコップごと新しいものに取り換えた。
席に戻ると、課題に戻っていた藤野が顔を上げた。「おかえり」と屈託なく笑う彼女のノートに目を走らせると、部活のことを長々と綴っているようだった。置きっぱなしだったシャープペンシルを取り上げて柳瀬も残りの1文を埋めると、今度こそ何も入っていないアイスコーヒーで口を直しながら、課題に四苦八苦する藤野を眺めた。
本当に難しくないんだよ、英作文なんて。心の中だけで呟く。
日が落ちきるより少し早いくらいの時刻にようやく藤野は英作文を含め全ての課題を終わらせた。藤野がそのままご褒美のスイーツを注文するか迷っている間に、彼女の母親から今夜の夕飯は唐揚げだと連絡が来て、事態は一刻を争うと主張した彼女に従い柳瀬達は帰路に着く。
駅は同じであるものの、バス通学の藤野に対して柳瀬は電車通学だった。バスターミナルで手を振って別れた後、柳瀬はポケットに手を入れる。余ったガムシロップが指先に当たる。どうしてか1つだけ持って帰ってきてしまっていた。
「あ」
駅内の喧騒のなか、柳瀬の小さな声を気に留めるものは誰もいない。
――結局、言わなかったな。
書きたいことがあまりにたくさんあったので、一先ず練習にエピソードを1つ書いてみようと思ったものです。今後書く予定の話が前提になっているため、読みにくい部分が多くあったと思います。申し訳ありません。
また、今後他の話に矛盾したり変更点が出てくるようになったりした場合、非公開にする可能性が非常に高いです。予めご了承ください。