月の煙
※この物語はフィクションであり、実在する地名・人名とは一切関係ありません。
「おーい陽太くん、ちょっとここらで休憩にしないかい」
野太い声で、向こうの畑で作業していた親戚のおじさんが俺を呼んだ。
一面に広がる畑と田んぼ。秋のさっぱりした気候の中でそれらはほんのりオレンジ色に染まり、高く青い空はまどかな弧を描きながら広がる。地上のあらゆるものが熟れて色づき、凛とした明るさが空気に満ち満ちている。田舎の秋。
草むしりは、想像以上に疲れるものだ。秋とはいえ照りつける太陽は決して楽なものではなく、その中でずっと腰を曲げて雑草と格闘するのだから、身体的な負担は思ったよりも大きかった。
身体を起こして、親戚のおじさんのもとへと向かう。近くにはもう父も戻ってきていて、首にかけたタオルで汗をふきふきしながら呑気そうに話をしている。
「あっちにおにぎりとお茶が用意してある。母さんが朝早く起きて作ってくれたんだぞー。陽太、午後のためにめいっぱい食べておけよ」
「うん」
父が俺に呼びかけた。うすく日に焼けた顔が汗できらきらと光り、たくましく見える。いつもの父は、スーツを着て仕事をしているイメージしかなかったから、こうして農作業をしている父の姿はまるで別の人のようだ。
秋。俺は父の実家で数日間を過ごしていた。
父の実家というのは、日本海沿岸の地方にある小さな村だった。もともとは街の方に家族で住んでいるのだが、秋の間にしばらく父の実家の方に泊っていた。「家庭の都合」ということで、秋の日に数日間多めに休みをいただくのである。俺は高校生で、進学校というほどでもない学校に通っているせいか、多少休んだとしてもさして問題はなかった。
父の実家は山の中にあって、昔も父と母と一緒によく来ていた記憶がある。それでも、やっぱり普段過ごしているのと別のところで生活するのはやっぱり慣れないもので、おまけに畑仕事も手伝わされるというのだから、しんどいものだ。
「陽太くんも、大きくなったなぁ、のう。前まではこんなに小さかったのに、今ではこんなに大きくなって…」
親戚のおじさんが目を細めて俺を見ていると、父は、からからと笑って言った。
「ははは、まあ家ではバカみたいに食べますからねー。そのくせ太らないんだから、不思議なもんですよ」
「と、父さん…そんなに食ってねぇよ」
畑の近くの大きな石に座って、三人でむしゃむしゃとおにぎりをほおばる。塩とか水とか食材とか、このあたりの新鮮なものを使っているせいか、お米自体に味があるみたいで、おいしい。
「そういえば、陽太くんは今年いくつになるの?」
「はい、えっと…先月に、16歳になりました」
「16歳か」
父がつぶやくように言った。
「そうかぁー、もう、そんな年になったんだね。それなら、今度この村でやるお祭りにも、参加できるね、うん」
「お祭りですか?」
「そうそう。陽太くんは今まで参加してないと思うけど、いろんな人が集まって、みんなでお酒飲んだり、楽器を演奏したり、話を聞いたりするんだよー」
そういいながら、親戚のおじさんは新しいおにぎりをつまんで、ひょいと口に入れた。「あ、もちろん陽太くんはお酒は飲まないがね。」おじさんはおにぎりを頬張りながら顔をゆるめた。指先はごつごつしていて、いかにも畑仕事に精を出しているおじさんという感じ。
お祭り。なんだか初めて聞いた気がするが、未成年が参加してもいいのだろうか。
他の二人はまた、何事もなかったかのように、天気の話だの地元の話だのに移っている。いつも思うのだが、この二人の話していることは、たまに分かるようで、分からないようなところがある。
「ちょっと、トイレ行ってきます」
食後、お茶を飲みすぎたのかちょっと尿意を催したので、トイレに立った。
畑から離れたところに一か所、さびれた公衆トイレがあって、いつもそこで用を足していた。
いったん作業をしていた畑から離れるので、トイレに行くといいながら、ちょっとさぼったり涼んだりするのにうってつけである。
さて、畑から3,4分程度歩いたところで、道のそばに立つ白い(とはいえもちろん薄汚れて変色しているのだけれども)小屋のようなものが目に入る。例の公衆トイレだ。
──あれ。
見ると、小屋のそばの壁に、一人女の子が寄りかかっているのが見えた。夏っぽい白いワンピースを着けた、おそらく中学生くらいの女の子だ。まさかお化けではないだろうと思って、そろそろ近づいていくと、その子も俺の姿に気づいて、最初はおずおずしていたが、やがてはにかんで、俺の方へ近づいてきた。
「この村の人?」
女の子は俺を見上げる格好で聞いた。身長が俺より少し低いようだが、近づいてみると意外と身体つきがしっかりしている。
「いや、俺はここの人じゃないんだけど。ちょっと学校休んでこっちに来てるだけだよ。父さんの家がこっちだから。君はこの村の人なの?」
「うん。この村の人」
どことなく不思議な光をたたえた目が二つ、まっすぐ俺の顔だけを見つめる。
「珍しい。この村の人だったら、君みたいな人滅多に見かけないもの」
「俺みたいな人?」
どういう意味だろうか。
「高校生?」
俺の問いかけには返さず、彼女は聞いてくる。
「おう、高校1年だけど」
「私も高校生1年生───」
「ふうん」
なんだか珍しい動物でも見るような目で、俺の方を見てくるのが妙に気になって、気まずくなったので、「あ、俺、トイレ行きたくてここ来たからさ。なんか用事あったんなら無駄話してごめん」と適当に振り切ろうとした。
「ううん、別にいいよ。私実は今、暇だから──」
女の子はかぶっていた麦わら帽子をかぶり直し、ひらひらと手うちわで顔をあおぎながら、朗らかな顔で俺を見つめた。
なんていうか、変わった感じの子だな、と思った。目が据わっているわりに、それはガラス玉をそのままはめ込んだようで、前谷の雰囲気も凛としている。。風が吹いて黒髪がなびいても、気にしているそぶりがない。なんだかその子の周りだけ時間がゆっくり流れているみたい。
俺はどうしたものか分からずしばらく目をそらしていたが、思い切って、話をふっかけてやることにする。
「ここで何やってたの?」
「何って。やることがないし、つまらないから、外に出て休憩してただけ」
「そうなのか」
「君は、畑仕事か何か?服、泥だらけだよ」
「おう、父さんの手伝いで畑仕事してるよ。つっても草むしりが多いけど。このへんの草ってめっちゃ強くてさ。雑草なのに、すごく根っこ張ってるしなかなか抜けない」
女の子はふふふ、と歯を見せずに笑った。
「ご苦労様」
その子の腕は、白く細かった。田舎の子であれば、ちょっとは日焼けしてたりたくましかったりしてそうなものだが、彼女はまったくそういうわけではなく、身体全体が白くて細くて、大げさに言えば、汚れ一つないように見えた。
「ねえ、私たまにここにいるからさ、良かったらまた話そうよ」
「お、おう」
あんまり長くサボっていても(いや、最初はサボろうという気持ちはなかったのだ)怪しまれるので、適当にあしらって男子便所に入った。出てみると、さっきの女の子はどこかに行ってしまっていた。
新しい女の子との出会いに、ついつい胸が高鳴るドキドキ…ということでは実はなかった。今、特段彼女さんが欲しいというわけでもないし、すぐに俺は帰ってしまうから、この村の子と仲良くしてもしょうがない。
けれど、今の高校にいるようなタイプの女の子ではないかな…?とろんとした惚けたような目つきは、甘ったるくてかわいいけれど、でも、あんなにじろじろ見てきて、何だったんだろうか?
次の日。
午前中の畑作業で、草を刈っていた。おしっこに行きたくなり、作業を抜け出して昨日行った公衆トイレへと向かった。
まさか、とは思ったけれど、昨日と同じようにあの女の子がいた。
俺が近づくと、彼女は「また来たね」と笑って言った。
「おう、生理現象には逆らえないからな…って、いったい君は真昼間からこんなところに突っ立って、何やってるんだよ?」
「君?」
敵意のない透き通るような目で、俺に何かを問いかけるように見る。濁りがなさすぎて真意を掴みかねて、どぎまぎしてしまった。
「…え、どしたん」
「…だって、私、『君』なんてふだん呼ばれないから」
ふふふ、とひそやかに笑うその子は、「うーん…そうだ、私のことは、『美佐』って呼んで」と付け足した。
女の子を下の名前で呼び捨てにするのは慣れなかったが、かと言って「美佐ちゃん」は余計慣れ慣れしいし、「美沙さん」ではどこぞの教師みたいだ。「美沙」なら、まだ苗字で呼ぶような感じだから、言われた通りに呼べばいいか。
「美沙…はさ、なんかこう、学校とか行かなくていいの?」
「学校は行かなくていいの」
「はあ」
「なんか、家にいるのつまんないし」
「えぇ…」
美沙はすこし目を細めて、自分のかほそい指先に視線を落とした。学校に行かなくていいなんて、ひょっとして不登校かな。家にもいたくないみたいだし、ひょっとして複雑な家庭なんだろうか。
「あ、あの、俺陽太って言うんだけど、なんか困ってることとかあったら、全然相談に乗るよ。ずっとここにいるわけじゃないけど、ほら、話したら楽になるかもしれないし、俺もできることがあるなら協力するからさ」
「陽太…くん、っていうんだ。あったかそう、やわらかそうな名前だねー」
秋の日差しを受けて、汗をかいていない美佐の白い肌は明るい浅瀬のようで、その両手のつめたい指先が俺の腕に触れた。長い髪の影にかくれて、伏せられた目が輝いていて、夕陽のようだった。
「おいおい陽太、朝から下痢かー?頼むから畑で漏らすのだけはやめてくれよぉー」
急いでトイレから戻ったが、軽く10分くらいはかかっていたようで、戻るなり父にどやされた。
「うっせーな!汚いこと言うなって!作業ちゃんとやるからさ!」
大声で答える。活気のある、田舎の農作業。この地元に来て、同世代の子と仲良くなれるなんて思ってなくて、少しだけテンションが上がっていた。
──今日の5時、池の近くに来て──と、彼女は言った。
ここのあたりの子は田舎なせいか携帯電話を持っておらず、ちょうど俺が学校の人とやっているようにSNSのIDを交換交換、というわけにもいかない。
いつものようにお昼ごはんを食べて、午後もひととおり働き、汗だくになって作業が終わったのが、午後4時30分だった。日の色が若干濃くなった程度で、まだまだ暗くなるような時間帯ではない。
父と親戚のおじさん三人で集まって、お互いに今日一日の労をねぎらった。
「よーし、今日もお疲れさん!じゃ、みんなで一緒に帰るかぁ」
「あ、ちょっと待って」
「ん、どうした陽太」
「俺、ちょっと商店に行ってジュース買ってから帰るよ。家に行ってもお茶ばっかりだからさ」
父はじろじろと俺を見て、それでも疑っていないのだろう、「あんまり遅くなるなよ」と、俺の肩を叩いて言った。
俺は小さくうなずいて、しばらく二人を眺めてから、さっと後ろを振り向いて歩きだした。まだ日差しが明るいのが幸いしている。この畑から商店までは、歩いて10分くらいだろうか。どこかで蛇口でもあったら、顔を洗って行こう。
秋の虫のころころした声がこだまする。その声色は思いのほか細く、悲しそうである──興奮と緊張で胸がどきどきしているのに、この重苦しい音のカーテンはまとわりつくようでうっとうしい。
今日の農作業が終わり夕方になると、俺は畑のすみにあった小さい蛇口で顔を洗ってから、池の近くに来た。
池といっても、ちょっとした水たまりのようなものである。畑の道をしばらく行くと商店や郵便局のある界隈に着き、そこから方向を変えて少し歩いたところにある。周りには伸び切った草ばかりがあって、目立った建物があるわけでもない。
白いスカートを着けた女の子が見えたので、「美佐?」と声をかけた。
「思ったより早いね」
「おう、作業がけっこうはかどったからな」
「こっちに来て」
美沙は軽い身なりできびすを返して、すたすたと歩いていく。
池を通り抜けて、道をしばらく行くと、開けた畑沿いの道に出た。
ちょうど盆地の真ん中のようで、周囲は真っ平な田園が広がり、遠い山の稜線が見下ろすようにぐるりを取り囲んでいる。
ふわっ、と、バニラのような、やわらかいかすかな香りが鼻をつついた。
あまい…。
見ると、道沿いには、小さなオレンジ色の花を枝いっぱいに抱えた、背の低い木がずらりと並んで、並木になっていた。
足を踏み入れると、そのあまい香りはより確かなものになる。急に、別の世界に足を踏み入れたかのようだ。
「こんな場所がこの村にあったのか。確かに、商店と郵便局のあるあたりの奥にはあんまり入ったことがなかったから、不慣れだな…」
「外の人だもん、仕方ないよね」
しばらく、俺と美佐は並んで、黙って歩いた。俺はというと、この並木とそこから漂う香りに頭がくらくらしていて、現実かどうかを認識するのに時間がかかっていた。
「陽太くん、この木なにか知ってる?」
「金木犀」
「そう、金木犀。私、小さいときからすごく好きで家の庭にも植えてあったんだー」
「ふぅん」
なぜだか、金木犀と聞くと、ひんやりとした冷たいものを連想してしまうのは、なぜなのだろうと、美佐の話を聞きながら考えていた。そういえば、俺が通っていた街の小学校にも、金木犀が植えてあったような気がする。そのとき、たしか、その花に触ったことがあったのだ。
そうだ、そのとき、花が冷たかったのだ。まるで、冷蔵庫みたいな、どこか気温の低いところから運ばれてきたみたいに。
「昔ね、庭に植えてあった金木犀をぼんやり見てたとき、おばあちゃんが教えてくれたことがあるの。金木犀は、もともとどこに生えてた木か知ってる?」
「え?知らんなあ。山梨とか長野らへん?涼しいし」
「違うよー。ヒントは、遠いところ」
「北海道?」
「違う違う。日本じゃなくって」
「うーん、それならロシアか…?いや、真面目に考えるなら、中国大陸あたりか…?」
「違うんだよねー。…金木犀はね、もともと、月に生えてた木なの」
「つ、月?」
「そう。月の世界にね」
俺は目を丸くして美佐を見た。美佐はとくに表情を変えるでもなく、淡々と話を続ける。
「おばあちゃんがいつも言っててね、月にはすごく大きくて立派な宮殿があって、そこには月の神様が住んでいらっしゃるの。その宮殿の周りにいっぱい金木犀が植えてあって、金木犀が満開になると、月もその花の色に染まって、ぴかぴかの金色に光るんだって」
美佐は、声の底に力を込めて話した。
金木犀の甘い香りで頭がいっぱいになって、そこへ美佐の突拍子もない話を聞かされて、うさんくさいのに、なぜかその気になってくるような、変な気分になってきた。突拍子もない話というのは、地に足の着いた話よりも、意外と頭に入り込んできやすいようである。
よもや、単なるおとぎ話を俺に話して聞かせているだけなのだろうか?それなら、適当なタイミングでしらふのノリに戻る合図があってもよさそうである。しかし、金木犀の花を見やりながら、うっとりしている美佐は、とてもそんな気の利いたことをしそうにない。冗談ではないようなのである。
──さしずめこの香りは、月の世界の香りってわけか。
しばらく、二人で言葉を交わさず、満開の金木犀の通りを二人で歩いた。
村からも距離が離れて、人声は絶えて、不思議と虫の声も細く切なげになり、気温も下がり始める。夕暮れ時だから当然だが、しかしそれにしても農作業をしている畑周辺や、村の方とは違った独特の雰囲気があたりにたちこめている。
月の香りのする煙は、濃く、ほのかに光沢がある。自分の知らない場所へと足を踏み入れていく一歩一歩は、川の底を踏むように浮き、時間の流れさえもゆがめる。
見知った顔で歩を進める美佐にとって、これから行く場所は行きなれている場所なのかもしれない。だいぶ日は傾いて、一本の道に、俺と美佐の影がぼんやりと長く伸びていた。
金木犀の並木が尽きると、ちょっとした雑木林があった。しかしそこにも細い道が続いていて、中に入れるようだ。美佐は「ついてきて」と、ためらいもなく雑木林へと入り、俺の方を振り返ることもしない。
「わぁ…」
雑木林を抜けた先には、小高い丘が広がっていた。
その丘からは、周りにあるはずの山の稜線が見えない。ただ一片の空が、丘の上だけを照らしていた。まるで、この場所だけのためにこの空がキャンパスみたいに切り取られているみたいに。
「こんな見晴らしのいい丘があるなんて、知らなかったよ。美佐はここに来たことがあるのか?」
「うん、よくね。大事なことをする場所だから」
丘の上から吹き降ろしてくるのだろうか、時折びゅう、と急に風が吹いて、美佐の長い髪をばさばさと吹き散らす。美佐は髪を手で軽くおさえて、風がやむと、またゆっくりと丘の方へと進んでいく。
ここのあたりだけ、雑木林があるせいか、周囲の音が吸い込まれたように静かである。虫がいっぱい住んでいる水田のたぐいもここには無いから、虫の声さえ壁一枚隔ててだいぶ遠く聞こえる。
美佐と俺は丘の斜面に並んで座って、夕暮れ時の空を眺めていた。
「あ、お月様」
美佐は座ったまま空を指さした。指さしたところには、夕暮れの赤い光の中で、ゆっくりと上り始めた月があった。
「気が早い月だなぁ。まだ太陽も下り切ってないのに、もう顔を出しちゃって」
「私…」
きっとこの丘でキャンプファイヤーでもして、明るい月の下で燃えるかがり火を一晩中眺めていたら、素敵な思い出になりそうだ。
「美佐は『Fly me to the moon』という曲は知っている?」
「ふらい…何?」
「そういう曲があるんだよ。『私を月に飛ばして』っていうタイトルなんだけど、なんだかここの丘、空だけがやたら広くて、別の惑星に来ているみたいなんだ」
「どんな歌」
「えー、簡単になら歌えるけど…」
俺は簡単にその歌を口ずさんでみた。典型的なカウンターメロディーだから覚えやすいし、英語もまねしていれば覚える。ネットで洋楽を聴いていて、いいなと思った曲の一つが、この『Fly me to the moon』だ。
「綺麗な曲だねー。『私を月に飛ばして』って、どういう意味なんだろう?」
「さあ…英語の歌詞は難しくてよく分からないんだよな。でも、なんか、『月に飛ばして』っていう言い回し、面白いよな。たまにその気持ちわかるなーって思うときあるよ」
「陽太くんけっこうメルヘンだね」
美佐はくすっと笑って、耳のそばの髪を指でとかした。
「私も、お月様に行ってみたいけど、実はちょっと怖いんだ。だって、行くときは一人だから」
本当は、Fly me to the moonの歌詞の内容は分かっていた。「貴方が好き」という意味のメタファーだ。だから「月に飛びたい」という感情は、この曲を書いた人からすると、月自体が持つ意象と相まって、過分な憧憬と、それゆえ届かない感傷とを秘めたものだったんだろう。
夕暮れの風は甘く、草原は青いしとねのよう。しばらく、その場所に座って、高い空の向こうの、手に取るような宇宙を眺めていた。
夜。
俺は家で、父と母と祖父の四人で小さい食卓を囲んでいた。
出される料理は、この地方でとれる魚と野菜をふんだんに使った、健康的なメニューだ。
ナスとピーマンを味噌で炒めたもの。川魚の塩焼き。オクラとトマトのサラダ、等等。やはり素材が良いからか、口の中でゆっくり転がしているとうまみがにじみ出てくるようである。
縁側の窓は開け放してあって、そこから夜風が吹き込んでくる。秋の夜風は少し肌寒いくらいであった。昼間の太陽で照らされて作業に励んだ俺の肌は、いたるところ赤っぽくて、夜風に吹かれるたびに、ひりひりとしみるように痛む。
「ごちそうさん」
「おう陽太、早いな。そんなに腹減ってたん?」
「さあ、どうだろ」
父が川魚を頬張りながら言った。見慣れた、にこにことした笑顔だ。
「そうだ陽太、ちょっといいか?」
「どしたん」
「お前、明後日の夕方なんだけど、時間あるか?」
「明後日の夕方?」
父は川魚の肉を食んでいる。箸の細い先端が、魚の腹を手術するように、器用に肉の間に踊る。
「空いてる…と思うけど(言い淀んだのは、言うまでもなく美佐のことが頭にちらついたからである)。何かあるの?」
「ん。実は、明後日の夕方に、前言ってたお祭りをやるんだ。今日は十三夜月で、明後日が満月だからな。満月の日にやるお祭りなんだよ。母さんもおやじもお祭りには参加するんだからな」
そう言って父は「おーい、めでたい日も近いんだ。飲もう。ビール冷えてるかー?」と叫んで、食器を洗う母がぶつぶつと何かを言って、父がしぶい顔でのそのそと立ち上がる。
めでたい日──ふと、胸が高鳴ったのは、金木犀の香りのせいだろうか…。
次の日、同じように朝から農作業を手伝っていた。
今日はすこし雲が多く、空気も湿っている。「雨が降るかもしれないな」農作業で白いシャツを泥まみれにした父が、草をむしりながら言った。
ところで、今日行った作業はいつもとは少し違うものだった。
いつもの畑とは少し離れた場所から、竹をいくつか切ってきて、その竹をいつもの畑の近くの場所に運んでいくのである。また、刈った草やちょっとした枝きれも同じようにある場所に集めていた。
「父さん、こんなに竹とか枝きれ集めてどうするの?」
「これはな陽太、お祭りのときに使うんだよ。これで、家を作るんだ」
「家?」
「ははは。まあ、陽太もそのうち分かるさ。さあ、仕事仕事」
こんなもので家を作るなんて、一体何の冗談なんだろう?父はさらっと流したけれど、考えれば考えるほどクレイジーに思えてきて、気味が悪い。
それでも、午前の間中ずっと集めに集めて、「よし、まあこんなものだろう」と父が言ったころには、お昼を回っていた。意味が分からなさすぎて、ある意味、普段の草むしりよりも疲れた。
昼食を終えて、さして催していなかったが、俺は「トイレ行ってくる。」と農作業を途中で抜けた。
そして、例によって、いつもの場所に美佐がいた。小学生のように純粋な笑顔で、俺を迎える。
「いつも思うんだけどさ、美佐ってなにしてる人なの?」
「なにしてる人って?」
「いや、うーん…なんかさ、女子高校生ならもうちょっと他の子と遊んで騒いでそうなイメージなんだけど。偏見でなんか悪いんだけど、すごい変わってるというか…」
「あはは。今さら」
美佐はひそやかに笑った。その笑顔が、妙に影がかって、暗く見えた。瞳の色が、普段にもまして濃く沈んで見える。
「でも、陽太くんって鋭いね。どうしてわかったんだろう」
「なにが?」
「私が他の子と違うっていうこと」
「気づかれたらまずかったのか?」
「うーん、本当はまずくないんだけど…私的には、まずいかも」
「そうなのか」
禅問答みたいでおかしくて、ちょっと吹き出してしまった。美佐は、柔らかい目の光を細めながら、憐れむような、慈しむような眼光で、俺の方を見ている。
どうして、そんな目の光が出せるのだろう。
美佐の顔が急に不機嫌になった。いや、違う、急にさっと影がさしたのである。空を見上げると、分厚い灰色の雲がもくもくと流れてきて、太陽の光をまったく遮ってしまっていた。やがて、ぽつぽつと細かい雨粒が落ちてきた。
そしてそれは、弱まるどころか強まる一方で、ついに本格的に雨が降ってきた。
「うわ、雨だよめんどくせー。いったんトイレで雨宿りするか」
「トイレ汚いよ。私が雨宿りできる場所知ってるからこっちに来て」
美佐は早口に言って、さっときびすを返してどこかに走っていく。俺はちょっととまどったが、遅れてはいけないと思って、あわてて美佐の後ろを追いかけた。
午後から急に雨が降り始めるとは、正直予想していなくて、全身びしょぬれになってしまった。
「陽太くん、服すごい濡れてる。大丈夫?」
「お、おう、全然大丈夫。美佐のほうこそ、ワンピースすごく濡れてるけど、寒くないのか?」
「平気」
簡潔な言葉で会話を済ませて、俺と美佐は沈黙した。
美佐が入っていったのは、道沿いにあった、農具をしまう小屋だった。トタンでできていて見た目はみすぼらしいが、屋根もドアもあり、雨宿りの施設としては申し分ない。中も農具のたぐいはごくわずかで、あとはぼろぼろの稲袋とか、泥だらけの長靴や手袋のたぐいが散乱しているだけである。狭苦しくもない。
「ここね、昔このあたりの畑を持ってた人が使ってた農具小屋なんだけど、去年引っ越しちゃてさ。それからここ使われてなくて」
「ふうん…」
ぱちぱちと雨がトタンを打つ音は、冷たく、切れがいい。小屋に阻まれて音はこもっているけれど、ますます強くなって、不安をつのらせる。この雨はいつ止むのだろう、今日はちゃんと家に帰れるかな…。
小屋の中は薄暗く、隣にいる美佐の表情はよく見えない。ほんの数日前に会っただけのこの女の子の…彼女は、ワンピースをぱたぱたと手ではたいて、湿り気を払っているようだった。
ぶる、と寒気がする。この環境がひどく異質な、自分にとって耐えられない何かをはらんでいるような気がしてきたのだ。
「そういえば、昨日親父がさ、晩飯食べてるとき、村のお祭り?があるとか言ってたんだよね。満月の日にやらないといけないとかなんとか?それってさ、美佐も出るの?」
「…」
(あれ…なんかまずいこと聞いちゃったのかな…?)
「出るもなにも、主役だよ。私が」
「は?」
「陽太くん、本当にこの村のこと知らないんだね」
かすれた声で美佐が言った。
「教えてあげる。この村はね、月の神様のために在る、聖なる村なの」
「つ、月の神様?」
いきなりオカルトチックなことを告げられて、俺は面食らうやら困惑するやらで、理解が追い付かない。一体何の話だ?
「陽太くん…現代社会の人ってさ、昼間だけじゃなくて夜も働くことが多くなったよね。夜があるおかげで、みんな普通に生活できてる。それなのに、誰も夜に感謝しなくて──夜に動く人たちを見守ってくださる月の神様に感謝しないのはおかしいと思わない?」
「う、うん、まあ」
「ずっと昔から、太陽を崇拝する宗教はたくさんあった。それは、みんなお昼に一生懸命働いて、夜はぐっすり休んでいたからなんだ。でも、今の人は夜も動いている。それなら、みんなもっと月にも感謝をして、私たちを見守ってくださる月の神様を尊崇しないといけないの」
「そんなもんかねぇ」
「神様は不老不死なんだよ。ずっと昔から月の宮殿に住んでいらっしゃって、神様の仙術のおかげで、月は永遠でいられる。月が欠けてもまた満ちて、無くなっちゃうことがないのは、月の神様のお力なの」
急にはっきりした口調で訳の分からないことをしゃべり始めたんで、俺は同調すべきなのか、それともいっそ話をそらしてあげるのがいいのか、悩みながら相槌を打っていた。
確かに地上で悪いことをして月に逃げていったどこぞのお嬢様の話は聞いたことがあるが、月に神様が住んでる?なんていう話は聞いたこともない。かぐや姫だって月から来たとかいう話だが、彼女だって別に神様とは関係ないはずだ。
「よくわかった。ということは、ひょっとして美佐が明日の夕方は巫女さんの恰好をするってことか?それは是非見てみたいな」
「ううん。もっと、きらきらしてて、神様みたいな服だと思う。私は、神様にささげられる存在だから」
「ささげられる?」
「うん。この村が永久に栄えるように、私は犠牲として『月の家』で神様をお待ちして、それから、炎に燃やされることで、私の心臓を神様にお届けして、神様の持つ力を一番強いものにするの」
「ちょ、ちょっと待て」
俺は驚いて、身体を乗り出して美佐に詰め寄った。美佐は驚くでもなく、冷めた顔で俺を見やっている。
「どういう意味だ?美佐が、炎に燃やされるって…そんなことしたら、美佐は死んじゃうじゃないのか」
「私は、そのために育てられたから。…月が満ち欠けを繰り返す永遠のシンボルなのと一緒で、女の子も、永遠を司る象徴なの。だから満月で金木犀が満開の日に、心臓を神様に捧げて、村の人みんなでお迎えすることで、神様が喜ばれるの」
「いやいや、ちょっと待て」
締め切られた小屋の中で、俺は大声をあげた。声の波の振動が、沈黙を揺らし、トタンに跳ね返って震えた。美佐はうつむいて、まるで悪いことをした子どものようにしょぼくれて、視界を暗闇の中に求めてばかりいた。
立ち上がっていた俺はまたゆっくりと美佐の横に腰を下ろして、ひざに顔をうずめて、息をついた。この小屋の外では雨が降りしきっているのに、俺と美佐は濡れていない。もうまもなく明日、犠牲として遠い世界に永遠に捧げられようとしているこの女の子が、とてもそうとは思えないような、質感と、透明さと、熱とを持ち、俺と一緒にここで雨をやり過ごしているのだ。
それでも死の暗鬱は、大きな口を開けて、彼女が見るのと見ないのとにかかわらず、歩く先に待ち受けているのだ。
「…えっと…」
つめたい息を吐きながら、俺は確かめるように話し始める。
「美佐はそんな風にならなくていいと思う。…そりゃ、この村の人にとっては美佐は犠牲で、神聖だとか触れちゃいけない存在だとか、そういう目でしか見られていないかもしれないけど、俺にとっては、同じ年の普通の女子なんだよな。だから、俺の勝手な意見だけど…そんなことしなくてよくね?って思うんだ」
「…」
だらりと下ろした俺の腕の先端に、シャツのそでからぽつぽつと雨水が垂れる。音もなく、俺の肌への刺激を繰り返す雨水を受けていると、自分がこの一様の暗闇に同化したかのような錯覚をしてしまいそうになる。地底湖のように深い闇の中で、俺と美佐はお互いの影を溶かしあって、一枚の板になっていた。
静かな嗚咽が、空間にひびを入れた。押し殺された小刻みな呼吸の音。
「……でも、でも…怖いよ、私は分からない、神様が月にいらっしゃって、みんなは神様に感謝しなきゃいけない、そのために自分が神様に捧げられるのは、世界のために重要で尊いことなんだ、そうやって私はずっと教えられてきた。けれど、どうしてこんなにも怖いの?素晴らしいことのはずなのに、疑っちゃだめなことのはずなのに…」
「美佐は、まだ死にたくないんだろう」
「うん…そうかもしれない」
美佐はすこし泣き止んで、軽い吐息を漏らして、再び黙り込んだ。
「美佐」
「なに」
「逃げないか、この村から」
「まさか」
「儀式は明日だ。少なくとも、明日の儀式の時間に姿をくらませていれば、ほら、確かその儀式って満月の日で金木犀が満開の日じゃないとダメなんだろ?だから最低明日さえ耐えれば当分の間はまだ儀式をやらなくてすむ」
「…」
「よく分からないけど、犠牲なんて他の子でも大丈夫なんだろ?女の子の心臓が欲しいって神様が言うなら、とくに美佐じゃなきゃダメっていう理由はない。そうだろ?」
「でも」
美佐が、はっきりした口調で遮った。平らかで主張のない今までの声とは違い、主張の強そうな、委員長みたいな声だ。
「陽太くんはどうするの?私一人だけじゃ逃げられないよ」
美佐はこのとき、逃げられない、と言ったのである。…何がそうさせたのかは分からないが、とにかくそういうことなら助けようがあるというものだ。
「そんなのは俺がなんとかするよ。俺は、美佐を助けたいし、普通の高校生に戻ってほしい。もちろん、美佐のいう神様のことは悪く言うつもりはないし、尊重はしてるけど…なんていうか、美佐には似合わないと思うんだよ、そういうの」
「そうなんだ」
美佐は小さくうなずいて、それからふっふっと短く息を漏らした。楽しいのか嬉しいのか、身体も震えているようで、恐怖に打ちひしがれているのか、希望を見出して興奮しているのか、読み取れない。
「私、陽太くんを信じてみてもいいのかな」
決行は、明日の正午に決まった。
明日は儀式があるので、農作業は午前中で切り上げる。
美佐の話では、午後三時くらいから、今日の午前中俺が用意した竹や枝きれのたぐいを村人みんなで儀式の場所まで運んで組み立てて、儀式で使う「月の家」を作るのだそうだ。その間は自由行動なので、美佐に会いに行くこともできる。
そのとき、俺は家を抜け出して美佐のもとへと向かう。美佐と一緒に、逃げるのである。
美佐も儀式の下準備で、衣装を準備しなければならないそうだが(衣装はこの世のものとは思えないほど美しく、真っ白な生地に銀色の刺繍がほどこされたものだという)、それをやる直前にこっそり抜け出すのだそうだ。その間に俺は美佐を連れてできるだけ遠くに走って逃げ、この村と外界の境界になっているという峠に向かう。
この峠は、美佐の話では、急な坂道になっていて、場所によっては村を一望することもできるという。途中には休憩できる場所があるので、そこで休みながらでも峠を越えれば、おそらく村の人間も追ってこられないだろう、という話だった。
雨がやんで小屋を出る頃、外は立ち込めていた暗雲が吹き払われて、少しずつ空が見えてきていた。ずっと暗い小屋の中にいたので、外に出た途端光がまぶしくて、目がくらんだ。
「じゃあ、また明日ね。人目についたらまずいから、明日はこの小屋の中にいる。ちゃんと来てね」
「おう」
美佐は、まるでプールから上がったばかりの人のように、髪を水でしっとりさせていた。そうすると彼女の輪郭がはっきりと見えるようになった。
光が妙にまぶしい。
…果たしてこんな計画を立てて、良かったのだろうか?
俺はそれからトイレで雨をやり過ごしていたことを伝えたら、父はふぅんと抜けたような返事をした。正直結果的に農作業の方はさぼってしまっているのだが、進捗の方は悪くないらしく、明日の午前中には終わるはずだという。
「ま、今日の雨のせいでちょっと遅れてしまったけどな。なに問題ない、その代わり明日陽太はしっかり働いてもらわないとな!」
「へいへい…」
晩ごはんの川魚の塩焼きをつつきながら、父が豪快に笑った。
「母さん、なんか上着的なのない?」
「上着?どうしたの」
「ちょっと寒くてさ。ここ風がもろに当たるから」
「待って」
俺のすぐ後ろが縁側になっていて、そこから夜の風が吹き込んでくる。もう秋が深まったのか、風の冷たさは厳しさを増しており、半そで半ズボンでいるのが辛いくらいだった。
(いよいよ明日か…)
晩ごはんを食べ終わって、俺は縁側の外をぼんやりと眺めた。空に金色の、まん丸い月がかかっているのが見える。しかし、あれはまだ満月ではないというのだろう。よく見ると、確かに月に影ができているようにも見える。
…あそこに、神様が住んでいるのか。神様はどんな人なんだろう。どんな服を着ているんだろう、長い髪で、平安時代の人みたいな長くて重そうな服を着て、それで、遠い地球の人達をどんな目で見守っているんだろう。月の上は、金木犀の甘い香りが立ち込めているのか…。彼女がしてくれた話は、宗教というよりもむしろファンタジーだった。もちろん今までに聞いたこともなかったが、空想的で、ロマンチックでさえあった。
けれど、その神話のために、自分の命まで捧げようなんて、あまりにも純粋すぎないか?自分は宗教にはまっているわけではないが、もしも神様か誰かのために死ね、なんて言われたら、絶対嫌だ。
いわゆる好意というものなのかは分からないが、もっと美佐のことを知りたいと思うようになっていたし、俺から見て美佐にとっては不幸的な──そのまま本人にとってイコールとは限らないのだが──運命から、守りたいし、「普通」へと戻したかった。…雨が上がって小屋から出たときに見た彼女の姿は、白い肌に水がしたたって、顔つきや体つきがうっすらと浮かび上がるように見えて、顔がほてるのを感じた。
ぼんやりと縁側の外の月を眺めていたら、後ろから父が呼びかけてきた。
「陽太、そんなにぼんやり月を眺めて、どうしたなのか?まさか、好きな子でもできたのかー?」
「ば、そんなわけないだろ!」
「そうだ陽太、明日の行事の場所を教えてなかったな。場所は、お前が知っているかは分からないが、北の方にある小高い丘なんだけど、金木犀の植わってる通りがあって、そこをずっと行ったところなんだ。場所分かるか?」
「んー」
そこはひょっとして、前に美佐と歩いたことのある金木犀の道じゃないのか。だとしたら、特に場所が分からないというわけでもない。
「たぶんそこかなーっていう気はするから。別に案内とかしてもらなくてもいいよ」
「そうか。ところで陽太、明日の昼食を食べたら、その場所に行って、ちょっとした作業があるんだ。今日の午前中に集めた竹を運ぶんだけどさ。そのときに、お祭りの詳しい説明もさせてもらうんだけど、来るか?お前にとってもとても有益な話になると思うんだが」
「有益な話?」
「そうだ。これから生きていく上で、絶対必要になるし役に立つ考え方や知識を教えてもらえる。ときに陽太、お前がなぜ生きているのか、何のために生きるのか、そういうことを考えたことはないかね?それは当たり前のことなんだ。しかしそこで考える中で、本当に大切なことに気づくことのできる人だけが、人生を幸福に過ごすことができるんだよ。大切なことを知らないまま生きるのは、非常にもったいないし、損なんだ。だから陽太にも一緒に大切なことは何なのかを考えてほしいから、新しい原理を学んでほしい。明日は村の人がたくさん来るんだ。お話聞くだけじゃなくて、おいしいジュースもおかしもたくさん用意してある。来ないか」
「…ああ、その、俺は別にいいや」
「陽太」
後ろで皿洗いをしていた母が言い終わらないうちに口をはさんできた。
「あんたはいつもぼーっとしてるから、考えないといけないことはいっぱいあるんじゃないの?私も行くんだから来なさい」
「いや、ちょっと行きたいところあるんだし」
どすどすと荒い足音が聞こえてきて、気づいたら父と母が並んで俺の後ろに立っていた。
「な…どうしたんだよ、二人とも」
父が、俺の肩をつかんでいった。
「陽太、明日は絶対に来い。明日の行事は事前に説明を聞かないと意味がないんだ。来ないと、お前は不幸になる」
「そうよ、何も怖がることはないのよ。本当に大事なお話だから、絶対面白いから」
「行かない。明日は…その…ちょっと用事が」
「陽太」
父が俺の肩をつかんでいた手にぐっと力を入れて、急に強い力が俺の肩に食い込んできた。その刺激が反射的に、俺の反感を呼び起こした。
「やめろッ」
俺は父の手を振りほどいて、そのまま走って自分の布団へと逃げこんだ。頭から布団をかぶって、ちぢこまって寝た。寝たふりをした。
これでいいんだ。このまま明日そのお話を聞きに行ったなら、そのまま美佐を見殺しにするも同じことだ。絶対見殺しにはしない。かといってこの村の連中はおそらくほとんど全員その宗教に染まっているだろうから、今さら誰かに助けを求めることもできない。
しいて言うなら、今日美佐が「逃げられない」という言い方をしたこと。この村から「逃げる」という発想を持っている彼女は、信じてもいいのかなという気がした。だからこそ明日の脱走は、なんとしても決めなければならない。そのことで胸が高鳴って目がさえて、なかなか寝付けなかった。深夜に一度目が覚めて、軽くシャワーを浴びたが、それからもほとんど眠れなかった。
翌朝。
「陽太、起床ー。起きろー、起きろ朝だぞー。農作業に行くぞ」
「んん…」
いつものように朝早く父に起こされ、重い身体を起こす。
顔を洗って朝ごはんを食べて、農場へ。
昨日、俺が勧誘を断ってそのまま寝てしまったことがなかったことのように、父は溌剌としていて、今日の農作業の段取りだとか、これまで頑張った俺をねぎらうようなことをしゃべった。よく晴れた日だ。
この分では、夜にも綺麗な満月を見上げることができるだろう。
空の色が濃い青色になり始めたころ、農作業を始めた。いつもと同じように、草むしりをして、向こうの方では父が機械を繰りながら農作業をしている。今まで俺が草むしりをしてきた部分を見やると、相当な面積にのぼっていた。連日の農作業による膝の痛みをひしひしと感じながら、流れる汗が風に吹かれて涼しくて心地よい。
四方を見渡すと、青々とした稜線が村を囲っていた。この山の向こうに、開かれた世界が広がっている。俺はその世界を知っているけれど、美佐はそれを知らないのだ。そのことが、俺にはどうにも信じられない。だから、彼女はこの外の世界を知らなければならない。月の神様がどうとか、信じているのは純粋でいいけど、そのために心臓を捧げろなんて滅茶苦茶だ──と思ってしまう。だから、美佐に外の世界を見せなければならない。そう思うと、自然と今こなしている農作業にも力が入って、頑張ろう!という気持ちになる。
ひょっとしたら恋愛感情かもしれなかった。
日差しの下で、したたる汗の珠も、土のかけらも、空もすべてがキラキラと輝いて見える。今日の午後、二人きりで、この山の向こうへと旅をするのだ。見えない狂気で満ちたこの村の空気から、彼女を切り取って洗うことができるんだ。
その時間が、体験が待ちきれなくて、ちっとも時間が進まない中、俺はもくもくと農作業を継続する。
昼食を食べ終わると、俺は逃げるように農場を抜け出して、昨日の小屋へと向かう。
農作業はギリギリ終わったとのことだった。やはり昨日の突然の雨が響いて、今日少しペースを上げてやっと終了できたのだという。ささやかな労働の快楽が身体に染みた。
しかし、そのことと今夜の儀式のことは別問題である。
農作業が終わった達成感にひたる間もなく、俺はまっすぐと彼女のもとへと向かった。手には小さな水筒ひとつ。今日の午後はいっぱい歩くだろうから、できるだけ消費せずにとっておいた。
建付けの悪いドアを開けると、そこに稲袋に座った美佐がいた。
「おまたせ」
「遅いよー陽太くん。けっこう待ったんだからね」
「すまんすまん。ちょっと作業が長引いてさ。けど、今日でいちおう農作業は終わりだってさ」
「そう。良かったね。」
美佐は立ち上がって、俺の横をすり抜けて、「さ、こっちだよ。走ろう」と俺を招いた。周囲に人声は絶えていた。秋の日差しと、虫の声、草のこすれる音。軽い足取りで走り始めた彼女は、陰気で清狂な犠牲の姿を感じさせない、どこにでもいそうな女子に見えた。
日が高く登る。
「…ふう、美佐、いったいどうしてこんな道知ってるんだ?村からはだいぶ離れたような気がするんだけど」
「あんまり覚えてないんだけど、昔小学校のときに、クラスメイトがこのあたりに外につながる道があるって言ってた気がするの」
朝はだいぶ冷えていて涼しかったのだが、昼になるとどうも急激に暑くなってきたようだ。真夏ばりの熱気が周囲に立ち込め、湿気の多いこもった熱風が全身に吹き付ける。
二人で並んで走っていたのだけど、お互い暑さで疲労困憊してしまって、しばらく歩こう、ということになった。
「そういえばさ」
「なに?」
「美佐ってさ、好きな子とか、いるのか?」
「えっ?」
「だからその…恋みたいな」
「恋…」
美佐は少し目を細めて、ふっと口元をゆるめた。
「あはは、おかしいね。私は神様に捧げられる犠牲なのに、誰かを好きになるなんて、ありえないよ」
「美佐は犠牲じゃないよ」
「…」
「…」
「もうやめて」
美佐は苦しそうに俺の話を遮った。
「正直、私、まだ死ぬんじゃないかっていう確信が抜けていないの。…今まで私が信じてきた神様が存在しないことはありえないって思ってるし、それなら私は犠牲にならないといけないんだってことも、最終的に私はそうすべきだしそうするに違いないんだってことも…」
「それなら、どうして美佐はここにいるんだ」
それきり、美佐は答えなくなってしまった。さながら夏のような暑さ。美佐も俺もひどく汗をかいていて、あの小屋から走って小一時間もしないうちに、走っていたところを歩くようになり、やがてそれさえもままならず、休憩できる場所を探そう、ということになった。
「ふう…ふう」
「うん…ううん」
峠にさしかかり、坂道が多くなってきた。
道もあまり整備されていないのか、石が多くごつごつとしていて、一歩踏みしめるうちにもごっそりと体力を持っていかれてしまう。足が痛い。
高温も相まってしんどくなってきたので、俺と美佐は休憩できる場所を探すことにした。
道をそれて山道をしばらく歩くと、そこに緑色の水をたたえた大きな湖のようなものが見えた。
そのほとりに、ちょうど人が腰かけられそうな木があって、そこに美佐は腰を下ろした。
「よし…疲れたし、ちょっとここで休憩しよう。」
水辺の近くだから風が涼しい。この湖の近くで少し休憩してから、もう少し坂道を登れば、きっとこの村から逃れられるだろう。ゴールはもうすぐそこだ。
「ふうー…汗やばいな。水筒にお茶あるんだけど、美佐も飲む?」
「飲む」
お互いひどく疲れていたので、俺と美沙で水筒をシェアしたのだが、一気に中身が減ってほとんどなくなってしまった。
「あー…疲れたなー…」
「うん…すごく疲れた…」
湖の水が山の緑色を映し出して、ゆらゆらとさざ波の合間に揺れている。水の上を通る風だから、熱気はなく、涼しい。また俺たちは木陰に座っていたので、日も遮られて、すこぶる快適だった。
時間の流れが止まったような気がした。
この場所、この時間が、永遠に続いたらどんなに良いだろう。
「それにしても、『女の子の心臓が欲しいから焼いてくれ』って、どうしてそんな無茶なことを言う神様がいるんだろうな。なんなら、俺の心臓でもいいのに。俺が代わりに犠牲になったろか?」
「うーん、それね。私も正直ずっと疑問だったんだけど──おばあちゃんは、女の子じゃないとダメなんだって」
「ふぅん…変なの」
「誰がそんなこと考えたの?って聞いたら、ずっと昔、遠い国から来た人たちが教えてくれたんだって。その人たちを祀るお寺って、実はこのへんにはすごく多いんだよ」
「へーえ」
「ねえ陽太くん、陽太くんの通う学校って、どんな感じなの?」
「どんな感じって…なんだろ、勉強は面倒くさいけど、楽しいよ」
「部活動とかあるの?」
「あるよ。俺はハンドボール部に入ってるよ。弱小チームだけど。けれどおもしろい奴ばっかりだから楽しくやってる」
「ハンドボールって何?」
「え、ハンドボール知らないのか。こうやってボール持ってさ、サッカーみたいにゴールにボールを入れるスポーツだよ」
俺はハンドボールのシュートのしぐさをしてみせる。美佐はぽかんと口を開けて見入っている。何をしているのかよくわかっていないらしい。
「陽太くん運動神経いいんだー」
「いや、それほどでもないけど。美佐は、何か部活動入ってたの?」
「うん、私は中学までは普通の学校に通ってて、吹奏楽部に入ってた。けど、先生がすごく厳しくてね。あんまり楽しいって感じでもなかったんだよね」
「吹奏楽かー。楽器はなにを?」
「トロンボーン。渋いでしょ。私はけっこう好きな音だったけど。ぷぉーんって。ちょっとユーモアがある感じ」
美佐は音楽が好きなのか、しばらく部活のこと音楽のことをいろいろとしゃべった。思いのほかお茶目なところがあるみたいで、ところどころに冗談をはさんできて、面白くて、俺はふふふと笑った。
彼女はおしゃべりが好きだった。俺は笑うのが好きだった。
「でもね私ね、高校からはもう普通の高校に通えなくて。儀式の犠牲になる子は、もうそういうところにしか通えなくなるの。今までも何人もいたんだけど、結局その子たちもみんな犠牲になっちゃって」
「いやいや!もう美佐は神様のことなんて考えなくていいんだよ。音楽好きなら、外の世界の高校に行っても吹奏楽部に入ればいい。あ、最近は軽音楽部も人気なんだよなぁ。」
「軽音楽!私、ボーカルとかやってみたい!」
「ボーカルかぁ、花形だなぁ~。美佐は歌うのが好きなんだ」
「うん。中学校のときも合唱が好きだったよ。」
美佐はフンフンと、ハミングで何か歌を口ずさむ。音は微かで、何の歌かはいまいち分からなかった。ひょっとしたら、この村にしかない、民謡のたぐいを歌っているのかもしれない。
「素敵な歌だな…」
「…そうだね…いい歌だよね…」
ひゅう、と風が吹いて、葉がすれる音がした。
森のどこかで、鳥がさえずる声がする。
俺は美佐の手を握っていた。
美佐は話しつかれて、俺は笑いつかれて、すっかり眠たくなってしまっていた。誰かに追われるとか、焼かれるとか、そういう今まで自分たちの現実を覆いつくしていた過激な世界観が、ひどく非現実的なことのように思われて、ただ、けだるさに身を任せて、そのままとろとろと眠ってしまいたくなった…。
「起きろ、陽太」
「ううん…」
気が付くと、そこは以前美佐と行ったことのあるあの丘──つまり儀式が行われる場所だった。俺を起こしたのは父である。
夜になっていた。周りでは、いくつも松明が燃えている。煙の濁ったにおいと、ひんやりとした金木犀の香りが混じりあって、気分が悪くなった。
周りには、白い服を来た神官ふうの人たちがさかんにひれ伏しながら、なにやらお経のようなものを唱えている。
小高い丘の上に黄金の満月がぎらぎらと光っている。その真下に見える、竹と枝きれで作られた、とんがり帽子のようなかたちの大きなオブジェ。──「月の家」だ。
「こ、ここはどこだ!」
「陽太、これから儀式が始まるんだ。静かにしろ。お祈りはすでに始まってる。まもなく、一番神聖な、犠牲を神様に捧げる儀式が始まるんだ」
「な、なんだって」
おそらく村中の人がここに集まっているんだろう。「月の家」を中心にぐるりを取り囲む人の数は尋常ではなく、一人一人が地面に頭と両手をついて、土下座をしているみたいに平伏している。
やがて、白装束のおじいさんが大きな壺のようなものを持って、祭壇を取り囲んでいる村人たちが持っている小さな皿にすこし液体を注いでいるのが見えた。液体を受け取った人は、再び地面に平伏した。
やがて白装束の男は俺と父のところにも来て、父は皿を二枚出して液体を受け取った。透明の液体が皿にわずかに盛られて、父は俺にそれを手渡した。
「陽太、もうすぐ祈りの言葉が終わったら、神官の人が捧げられる犠牲を連れてあの祭壇に上ってくる。それで、祭壇の上の神官の人が、祈りの言葉を唱え始めたら、すぐにこれを飲むんだ。16歳なら大丈夫。そのあと、犠牲が『月の家』に入り、火が放たれる。このとき、炎の陽気と満月の陰気が調和し、神様の力が一層強くなるんだ」
「飲んだらどうなるんだよ」
「なんてことはない。ちょっと明るい気持ちになるだけさ。そのうちに、犠牲が神様のもとに届けられて、最高の熱狂を迎える。みんなで熱烈に踊って騒いで、神様をお迎えし、お祝いするんだ」
そう言っているうちに、周りがしん、と静まり返った。
夜の静かな風に松明の火がゆらゆらと揺れる。
水を打ったような、異常な静寂。
やがて、おごそかな顔をした神官二人がゆっくりと『月の家』の近くまで登ってきた。
そして、その二人の間には、巫女装束を着けた、美佐がいた。
あ、と声が出かけたが、この場の沈黙は殺気のように俺を押さえつける。
声が出なかった。
美佐は今までに見たことないくらいに真っ白で、特殊な化粧を施されているように見えた。純白の装束にはところどころ銀の刺繍が施されており、もはや美佐自身がこの世界の神様であるかのような神々しさを漂わせていた。
ばさ、と神官の一人がお祓い棒のようなものを振ったかとおもうと、異国的な抑揚のついた一本の音の波が、周囲へと広がった。
すると、周りの人は一斉に手に持っていた皿を傾けて、液体を口へと流しいれた。
やがて、湧き上がってくる大歓声、奇声の波、興奮の渦。その中心で、美佐は仏様のような笑みをたたえながら、ゆっくりと、「月の家」の中に入っていく。
神官の声はさらに張り、やがて言葉を話し始め、早口になったり止まったり、頭が変になりそうだ。
──儀式が始まる。美佐が、危ない。
とっさに、俺は走り出して、美佐を助けようとした。
しかし、隣にいた父に肩をつかまれた。
父は何かを話したようだったが、もはや聞き取れなかった。がなり声で、人の言葉を話しているようには思えなかった。
ただ、俺をつかむ力は強くて、気づいたら周りの人全員が俺をつかまえていて、身動きがとれず、俺の手から奪ったあの液体を、俺の口へと流し込まれていた。
力が抜けて、その場にばたりと倒れる。かろうじて起き上がって、「月の家」へと向かおうとしたが、おかしい。身体がじんじんと痺れて頭がぼんやりとするのに、ひどく陽気な気持ちになって、叫びたくなった。
―――――!
身体が浮き上がるようで、震えが止まらない。祭壇の上で何がおこなれているのかもわからず、ただただ絶叫する。
やがて、顔、腕、足などの素肌という素肌に強い光と熱気を感じた。「月の家」に火が放たれたのだ。ぱちぱちという軽い音から、やがてばちばちという激しく爆ぜる音へ、燃えるときの音が変わっていく。もうもうと煙が立ち上り、濃いカーテンになって、満月の清らかな光を遮っていた。
異国的な音色の笛や太鼓がかき鳴らされる。燃えさかる「月の家」の周囲で、人々は身をひるがえして踊り、歌い、叫ぶ。誰もかれも、顔が夜の火影に照らされてほんのり紅色に輝いている。風が火の子を散らして、ときどき踊る人が火の子を避けて走るさまが見える。あっという間に、「月の家」は火だるまになり、面影さえ火影の中に埋没した。
そのうち、足がもつれて、立っていることができなくなって、そのまま俺は倒れてしまった。
気を失う直前、あの、金木犀の濃い香りが、むせるように鼻孔に満ちるのを感じた。
はっと目が覚めて、反射的に身体を起こした。
…夢だ。
目の前の湖が、ぴちゃぴちゃとさざ波をほとりに返しながら、きらきらと金色に輝いているのが見えた。昼までの熱気は幻想のように、夕方の風が優しく、湖の上をなでる。
…いつの間に寝てしまったんだろう。
それにしても、気持ちの悪い夢だったな…。
ため息をついて、俺はあることに気が付いた。
隣にいたはずの美佐が、いないのである。
おかしい。確かに俺は美佐と一緒にここにきて、そうだ、さっきまで普通に話していた。軽音楽が好きだという話をしたじゃないか。外の世界に行ったら、部活動に入って、ボーカルをやりたいとか言っていた、美佐は確かにここにいたはずだ。けっこうおしゃべり好きだった。
…まさか。
俺はいてもたってもいられなくなって、すぐに立ち上がって、峠を降りて儀式の場所へと急ぐことにした。また日が落ちていないから時間はあるはずだ。月が上るにはまだまだかかるはず。登りはきつかったが、下りはなんとかなるだろう。
儀式が始まるまでには、必ず──。
日が暮れて、あたりは薄暗くなってきた。
ネオンであふれた都会の夕暮れとは全く違う、どこか底知れぬ、拭い去ることのできない闇が、一面に降り始める。
美佐はおそらく、自分一人で儀式へと戻っていったのだろう。
さっきまで、楽しそうに話をしていた彼女が?
とても、信じられない。
けれど、その最悪の予感はおそらく当たっている気がして、俺は峠を急いで下った。
途中、村を一望できる場所があって、そこから村が見えたのだけど、夕陽の赤い光の中に村全体の影が浮かび上がって、血みどろの池のようだった。
すでに大きな満月が上り、道もすっかり暗くなったが、わずかな街灯を頼りに道を急ぐ。
俺はなんとかいつもの郵便局の界隈にたどり着いた。人気が全くなく、ゴーストタウンになったように静まり返っている。
そこから、前に美佐と通った、金木犀の通りを抜けて、父が言っていた、あの儀式の会場へ。
人をかき分けかき分け、俺は中の方へと向かって走る。
視界が開けた。
黒っぽい炭の堆い山のそばで、ちろちろと炎が燃えていた。
──「月の家」は、もう燃えてしまったのか?
「月の家」の近くには、白装束の神官が二人。神官の人たちは神妙な顔つきで祈りをささげていたかと思うと、やがて「月の家」から離れていった。「月の家」の炎も、ほとんど燃え尽きたのか、消えかかっていた。
皆、呆けて力が抜けたような顔をしていた。祭壇を取り囲んでいた人たちが、少しずつ散っていく。その中に、俺は父と母の姿を認めたので、そちらに走って行った。
「と、父さん」
「おう、陽太じゃないか。結局来てたのか?昨日はすごく嫌そうだったから無理に連れていくのは辞めよう、という話を母さんとしてたんだけど」
「それより、儀式は?儀式は、どうなったの?」
父は不思議そうな顔をして、大きな目で俺の方をじっと見つめてから言った。
「もう終わったよ。今から家に帰るんだ」
俺の身体中から血の気が引いた。
「お、終わったって、犠牲の子は?美佐は、どうしたんだ?」
「無事に終わったよ。『家』ももう焼いた。で、誰なんだその美佐っていうのは」
「誰って、美佐だよ!犠牲になった子の名前だよ!美佐は、本当に死んじゃったのか?!」
「はて」
父はだるそうに答えた。
「美佐なんて子知らんなぁ。それに、犠牲の子には名前なんてもともとないようなものだ。なにせ、神様に捧げられるだけの身なんだから」
「え…?」
「ほら陽太、もう遅いし帰るぞ。明日、ここを出る準備をしないと」
「…うん」
父に言い含められて、息を吐くときには、俺はすでに納得させられてしまっていた。
「美佐」という女の子は存在しなかったのか。
いや、けれど、確かに俺は「美佐」と名乗る女の子とこの数日間話して、犠牲になるんだという話もして、それが俺は嫌で、彼女と一緒にこの村を出ようとした。幻でもなんでもない、すべて本当にあったことだ。
してみると、彼女は俺にだけ本当の名前を教えてくれたのだろうか。
すでにほぼ消えかかった、「月の家」の炎。あの中で、すでに「美佐」の身体はなくなってしまったのだろう。煙がもうもうと夜空高くまで上がる。
俺は目の前が真っ暗になった気がして、ふらふらと、金木犀の通りをのぞいた。
金木犀の並木は、月の光の下で、何も知らぬげに、風に揺れて、甘い残り香をふりまいていた。
俺の部屋。
秋の休みは今日で終わりだ。
しばらく休んでいたから行きづらいが、それでも「家の都合」なのだからうるさくは言われないだろう。
あとは寝るばかりになった。明日からは普通に学校に通わなければならない。面倒くさいなぁ、と思う。学校が嫌というわけではないけれど、すすんでいきたいものではないし、かったるい。
また明日から日常に戻っていくのだ、と思うと、自然と休み中のことを思い出した。
父の田舎に行って、異常な体験をした。
あれから父は何事もなかったかのように過ごしているし、母も月の神様がどうとかいう話は一切しない。
けれど、あのとき俺が見たものは、真実に相違ない。「月の家」に燃える炎、その中で燃えたもの…。あの記憶はモノクロだけど、それだけに、あの強い光が焼き付けた火影は、今でも俺の目をくらませるかのようだ。たとえその面影がにじんだとしても。
「美佐」が持っていた神聖な記号、彼女はあえて俺にそれを教えず、本当の名前で俺に接した。
しかし、それならばなぜ、彼女は再び暴力的な信仰のために、自分を犠牲にすることを選んだんだろう?
明日からの学校の騒々しい毎日が思い起こされて、やかましさの中にこの異常な記憶は徐々に音をひそめていくようだ。教室、友人の顔、制服、運動場の砂利、色とりどりの光が頭の中にあふれる。
なんとはなしに俺は窓を開け放して、夜風を浴びた。
ふと、甘い香りがする。
…金木犀だ。
この近くに、金木犀が植えてあっただろうか?ひょっとしたら、誰かがどこかに植えたのか、それとも…。ほとんど嗅ぎ取れないほどの金木犀の香りが、やわらかい夜風に運ばれて、俺の部屋に届いている。かすかな息づかいと、触感とともに。
俺は窓から顔を出して、欠けた月を眺めた。…意外と、美佐は、あの月の上の世界で、元気に暮らしているのかもしれない。
月が欠けてもまた満ちるように、「美佐」だってきっと生きているのではないだろうか…。
音が消えて、かぐわしく甘い煙が、目にしみる。
あの一瞬の夢の中で永遠に失われたものを再生したい、という想いは、ちょうどこの感情と同じように、あまりにも不確かで、無力だった。