疼き
彼女の腕には大きな傷痕があった。それは幼い頃うっかり薬缶をひっくり返してできた火傷の痕なのだと彼女は言っていた。もう随分昔にできたはずのその傷は、今だに彼女の細く白い二の腕から手首の近くまでを赤黒く染めていた。
彼女は大人しく控えめな性格だったが、微かに見える痛々しい傷痕の為にどこか異様な存在感を持っていたように思う。夏の日差しの下や冬の少しだけ暖かい部屋の中で彼女がいつも着ている長袖の隙間からちらりと覗くそれを私は幾度となく見ていたはずが、そこから目を逸らして誤魔化すようにぼんやり彼女の輪郭を見つめることはどうしてもできなかった。私は彼女をごく普通の友人として扱うように努めていたが、ひとりでいるときにふと彼女のことを思い出すと、あの爛れた傷が私の思考にじわじわと侵食し脳内を赤く塗り潰してゆくのだった。
あまり打ち込むもののなかった高校時代を終えて家から少し離れた平々凡々な大学に合格し、入学式の式典後に桜の舞う中でぼんやり帰途についていた私に声を掛けてくれたのが彼女だった。ぱっとしないタイプだったので初めは気付かなかったが、どうやら彼女はクラスは違っていたけれども同じ高校に通っていたらしい。まだ友人の少ない大学で心細かったのもあり高校時代の思い出を語り合って大いに盛り上がった。その場で連絡先を交換し、また会う約束をしてその場を別れた。
それからは彼女が仲の悪い親から独立する為に一人暮らしをしているのを知り、時々家に遊びに行ったり二人で街に出かけて大学生らしいちょっとした夜遊びをしたりもしていた。
彼女の異変に気づいたのはちょうど6月の終わりで、だんだんと気温が上がりパステルカラーの服を着た女子大生がもうすっかり居なくなった頃だった。周りがどんどんと薄着になっていく中で頑なに長袖を着続ける彼女に薄っすらとした違和感を覚えたが、そういった服装の好みもあるかと深くは聞かないでいた。
長い長い授業が終わりいつものように彼女の家へ遊びにゆくと、大学の教授がしていた面白い話や好きな俳優の電撃婚の話などとりとめもない話題で盛り上がり、その日はつい時間を忘れてはしゃいでしまった。ふと気付いて時計を見ると、とっくに終電の時間は過ぎていた。私は真っ青になって親に連絡をし、彼女に平謝りをして家に泊めて貰うことになった。彼女の方も私を遅くまで引き留めてしまったことを申し訳なく思っているようで何度もごめんねと謝ってくれたが二人で謝りあっていることがなんだか可笑しくて結局お互い様だということにした。
理由はどうであれ私は大学に入って初めての外泊に浮かれ、近くのコンビニですまし顔をしながら買った安い酎ハイにもかなり酔っ払っていた。さらに夜も更けてようやく話も落ち着き、うっかりするとそのまま眠ってしまいそうな私に彼女はメイクを落としてシャワーを浴びるように勧めてくれた。さっとお湯を浴び、貸してもらったジャージを着ると私は余りの眠気に髪を乾かすのもそこそこにして彼女が用意してくれたマットレスの上に横になった。そのままうとうとしていると不意に横で人の動く気配がして少しだけ目を開けた。見ると、私の後にシャワーを浴びていた彼女が箪笥の一番下の引き出しを開けて着替えを探しているところだった。私はその時になってようやく彼女に対して抱いていた違和感の正体に気付いた。
彼女は既に私が眠っていると思ったのかタオル一枚を纏った無防備な姿でそこに屈んでいた。彼女は小柄ながらも体に巻きつけた布地の上からもはっきりとわかるほどに美しいシルエットをしていた。ぎゆっとくびれたウエストや細い足首を持ちながらも全体的に丸みを帯びた柔らかな身体つきをしていてタオルで締め付けられた豊満な胸元はなんだか窮屈そうにしていた。まだ風呂場から出たばかりで上気しているしっとりとした肌に幾つもの雫を滴らせ、私を含め多くの女性が憧れるであろうあの真っ白な頬は薄いピンクに変わっていた。
彼女は立ち上がって纏っていた最後の布を床に落とし、下着をつけ始めた。どこか現実離れした理想的な肢体が肌色を目に焼き付けながら蠢く様子は同性でありながらも見てはいけないようなものを見ているような背徳的な気持ちにさせた。彼女がブラジャーのホックをを留める為に背中に手を回しぐっと両腕を上げた時、俄かには信じられない光景が飛び込んだ。今まで釘付けになっていた彼女のなめらかな肌とは明らかに異質な存在がそこにあった。さっきまでは体に隠れて見えていなかった彼女の左腕の内側の皮膚には引き攣った醜い傷が大きく刻みつけられていたのだ。その傷跡はつい最近できたものではないとはわかるが、生々しく肌を抉りぐじゅぐじゅと焼け爛れた当時の色をそのまま残しているようだった。あまりに衝撃的な傷に私は思わず目を堅く瞑り、彼女が隠していたことの全てを悟った。
その夜はそれからひと言も発することはなくひたすらに寝たふりをしていたが、私の脳裏には彼女の艶かしくしなやかな身体とグロテスクな傷とが浮かび上がり碌に眠ることができなかった。
ようやく朝を迎え、彼女が平然として「何が食べたい?」とはにかみながら朝食の準備をしてくれているのを横目にしつつ、私は漠然と最早彼女を昨日までと同じ様には見れなくなってしまったのかと考え、彼女の知らないところで秘密を知ってしまったことに対して後ろめたい気持ちで一杯になっていた。
しかし、それによって彼女との交流が変わることはなく大学では一緒にお昼を食べ、時々二人で映画や買い物に出掛けていた。私はなるべくあの夜見たものを全て忘れて変わらず彼女と接するように心掛けたが、忘れようとすればする程、目に焼き付いたあの傷跡が蘇ってくるのだった。そんなことを繰り返している内に私は彼女といる際にぼんやりしていることが随分増えてしまっていた。何か悩みがあるのかと心配をされたがもちろん原因を言える筈もない。彼女はそれを私が彼女に対して聞きたいことを聞けずにいるのだと受け取ったのか自らぽつりぽつりと話し始めた。自分がいつも長袖を着ている理由と傷跡によっていじめられていた過去、今まで黙っていて心苦しかったことなどをひどく切なげに語っていた。傷自体は見せられないけど、と腕を押さえ困ったように笑っている彼女にその傷を盗み見るようにして見てしまったことはついに言い出せなかった。
私の中に若干の罪悪感を残しつつも、彼女が自分の秘密を打ち明けたことによってぎくしゃくしていた二人の関係は時間とともに少しずつ元の状態に戻っていくかのように思えた。しかし夏場の少し生地の薄い服の袖からほんの一瞬あの傷が見える度に私の胸はどくんと跳ねるのだった。ある時私はなるべく平静を装いながらさりげなくその傷跡はもう痛まないのかと聞いてみると、彼女は不思議そうな顔をして今はもう殆ど痛まないと答えた。殆どということはごくたまに痛みを感じることはあるのだろうか。そして果たしてそれはどんな痛みなのだろうか。
その頃から私は奇妙な妄想に取りつかれるようになっていた。夜な夜な寝付けない私の頭の中にあの時見た傷跡が現れ他のことを考えられないようにさせるのだ。膿み爛れて赤々とした傷がぱっくりと口を開き火がついたように熱い痛みを放ちながら皮膚のはるか内側までをも晒け出し、おぞましい蛇の様にくねくねとうねりながら腕から身体全体に広がっていく姿を何度も夢に見た。その度に私は悲鳴をあげ目を覚ましぐっしょりとした寝巻きの裾をまくり自分の腕を確認せずにはいられなかった。彼女の傷は少しずつ私の精神に感染していくような感覚がしていた。
私は彼女の秘密をすっかり忘れて穏便に済ませたかったが、どうしても傷跡は頭から消えてはくれなかった。むしろ時が経つにつれてどんどんと彼女と傷とは結びついてゆき、彼女を見ればあの傷と空想の痛みを思い出し、あの悪夢を見ては彼女を思い出すのだった。もはや私にとってあの傷は彼女そのものになった。彼女の事を考える時私の左腕はあるはずもない傷によってじくじくと疼いた。
私はあの傷を恐れながらも、彼女から離れることはできなかった。目を覆いたくなる気持ちとは裏腹の感情が心の奥底から湧いてくるのを感じていた。
彼女と出会ってから、授業を受けてバイトに行き、時々二人で遊びにいくという同じような毎日を繰り返している内に大学生活も折り返し地点を迎えた。一緒に過ごす時間が積み重なると彼女について知っていることは徐々に増えていく。好きな食べ物、好みの服装、話し方のちょっとした癖、その他にも私は彼女に関しては誰よりも詳しいのではないかと思える程常に側にいた。彼女は肌を見せることを極端に嫌い、その事が原因で異性から好意を寄せられても怖じ気づいて逃げだしていた。数少ない女友達とばかり遊んでいる彼女を、秘密を知っているという優越感と臆病な姿に対してのいじらしい思いで見ていた。人に頼ることを苦手とし人前では張り詰めたようにしゃんとしている彼女が、二人きりの時は私にだけ心を許しありのままを見せることにえも言われぬ充足感を覚えたのだった。この感情をなんと名付ければよいのか、私にはわからないでいた。
私は普段彼女と過ごす時間以外も毎日大学構内や帰り道の人波に彼女を探し、遠くからじっと見つめていることが多くなった。そうしていると左腕の血管がどくりどくりと収縮し甘やかな痺れが訪れる。これは私の痛みであり彼女の傷の本当の痛みなのだとなぜか私は確信していた。いつの間にか私は中毒者の様に彼女によってもたらされる痛みを求めるようになっていた。熱く疼く感覚は一種の快楽へと変わっていたのだった。
季節が移り変わり日が経つごとに真夜中の私の妄執はどんどんと歪に形を変え、狭い頭蓋の中で発酵し膨れ上がり骨を押し退けて破裂しそうだった。熱に浮かされた頭で私は精神上で彼女と同じ傷を共有し、彼女と私は単なる友情を超えた特別な関係であると考えるようになった。あてもなくふらふらと飛び回る蝿のように飛躍した論理によってとうとう私は彼女の傷そのものになりたいとさえ思った。あの美しい肌に入り込み、彼女の心を縛る鎖になりたい。劣等感と自己嫌悪を植え付けながら逃れられない痛みとともに彼女の消せない存在となり、唯の一人も寄せつけず一生を共にしたい。
そこまで考えたところで私はようやく我に帰った。酔いが覚めるように急激に現実に戻っていく。さっきまで左腕から全身を支配していた痺れはいつの間にかなくなっていた。私はなんてことを考えていたのだろうか。一時の気の迷いとは言えこんな仄暗い欲望を自分が抱えていたことに驚き、しばらく震えが止まらなかった。
それから私は彼女から離れ、ただの同じ大学の友達の一人として自分の気狂いじみた考えや汚れた欲求を見せないよう振る舞うことにした。友達の少ない彼女は距離を置かれたことに寂しそうにしていたが、それも一瞬のことで直ぐに別の友人となんとか仲良くしているようだった。私は自分で決めたこととはいえ、彼女のことを何も知らずに側にいる友人に堪らない嫉妬心を抱いた。彼女と会う回数が減ってもあの痛みが無くなることはなかったがそのことに私はどこか誇らしい気持ちだった。
あっと言う間に月日は流れ私は地元の役所へ就職を決め、彼女は東京へ行って夢だった広告業界で働くことになった。卒業式で彼女はもう気軽に会えなくなるね、と涙を流してくれていた。必ず連絡をすると約束をして私達は別々の人生を歩みだした。
仕事を始めてからも私は彼女を忘れる日はなかった。実際に連絡を取って会っていたのは最初の一年ほどで、お互い忙しさの為に徐々に連絡する回数が減りいつの間にか無くなっていた。それでも、夕暮れの人の多い街中で信号を待ちながら何を考えるでなく立っている時や、雨の日の夜の静かでひんやりとした部屋の空気の中、美味しそうなレストランのショーケースの前や旅行先の遥か彼方を見渡せる綺麗な風景に彼女は度々現れた。彼女に似合う白いワンピースを着て、ふざけた時によくする悪戯っぽい笑みを浮かべながらこちらを見ていた。長袖にはなぜかはっきりと傷跡が透けている。居もしない彼女を幻をじっと見つめていると、ついさっきまで忘れていた疼きが、また戻ってきた。
大学を出てから五年が経ち、職場の後輩があれよあれよと言う間に増えてゆく頃だった。私は沢山の蝉が命を振り絞りミンミンと傍迷惑に鳴いているのを聞きながら同窓会の連絡に目を通していた。同じ学部の仲の良かった面子で食事でもしようという内容だったが、その中には勿論、彼女も含まれている。私はすぐさまスケジュールを調整し、子供の様に指折り数えてその日を待ちわびた。
待ちに待ったその日、私は下ろしたての青いフレアスカートに白のブラウスを着て誰よりも早く待ち合わせ場所に着いていた。お店に移動する前に最寄り駅の時計の前で集合することになっていたので近くに休める場所も見当たらず、仕方なく通り過ぎていく人々を見つめながらゆっくりと思考を巡らせ始めた。彼女はどうしているだろうか。私はいつもしているように頭の中に彼女を思い描いた。
儚げで可愛らしい子だった。病的なまでに白い肌をしていて肩のあたりで短く切り揃えた黒髪がさらさらと揺れている。
彼女はあの頃と変わらず、ひっそりとした佇まいで人を寄せつけず孤独に生きているのだろうかと考えていると、私の中で熱い血が流れ始めた。
私がどこか遠い世界で大学時代の彼女と対面していると、ふいに後ろから声を掛けられた。聞き間違えるはずもない彼女の声だ。私はもはや反射的に振り向き久しぶりだと挨拶を返そうとした。しかし、その言葉は喉の辺りで引っかかり音にはならなかった。
彼女は年相応に大人びた姿ではあったがあの頃よりも随分と明るい雰囲気へと変わっていた。長く伸びた髪をハーフアップに結いあげ、目鼻立ちを普段以上にしっかりさせる濃い化粧をしていた。彼女は、私の想像通りによく似合うレース編みの白いワンピースを着ていたが、一つだけ大きく異なる部分があった。夕方とはいえむっとするような真夏の空気の中にワンピースの短い袖から涼しげに両腕を晒している。
ーーーない、傷が、どこにも。左腕を見ても右腕を見てもあの傷跡は全く見当たらず、あるのはごくごく普通の細い腕だった。私は夢でも見ているかのような気持ちになった。
出会い頭に突然石のように硬直してしまった私に彼女は不審そうな顔をしたが、暫くして私の目線から原因に思い当たったのか、顔を寄せて小声で話し出した。聞くと、働いて貯金したお金で思い切って美容整形手術をしたのだという。よくよく見れば少しだけ跡は残っているが人前に出しても恥ずかしくない程度にはなったと笑う彼女の言葉は、私の頭を右から左へと通り抜けていった。
それからのことはよく覚えていない。ぱらぱらと人が集まり、昔と変わらないメンバーが遅刻だと皆でからかっていることや、ホテルの有名シェフが用意したこだわりメニューのディナーだとか、つい最近婚約したんだと嬉しそうに話す彼女のことも全部、どうだってよかった。目の前に彼女さえいなければ大声で叫びだしそうだった。
傷の無い彼女と再会したあの瞬間、急速に私の世界の時間は止まり、体内に凍った空気が流れこんだ。ガンガンと金槌で殴られたように頭の中が揺れている。少しも味のしない食事が終わると、私は周りの友人の残念そうな声も聞かず逃げさるように家に帰った。一人暮らしの狭いワンルームの扉を叩きつけるようにして開け、鞄を投げ捨てそのままベットに倒れ込むと、隣の住人からの苦情も明日の事も何も考えずただただ声が枯れるまで泣いていた。
身体中の水分がどんどんと減っていき、こめかみの血管が悲鳴をあげる頃になると私は何が悲しいのかもわからなくなった。ただ、私がこれから何処に行っても、もう彼女は見つけられなくなったのだという事実だけは理解していた。
ああ、いっそ何も知らずにいたかった。
あれ以来私の記憶の中の彼女は姿を消し、代わりにのっぺりとした女の様な影だけがそこにいた。考えてみれば当たり前の話だ。私は彼女の傷だけを見つめていたのだから。私がずっと大切に抱えていた物は私の幻想だったのだ。私の知る彼女、はもうどこにもいない。
私は裾をまくり自分の左腕をじっと見たがそこにはやはり何の傷跡もない。痛みはどこにもなく、どこかから吹いてきたぬるい風が肌にあたり通りぬけていくのを感じるだけだった。




