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作品集『水たまり』

Fragile

作者: 二飛リズ

 昨日も今日も雨、雨、雨。流しっぱなしのラジオからは天気予報。明日も明後日あさっても明々後日しあさっても、雨は続くらしい。

「雨、嫌だな」

 今日も私は窓際に椅子を持って来て、窓越しに外の景色を眺める。近くに見えるのは畑。遠くに見えるのは山ばかり。そんな、目にいい景色も少しくすんでいる。私と景色を隔てる横引き式の窓。(私の目が悪くなってきているのもあるかもしれないけど、)この窓が汚れているから、景色がくすんで見えるんだ。毎月一回は磨くんだけど、すっかりこびりついてしまっているみたいで、ずっとこのまま。

 この家に引っ越して来てから、もう十年以上が経っていた。初めてこの部屋に来た時、私はまだとても小さかった。薄っすらとした記憶しかない。だけどその時に見たこの窓は、傷一つ、汚れ一つない綺麗な窓だった。

 汚れた窓越しに外を眺めると、外の世界まで汚れて見えるから、窓は開ける。

(雨、雨、雨、雨……)

 暇な休みの日にこうやって外の景色を眺めながら詩を書くのが私の習慣。だけど私の書く詩は平凡だ。学校の文芸部の文集に載っているような、真面目ばかみたいな詩。まあ、その文芸部に所属しているんだけど。今日も今日とて私は真面目ばかみたいな詩を書く。

(雨、雨、雨、雨……)

 今日のテーマは『雨』。これと言って理由はない。ただ目の前で雨が降っているから。いつもこんな感じ。自分の書きたいテーマとか使いたい表現だとか、そんなものはないんだ。『流れに流されて、風に飛ばされて生きる』。私のこれまでの人生を一言で言えばそんな感じかな。だから自分で何かをやりたいなんて思わなかった。そうしていれば良い子良い子って褒められてきたし。

「うぅー……」

 今日は何も思いつかない。停滞モードに入った。まあよくあることだ。そしていつも通り、窓を閉め、窓際から椅子を動かして、(勉強には使わない)勉強机の所まで持って行って座り込む。気分転換の選択肢としては二つ。下手なギターの練習か、読書だ。

「ギターでも練習しようかな」

 そんな独り言をため息みたいに吐き出して、机の横の壁に立て掛けてある古びたエレキギターを手に取った。アンプはないし、エレキギターの裏側からは変なケーブルがはみ出ている。壊れているというのは一目でわかるボロギター。数年前家の倉庫で偶然見つけて、それからはずっとこの部屋に置いてある。ギターを練習し始めたのはつい数週間前のこと。だからまだまだ下手。すっかり変色してしまってこれまたボロボロなストラップを首からかけて、右手はピック、左手はギターのネックを握る。私の今の目標は、初心者にとって最初の難関であると言われるFコードの克服だ。まず人差し指で六本の弦全てを抑えて、残った中指と薬指と小指を決まったポジションにセット。思い切って右手のピックで弦を弾く。自分としてはちゃんと抑えれているつもり。だけど聞こえてくるのはビョーンだとかビビビだとか、不快で間抜け(私みたい)な音。ビビビの方はきちんと抑え切れていないから。友達の話によると、慣れれば大丈夫らしい。だけどビョーンの方はどうしようもない。これは指のある方から一番遠くにある弦の音なんだけど、人差し指が届いてなくてこんな音になっている。

「やっぱり指が短いから……」

 再びため息みたいな独り言。ちぎってでも伸ばしたいって思うけど、実際にやったらすごく痛そうだから、まだ言葉の形にとどめておく。

「もういいや」

 そう言って今日も諦める。これもいつもと同じ。どうしてもギターを弾きたいってわけでもないから。だいたいギターの練習を始めたのも部屋にギターがあったってだけの理由からだ。やっぱり私はこんな人間だからしょうがない。いつもと同じく自分にそう言い聞かせて、読書を始める。読む本は中古本屋で安売りしていたとある思想家の本。名前は聞いたことはあるけど、どんな人なのかは知らない。そんな感じの思想家だった。薄い中身のエンターテイメント小説ばかり読んでいたから、ちょっとした気分転換だ。

 その本は数日前に買ってきたばかりで、今回初めて開いた。最初の方はわけがわからなかった。言葉が難しかったから。だけど辞書まで引きながら読むとなると読書まで嫌になってしまいそうだから、そのまま読み進める。ふと、主人公のとある台詞に引っかかった。

『神は死んだ』

 熱心なキリスト教徒達の前で主人公はそんな言葉を放った。最初は、「すごいな、この人」って思っただけで、そのまま数ページを読み進めた。だけどどうしても引っかかって、また例の台詞のページに戻る。

(神は死んだ……か)

 そこで私は一つのフレーズが思い浮かんだ。その台詞との直接の関連性はないフレーズだったけど、この際そんなことはどうでもよかった。

「神様の、涙……」

 今日の詩のテーマは『雨』。天の上には死んだ神様。雨はその神様の涙。

(『雨は神様の涙』か。……なんかいい響きだな)

 まだ詩の形にはできないけど、そのフレーズは使うことにした。



 そうして私の中身のない休日は終わり、月曜日になった。学校だ。季節は春。遅刻しないようにと意気込む新入生が増えて、電車が学生でいっぱいになる季節。例によって今日も空は涙を流す。

「これだから春は嫌い……」

 もう何度目かのため息みたいな独り言。騒めく車内で、誰にも聞こえないような小さな声で、誰かに聞いて欲しいと思いながら愚痴を呟く。でもこの『春は嫌い』っていう言葉の響きは嫌いじゃない。今すぐにでもメモ帳にメモしたいけど、誰に覗かれるかもわからない満員電車の中でメモ帳を開くような度胸はない。だからと言ってこの電車から降りたところでメモ帳を開けるわけではないのだけど。

 真っ黒な表紙のメモ帳。このメモ帳には私の全てが書いてある。日頃感じる悩み、生まれてからずっと抱えているコンプレックス、詩に使えそうなフレーズ、作詞に挑戦して撃沈した時の残骸、ギターで弾けるようになったコードの記録、嫌だった思い出、大事な人への手紙の下書き、誰にも明かせなかった本心。中学校から仲のいい友達にも、高校で気が合って今では互いに小説を書いては見せ合っている友達にも見せられない。仲がいいとか気が合うとか言うけど、結局、本当の私のことは私以外の誰も知らないんだな。そう思う。


 放課後。学校が終わって、私は帰りの電車に乗っていた。朝と違って車両の人間の密度はかなり低い。空っぽと言ってもいいくらいだ。ずっと続いている雨と暗い空のせいか、車両の中の沈黙がとても重く感じられた。乗っているのは私を含めた学生が数人、仕事帰りの若い男の人が一人、おばあさんが一人だ。私とおばあさん以外の乗客はみんな手元のスマートフォンをいじっていた。

(ここだったらメモ帳を開けるな)

 私はそう思って、左ポケットからメモ帳を取り出した。その瞬間電車がカーブに差し掛かったようで、車内が大きく揺れた。ポケットから手を抜き出したばかりで不安定な体勢になっていた私は、思わずメモ帳から手を離してしまった。

(しまった!)

 そう思った時にはもう、メモ帳は手の届かない距離にあった。私の手を離れたメモ帳は床に落ちた時の衝撃で開きっぱなしの状態になって、揺れる車内の床を滑り、同じ学校の生徒の足元で止まった。メモ帳は開きっぱなしだったけど幸い、そこは白紙のページだった。中身が読まれることはない。

(よかった……)

 内心安心しながら、無意識のうちに、その生徒が取ってくれるのを待っていた。だけどその生徒が動く気配はない。視線はその手に持ったスマートフォンに注がれている。そのまま数秒後、電車が駅に止まった。私が降りる駅だった。私はそそくさとメモ帳の方へと歩いて行き、回収する。降りる時にちらりとその生徒の方を見るが、その視線はまだスマートフォンに注がれたまま。

(スマートなフォンがそんなに面白いのかな)

 私はそう思いながら電車を降りた。


# # #


 無気力に日々に流されていたら、あっという間に七月がやって来た。雨の日はある程度は減ったけど、代わりに太陽が目立ちたがり屋になって、次は夏も嫌いになった。暑いし、セミがうるさいし、虫が増えるし、そのくせ肌をできるだけ露出しないと暑くてやってられない。何より、あの窓の部屋にいられないのが一番嫌だった。あの部屋はエアコンも扇風機もなくて、夏は地獄の部屋と化すのだ。だから暑い日の昼間はたいていリビングで読書をしていた。詩を書こうとしてメモ帳を開くと家族に見られる可能性があるから、詩は書けない。だからと言ってギターを弾くのは、家族にうるさいと言われかねないから、残った選択肢は読書だけだった。カメラをぶら下げて撮影散歩という選択肢もあったけど、日焼けはしたくないから、最終的には選択肢からは消えた。

 ソファに座ったままずっと本を読んでいると、あっという間に正午になった。洗濯物を干し終わったお母さんがリビングに入って来てテレビをつけた。

(そろそろお昼ご飯かな)

 私はそう思って、本にしおりを挟み、読書を中断した。テレビであっていたのはニュース番組。どこか悲しそうな顔をつくっているアナウンサーがニュースを読み上げた。

『昨日未明、○○県△△市の住宅街で通り魔による殺傷事件が発生しました』

 私の住んでいる街からは遠く離れた街のニュース。私には何の関係もないただのニュース。

『この事件で、××さん2□歳が亡くなりました』

 亡くなった人の名前と年齢が読み上げられた。どうしてそんな情報をニュースで振りまくのか、ふと私は疑問に思った。まるで亡くなった人を晒し上げて「同情してあげて」と言っているみたいに感じたから。台所からそれを見ていた。お母さんが突然こう言った。

「まだ若いのにねぇ。かわいそうに」

 その時お母さんはテレビの中のアナウンサーと同じような表情をしていた。



 七月も終わりに差し掛かり、いよいよ夏も本番に入った。今日は月末恒例、窓拭きだ。倉庫の中から大量のバケツを取り出して、その中から穴の空いていないバケツを探す。先月の窓拭きの時に、それまで使っていたバケツが壊れたからだ。だけど、あれもダメ、これもダメ。状態を次々と確認していくけど、未だに使えそうなバケツは見つからない。

「うーん……」

 なかなか始められない窓拭き。それに加えて、この倉庫はそれなりに暑い。面倒臭くなった私は、バケツを使わずに窓拭きを始めることにした。何回も水汲み場と部屋を行ったり来たりすることになるけど、この暑さの中で穴の空いていないバケツを探すよりはマシだ。早速雑巾を水で濡らして、二階にある部屋へと向かう。ひんやりとした雑巾が手のひらに触れて気持ちいい。左の手のひらにだけ秋がやってきた。階段を登り終えたところで、一階からお母さんが私の名前を読んだ。私に電話だそうだ。

「はーい」

 一階に届くように大きな声で返事をする。一旦部屋に行って雑巾を置いてから一階に下りた。手のひらにまた夏が戻った。

「もしもし?」

 電話に出ると、聞こえたのはどこかで聞き覚えのある男子の声。中学校時代の同級生だった。久しぶりすぎて、誰だかわからなかった。彼は中学三年生の時に私と同じクラスで、学級委員長を勤めていた。だけど今となっては、私との接点はほとんどない。それなのに突然どうしたんだろうと思って、尋ねてみた。すると彼は重い口調で話し始めた。彼の話によると、どうやら中学校時代の同級生の一人が昨日亡くなったらしい。だから今日の夕方から始まるお通夜に参加してほしいとのことだった。

 電話が終わり、私は再びあの部屋に戻った。意外と電話が長引いたからか、窓際に置きっ放しにしていた雑巾は太陽に虐められてすっかり乾いてしまっていた。面倒臭いなと思いながら階段を下りて水汲み場に行き、干からびた雑巾に水を与えてあげる。そうしてあげると、雑巾は一瞬で水を吸った。その様子はまるで人間みたいだった。

 また部屋に戻って、次こそは窓拭きを始めた。だけど結局、成果はいつもと同じ。私の成長とともについてきたその汚れは取れなかった。


 その日の夕方、予定通り私は例のお通夜に参加した。会場に着くと、そこは私の中学時代の同級生たちで溢れていた。亡くなった人と仲がよかった女子のグループは、みんなで寄り添って泣いていた。だけどその一方で、関係の浅かった同級生たちはそれぞれ関係のない話で盛り上がっていて。私は多分どちらでもなかった。自分からしても、他人から見ても、私はなんとも言えない様子だっただろうな。

(こんなお通夜じゃ、死んだ人も残された人も報われない)

 それぞれの話題で盛り上がる同級生たち。どこかで笑い声が上がった。汚い。汚い。汚い。まるで死者を笑っているみたい。

 それまではいつ死んだっていいと思っていた。それなりに私の死を悲しんでくれる人がいると思っていた。だけどこんな現状を目の当たりにしちゃったら、どうしても死にたくないって思っちゃう。笑われるくらいなら、いつまでも生きていたいと思っちゃう。

 セミが騒がしい。その甲高い鳴き声は悲鳴なのかな? それとも嘆き? やっぱり私も浅はかな人間なのかな? そんなお通夜の様子も自分の作品の材料にしようとメモ帳に書き込む私は、やっぱり最低な人間なのかな?


 いくら生きたいって願ったって、いくら必死に生きたって、どうせ最後には死んでしまうし、どうせ全部『無』に還る。私が生まれる前の世界を想像すると恐ろしくなる。あんな真っ暗闇にまた帰らなくちゃいけないって思うと、目から勝手に雨粒がこぼれる。その日の夜、私は布団に潜り込んで泣いた。

「こんな世界っ、もう……嫌だよ……」

 そんなことを呟いて、泣いていたっけな。


# # #


 秋になった。あの夏の日以来、私はそれまで以上に無気力に生きていた。何をやっても虚しくなって、詩を書くのも、ギターを練習するのもすっかりやめてしまった。あの日以来、部屋の窓もほったらかし。毎日部屋に入りはするけど、どんどん汚れていく窓を見ると何もかもが嫌になって、すぐに出ていくようになってしまった。月が綺麗な夜にあの窓際に座って詩を書いたのはもう昔の話。今じゃ窓もけなくなって、汚れた窓越しに見ると、月さえも汚く見えた。

 いろんな趣味を捨てたせいか、外を散歩する回数が増えた。カメラを首に下げていろんなところを散策するんだ。どうせ未来なんてない。最後には死んで終わり。だったら今を大事にして生きよう。そう思うと、『いま』を切り取る写真が好きになった。時には枯れた花のそばに自慢げに咲く花を撮った。時には錆びついたガードレールを撮った。誰かに見せるわけでもなく、私自身が後で眺めるわけでもない。ただただ、『いま』を大事にしたいから、私は写真を撮り続けた。


 この頃から、学校に行くのが嫌になった。今までと同じように起きて、今までと同じように朝食を食べて、今までと同じように学校の準備をして、今までと同じように家を出る。だけど、家を出たところで辛くなる。このまま学校には行かずにどこか遠くに行きたい。そう思って、今日は学校とは真逆の方向にある公園に行くことにした。学校をサボタージュするのは今日が初めてだ。不安はあるけど、充実している気がするのもまた事実。後悔はしないつもりだった。

 目的の公園にたどり着いた。山の中腹ちゅうふくにあるこの公園は、自然に囲まれていた。そこにある遊具は滑り台とブランコとバスケットゴールだけ。今日の公園は空っぽだった。休日はいつも子供たちで賑わっている。だけど平日の朝からこんなところに来る人などいない。ここに来る途中で見た人といえば、公園の近くにあるお寺の住職さんくらいだった。その住職さんでさえ、平日の朝からこの公園に来ることは滅多にないだろう。

 季節は秋。誰もいない公園。頭上に夕日が浮かんでいるかのような、一面の茜色あかねいろ。虫たちの控えめな声と、風に揺れる木々のささやき。全てが私の感傷を慰めてくれているみたいだった。そんな世界に包まれて、私は東屋のベンチに座って読書を始めた。

 今日の本は手軽に読めるエンターテイメント小説だ。悩める少年少女の日常を描いた小説。そのストーリーはありがちなもので、あらゆる台詞もありがちなもの。うんざりはしたけど、手持ちの本は間違って鞄に入れてきたこの小説だけだから我慢した。

 だけど、読んでいるとあっという間に時間は過ぎるもので、気づけば正午を知らせるサイレンがなっていた。東屋から日向に出ると、太陽が私を照らした。ふと空を見上げてみる。思い浮かぶのは、さっき読んだ小説で主人公の少女が言っていた台詞。

『こんなに大きな空に比べたら、私の悩みなんてちっぽけなものだよ』

(私自身のことは、私以外の何物とも比べちゃいけないよな)

 空を見上げたまま、私は思った。


# # #


 世界はだんだんと態度を変えて、今ではすっかり冷たくなった。燃え盛っていた木々はまるで灰のようになり、動物たちは世界の冷たさから逃げるように眠りについた。それは私たち人間にも同じようで、それなりに親しかった親戚のおばちゃんも覚めない眠りについた。おばちゃんは生涯孤独だった。おばちゃんに家族はなく、繋がりがあった私の家が葬儀を行うことになった。おばちゃんは知人も少なかったみたいで、葬儀に参加したのは私と私の家族だけだった。夏のあのお通夜は人が多くて騒がしかったのが嫌だったけど、たった数人で行われたおばちゃんの葬儀は寂しくて嫌だった。

 夏の時もそうだったけど、こうやって人が死んでしまうと、どうしても過去を振り返ってしまう。数ヶ月前に一緒に買い物をしていた人が死んでしまって、その存在が完全に過去の出来事になってしまった。

「こうやってお前に見守られてお別れできて、おばちゃんは幸せだったろうな」

 お父さんが私にそう言った。嫌になった。おばちゃんは幸せ『だった』と、おばちゃんの存在がもう過去の思い出として話されているのを聞いて、嫌になった。

 葬儀が終わって小さな斎場から外に出ると、近くの商店街の明るいイルミネーションが冬の真っ暗な夜空を照らしていた。私の心は憂鬱で沈んでいたけど、街では景気のいい陽気なクリスマスソングが流れていた。空と私は似ているなと思った。

「今日はありがとうございました」

 葬儀場の入り口のところで、お父さんは葬儀屋さんにお礼を言った。すると葬儀場の人は笑顔で言った。

「いえ、これが私たちの務めです」

 その言葉は、いつかテレビで見たニュースキャスターのものと似た雰囲気を纏っていた。お父さんがこちらの方を振り返った。目があった。

「ありがとうな」

 控えめに笑いながら、お父さんは言った。作り物独特の雰囲気なんて微塵もなかった。そしてそのまま歩き出して、駐車場の方へと向かって行った。一瞬遅れて、私は早歩きでその背中を追った。車に乗ったところで、お父さんはため息を吐いた。その透明な吐瀉物は白くなっていた。世界の冷気の中に放置されていた車の中はそれくらい冷え込んでいた。お父さんは再びため息を吐いた。さっきと違って、冷たさに白くなったりはしない。ただ、震えていた。

「……生きるのにもかね、死ぬのにもかねか……」

 そんなため息が、静かな車内に響いた。


 その日の深夜、私は布団に潜り込んで考えていた。

(過去の思い出になってしまう前に、私に何ができるだろう……)

 私にできること。私だからこそできること。私がやりたいこと。私が死ぬ時に後悔しないように、何ができるか。答えはすぐに出た。あの日書くのをやめてしまった詩。あの日以来触ってもいなかったギター。

(こんな世界のことを好きになれるように)

 そうして私はもう一度だけ、投げ捨ててしまったゴミを拾ってみることにした。

 その日、雨粒は流れなかった。その夜、空からは雪が降った。



 次の日、目が覚めると、外は白に包まれていた。昨日の晩、雪が降ったのだ。相変わらず世界は冷たいままだけど、黒い部分がなくなったように見えた。

 その日は学校も休みで、朝はいつもよりゆっくりごはんを食べて歯磨きと洗顔を終わらせた。こんな日にはカメラを持って外に出るのも悪くはないけど、カメラが濡れて壊れちゃう可能性があるからやめた。そうなれば向かう場所は一つだけ。あの窓の部屋だ。私は足早にリビングを出た。一歩一歩が床に触れるたび、足の裏がひんやりとした。いくら家の中とは言っても、暖房がない部屋や廊下の空気は冷たい。それは窓の部屋も同じ。だから暖かい衣服を取って来ようと別の部屋に立ち寄ることにした。

 ドアを開けると、やはりそこからも冷気がこぼれ出る。ベランダへの出入り口があるからなおさらだ。早く目的を果たして出ようなんて思いながらタンスを開ける。その中から取り出したのは、セーターとモコモコの付いた長めの靴下。ついでに帽子立てに気だるげにぶら下がるマフラーも連れて行く。それらを両手に抱えて窓の部屋へと向かった。

 部屋の前に立った私は、そそくさとドアを開けて中に入った。そしてドアを力強く閉める。

「うぅ……さむっ」

 自然と体が細かく震え始める。私は急いで、さっき取って来たセーターと靴下を着用した。どちらも柔らかくて、まるで優しさに包まれているような暖かさだった。世界の冷たさから守ってくれているようだった。

(髪、伸ばしたいなぁ……)

 そんなことを考えながら、最後にマフラーを首に巻く。これで万全とは言えないけど、さっきより幾分かはマシになった。そしてまっすぐ(勉強には使わない)勉強机の方に行き、椅子に座り込む。

「冷たっ」

 古臭い木製の椅子はすっかり冷たくなっていた。お尻の熱が奪われていくように感じられて、私は思わず立ち上がった。

「……」

 そのままさっき自分が座った場所を見つめて、

(……このくらい、我慢しなきゃ)

 そんなことを思う。そして私は冷たさに耐えながら椅子に座った。冷たくはあったけど、椅子が私を拒んでいるわけではないと思うと我慢できた。

 机の上には原稿用紙とシャープペン。左ポケットからは真っ白な表紙のメモ帳。もう一度新しく始めるという意味で、前使っていた真っ黒な表紙のメモ帳とは別のものを使うことにしたんだ。今この真っ白な表紙のメモ帳に、詩に使えそうなフレーズとして書き溜めたもの以外は詰まっていない。そして記念すべき最初の詩の題名はとっくに決まっていた。

『神様の涙』

 今の自分が最も形にしたかったフレーズだ。自分のやりたいようにやってやる。自分の生きたいように生きてやる。昨日、そう誓ったんだ。だから詩の形式なんて気にしない。韻なんてものは踏まない。私は私の描きたいものを書く。誰かを変えるようなものを書く。他人から嫌われてもいい。誰にも読まれなくてもいい。いつか誰かの中に生きていられれば、『私が生きた』という証拠が残るのならば、それが私の本望。ただそれだけだった。

 数十分後。そうして書き上げた『神様の涙』は、詩の形とは言い難い、いびつなものとなった。だけどそれでいい。後悔はしないつもりだった。

「うぅ……ん」

 椅子に座ったまま伸びをする。気づけば椅子も暖かくなっていた。

(『石の上にも三年』っていうのも案外間違いんじゃないんだなあ……三年もいらないけど)

 そんなことを思った。そしてさらなる詩を書こうと、再び目の前の原稿用紙と対峙する。だけど、

「……ちょっと休憩しようか」

 詩を書く時の緊張テンションが保てなくなって、休憩をとることにした。温まった椅子から立ち上がる。そして再び息を大きく吸って、

「っ……」

 手を天井に向かってピンと伸ばし、

「……はぁぁ」

 一気に息を吐いて手を下ろす。そうしたところで、壁に立てかけられたギターの方へと視線を向ける。夏のあの日以来触ってもいなかったそのギターは、すっかりホコリをかぶっていた。

「……拭いてあげなきゃな」

 そんなギターの様子を見て、私はそう呟いた。机の上からティッシュ箱を持ってきて、ギターのホコリを拭き取る。

「ごめんね」

 ホコリを拭き取りながら、気づけば私はそんなことを口走っていた。さっきまで真っ白だったティッシュはすっかり灰色になってしまった。そうなってしまったらもう汚れを拭き取ることはできない。逆にまたギターに汚れがついてしまうだけだ。その汚れたティッシュを丸めてゴミ箱へと投げ入れ、次の真っ白なティッシュを箱から抜き出す。何も考えず、ただその繰り返しだ。それはさながら人間社会の縮小構図だった。

 そうして数分後には、ホコリはすっかり取れて、最後に見た時と同じ状態のギターがそこにはあった。はみ出たケーブルはそのまま。ボロボロのストラップもそのまま。ボロボロでホコリひとつないギターがそこにはあった。

(たとえボロボロでも、私の武器にはなる)

 そんなことを思いながら、オンボロストラップを首からかけて、右手はピック、左手はネックを握る。あの時とは違ってネックは冷たかったけど、なんだか懐かしさを感じた。そのまま左手の指で弦を撫でる。六本の弦はそれぞれキィキィと可愛らしい声で鳴いた。

「えっと、Fコードは……」

 独り言をこぼしながら指をそれぞれのポジションに置いていく。

(中指がここで、薬指と小指がここで)

 まずは中指と薬指と小指をセットする。最後に人差し指で全部の弦を一気に押さえる。すると、弦を押さえる冷えた指先に痛みを感じた。だけど我慢して右手のピックで弦を弾く。

「痛っ」

 押さえていた弦が震えたせいで、指先の痛みが強くなった。

「…………」

 指を弦から離して、しばらく考える。

「……この季節はまだやるべきじゃないな」

 そんな結論に至って、ギターを元あった位置に戻した。だけどまだ詩は書けない。そんな気がした。そして振り返って窓の方を見る。結露で曇り、白く染まっていた。その白は窓の汚れも覆っていて、綺麗に見えた。私はふと思い立って、窓際に椅子を持ってきて座った。フレームに肘を立てて頬杖を突く。そのまま白くなった窓をじっと見つめる。

(こんなに近づいても汚れが見えない……)

 右手でピースの形を作って、人差し指と中指でその白に触れる。そしてその二本の指は人の脚のように動いて歩き出した。人差し指で踏み出して、中指で踏み出して、また人差し指で踏み出して、また中指で踏み出して。真っ白な窓を、私の右手が歩いていく。その足跡は汚れていた。一歩を踏み出すごとに、窓を白くしていた結露が拭き取られて、元の窓の表面が見えてきた。一歩踏み出すごとに、真っ白で綺麗な窓を汚れた窓にしていく。

(なんだか、人間みたい……)

 ぼーっとその様子を眺めながら思う。また一歩、また一歩と、歩き続ける。これ以上手が伸びないくらいの距離まで歩いたところで歩みを止めて、

(詩じゃないけど、何か書けそう)

 そう思って、私はすぐに椅子を踏み台にして立った。そして綺麗な白を汚れた窓の表面に変えながら文字を紡いだ。


『一面真っ白の世界を踏みにじるように一歩、また一歩

ふと振り向くと足跡は汚れていた

綺麗だったはずの世界を汚している、そんな気がしたけど、

「人間だからしょうがない」

そう一人つぶやいて、また一歩を踏み出した』


 数分後、窓にはそんな言葉たちが綴られていた。ちょっと前まで白くて綺麗だった窓は、所々に窓の汚れが見えるようになっていた。だけどどうしてだろう。私には、そんな窓が綺麗に見えた。白に染まった窓より、中途半端に汚れが見える窓の方が綺麗に見えた。


# # #


 時の流れは早いもので、気づけばもう春だった。『神様の涙』を思いついたあの雨の日から、もうすぐ一年が経つということだ。

(そうなれば『神様の涙』も、もう一歳になるのか)

 なんてことを考えることもあった。あの冬の日から詩を書き続けて、その数はもうすぐ二十に届きそう。だけどそれでも一番のお気に入りは最初に書いた『神様の涙』だった。一番最初だから大切にするみたいな風習は嫌いだけど、この時ばかりは、そんな風習も悪くはないなと思った。


「ちょっと散歩に行ってきます」

 そう言って家を出る。外に出ると、昨日まで降っていた雨の残りカスが足元に散らばっていた。作品の材料はそこら中に転がっているものだ。早速ポシェットからメモ帳を取り出して思いついたフレーズを書き込む。そして首にかけたカメラでその材料を写真に撮る。水たまりに映る雲だったり、そこに小石を投げ込んで生まれた波紋だったり、葉っぱの下のカエルだったり。私はそこにある『いま』を、言葉と写真の形で保存していく。そこにある『いま』を集めていく。

 この散歩には目的地はない。風景を眺めながら、道なりに沿って歩くだけだ。私の歩くペースは遅いらしく、道中、いろんな人たちに抜かれていった。中には走って抜いていく人もいた。だけど私は歩き続けた。ずっと私のペースで。

そのままゆっくりと歩き続けていると、なんとなくどこかで座って休憩したくなって、公園に立ち寄った。学校をサボったときに立ち寄った公園だ。あの時とは違って、あの茜色あかねいろはもう無いけど、早咲きした綺麗な桜があった。あの時と同じように、東屋のベンチに座る。今日は休日だから、公園で遊ぶ子供たちも多い。ヒーローごっこをしてはしゃぐ男の子。ボール遊びして遊ぶ親子。みんな楽しそうだ。だけどその一方で、公園のすみには転んで泣いている女の子。他の誰かがそれを心配して女の子を助けるなんてこともなく、みんな笑っていた。ヒーロー気取りの男の子は助けてくれない。優しいふりをした親たちも助けてくれない。私は私の体が動くのを感じた。女の子に歩み寄って、

「だ、大丈夫?」

 震えた声を投げかけた。どうしてだかはよくわからないけど、私は緊張してしまっていた。そっと手を差し出す。女の子は一瞬だけ私の顔を見て、その視線を私の手に向けた。少し戸惑った様子で手を伸ばして、手と手が触れ合った。温かさが伝わってくる。私は手を手で引っ張って女の子を起き上がらせる。立ち上がった女の子と目があった。その涙ぐんだ目は何か言いたげな視線を向けていた。私は握った手を離しながら尋ねた。

「どうかした?」

 すると女の子は口を閉ざしたまま、大げさに首を横に振った。そしてそのまま私に背を向けて、どこかへ走り去ってしまった。感謝の言葉などなかった。だけど、別にそれでよかった。「ありがとう」のために手を差し伸べたわけじゃなかったから。

(私の目つきが怖かったのかな……?)

 そんなことを思いながら自分の手を自分で握った。そこに温もりはなかった。


 そろそろ家に帰ろうと公園を出たところで、ポツポツと雨が降り出した。あいにく傘なんて持ち合わせていない。私は、まだ小雨のうちにと、走り出した。だけどすぐに、

(普段から運動しておけばよかった……)

息が上がってしまって、近くにあったコンビニに寄って雨宿りをすることにした。カメラが雨で濡れても困るから、どっちにしろそうするしかなかったんだけど。

 コンビニに入ると私の他に客はいなくて、レジに立っていた店員さんと目があった。

「いらっしゃいませ」

 店員さんが作り笑いで決まり文句を言った。それに対して私は軽く頭を下げて、なんとなく雑誌コーナーへと向かう。特に興味もなかったけど、週刊誌を手に取ってみた。パラパラとページをめくりながら読み流していく。そうしていると、ふと、とある記事に目が止まった。

『〇〇県△△市 高校生自殺 その原因とは』

 さっきまでと違って、大事な部分を拾いながら斜め読みしていく。

(……いじめ、か……)

 その記事によると、その高校生の自殺は集団的ないじめが原因だったらしい。遺書にそれと関連した内容が書かれていたんだそうだ。

(遺書にだって吐き出せないようなこともあったかもしれないのに……)

 私は、そんな表面しか見ていない記事の結論には納得できなかった。だけどそれ以上に、

(人の死を晒しあげてお金を稼いで、嫌にならないのかな)

 そう思った。

 その記事は次のページまで続いていた。ページをめくると、そこに書いてあったのは、大人たちの責任のなすりつけあいのこと。そこで私は読むのが嫌になって、雑誌を棚に戻した。特に用もなくコンビニに居座るのも気まずいし、かといって何も買わずに立ち読みだけして出て行くのもよくない気がする。外はまだ雨が降っているけど、グレープフルーツジュースを買って出て行くことにした。カメラさえ濡れなければそれでいいんだ。レジで会計を済ませて出口の方へ向かおうとしたところで、自動ドアのすぐ近くに置いてあるものに目が留まった。

(ビニール傘……売ってあった……)


「ただいま」

 そう言って玄関のドアを開ける。背後に聴こえる雨音が五月蝿うるさかった。ドアはキィキィと音を立てながらゆっくりと閉まる。わずらわしい雨音もゆっくりとフェードアウトしていく。

 カメラは無事だったけど、靴はぐっしょりと濡れていた。歩いているうちに水たまりに何度も足を突っ込んでしまったから。ビニール傘に当たって弾ける雨粒の様子を傘の中から見上げていたら、足元の注意がおろそかになっていた。前を向いて歩かなくちゃっていうのはわかっていたけど、弾けるその雨粒が綺麗で、気になって仕方がなかったんだ。

 靴を脱ぐと、靴下にまで雨水が染み込んでいるのに気づいた。感触が気持ち悪いから靴と一緒に脱いで、玄関に上がる。あまり長くない私の前髪から、水滴が落ちた。私は裸足のまま、まっすぐに洗濯機のある部屋へ向かった。靴下を洗濯機の中に放り込んだ後、タオルを手に取って頭を拭く。髪がぐしゃぐしゃになっちゃうから、優しく。強くしちゃうといたんじゃうから、優しく。

 髪を拭き終わって、私はあの窓の部屋に向かった。部屋に入ると、窓に打ちつける雨の音が私を迎えた。窓際に置きっぱなしになった椅子に座る。あれだけの雨に打たれても、相変わらず窓の汚れは落ちない。窓の表面を流れ落ちていた雫たち。並んで流れては途中でくっついて、そのまま一気に流れ落ちる。その様子は本来綺麗なもののはずなのに、汚れていた。窓にくっついた雫だけじゃない。窓の向こう側で降っている雨も、空を流れる雨雲も同じだ。

(今思えば、この部屋から綺麗な空を見たことないな……)

 そんなことを思いながら、メモ帳を開いて、こう書き込んだ。

『いつか、どんな雨も綺麗だと思いたい』


 夜になると雨は止んで、優しい月明かりが、窓際に座る私を照らした。春の夜は暑くも寒くもなく、秋の夜と似ていた。秋の夜は虫たちの可愛らしい鳴き声が至るところから聴こえて、何より月が綺麗だ。それに比べると春の夜は控えめだけど、いろんな動物や植物が生き生きしている。それを思うとふと、どこかに行きたくなって、私は散歩に出かけた。

 サンダルを履いて外に出る。冬が去ってからそれほど経っていなかったからか、空気は少し冷たく、見える景色は暗かった。こんな田舎には街灯なんて滅多になくて、光源は星々と月の明かりだけ。私はポケットから小さめの懐中電灯を取り出して、足元を照らす。その時、春の柔らかい風が吹いた。だけどまだ冬の冷たさは残っているようで、

「うっ、さむ……」

 春の余寒が私を襲った。もう春だからといって薄着で外に出てきたことをちょっとだけ後悔した。

 しばらく歩いたところで、私は懐中電灯の明かりを消した。控えめな月明かり。人が邪魔しない星空。光などないと言っても過言ではない暗さ。動物たちも冬の冷たさに震えているのか、声の一つも聴こえない。冷たくて、真っ暗で、物音ひとつ聴こえなくて。

(死んでしまったら、こんな感じなのかな。何も見えなくて、何も聴こえなくて、何も感じられないなんて、嫌だな……)

 そう思うと、なんだか涙があふれてきた。こぼさないように上を向く。日中はあんなに雨が降ったのに、夜の空には雲ひとつなくて、ただただ星空が広がっていた。

(それでも、前を向かなきゃ)

 私は前を向いた。雨粒が落ちた。そこに光などない。それでも暗闇の中で一歩を踏み出す。この夜が明ければまた明日がやってくる。次の今日がやってくる。私はまた一歩、終わりに近づいて行く。

「……明日が来なければいいのに……」

 静かな世界に、私の言葉だけが響いた。



 次の日は学校だった。昨日の夜になかなか眠れなかったから、すごく眠たかった。朝早くから起きて、朝ごはんを食べながらテレビを見る。気のせいか、卵焼きの味がいつもより薄い気がした。テレビでは朝から元気なニュースキャスターたちが笑っていた。

(この人たちもいつかは死んでしまう……)

 そんなことを考えてしまって、再び目が涙ぐむ。

「ごちそうさま」

 食べかけのご飯を机に置いて、私はリビングを出た。お母さんが何か言っていた気がしたけど、その時の私にはそれを気にする余裕などなかった。リビングを出た後は、洗面所に向かった。誰にも見られないうちに涙の跡を無くすためだ。私は、洗面所に着くとすぐに蛇口の栓に手を伸ばし、つかむ。だけどいくらひねろうとしても腕に力が入らない。そうしてどうにか捻ろうとしている間に、私の涙は床にポタポタと落ちていた。しょうがないから、壁にかけてあったタオルで涙を拭いた。

(私……どうしちゃったんだろ……)

 拭き終わって、タオルを元の位置に戻す。そして鏡で確認する。

(ひどい顔だなぁ……)

 目の周りが赤くなってて、目も充血していた。リビングの方まで行って、少しだけドアを開ける。そしてできるだけ声を震わせないようにして、

「お母さん。今日、学校休むね」

 と言って、ドアを閉めた。またお母さんが何か言う声が聴こえた。だけどやっぱり、その時の私にはそれを気にする余裕などなくて、逃げるようにあの部屋へ向かった。ドアを開けると朝の柔らかい日光の出迎え。私は部屋に入ってすぐに鍵をかけた。

特に何も持たずに来たから何もやる事がなくて、なんとなく窓から空を見ていた。昨日の夜と同じで、空には雲ひとつ見えない。だけど星は一つも見えなくて、ただただ真っ青な顔をした空が広がっているばかりだった。なぜだか息苦しさを感じて、窓を開けようと手を伸ばした。窓の縁を掴んで力を込めて引く。

「あれ?」

 さっきと違って力が入ったことに驚いた。だけどそれ以上に、窓が開かなかったことに驚いた。よく見るとレールの部分に汚れがたまっていた。それが詰まって窓が開かなかったらしい。

(そういえば、もう半年も掃除してなかったのか……)

 指先でレールを触れながら思う。ちょっと触っただけでホコリがくっついてきた。それに優しく息を吹きかける。ホコリは少し震えた後、指から離れて床の方へと降りていった。床に落ちたそれをティッシュで拭き取って、ゴミ箱に投げ入れる。その時だった。

「ねえ、どうかしたの?」

 と、お母さんの声がドア越しに聞こえた。私はびっくりして一瞬震えた後、ドアに近づいて言った。

「大丈夫。ただ具合が悪いだけだよ」

 するとすぐに返事は返ってきた。

「そう。学校にはもう連絡したからゆっくり休みなさい」

 ドア越しで少しくぐもっていたけど、優しい声だった。

「うん」

 私がそう返事をすると、足音がドアの前から離れていく。だけど少し離れたところで、また足音が止まって、

「その部屋、ホコリっぽいからあんまりこもらないようにね」

 少し遠くからそんな声が聞こえた。私はもう一度、たった二文字の同じ返事を返した。

「うん」

 少しだけ間を置いて、控えめな声で付け加えて、

「……ありがと」

 そう言いながら私は鍵を開けた。


「何もやる事がない……」

 テレビはショッピング番組ばかりでつまらないし、詩を書こうにもアイデアが降りてこない。用事だとかなんだとかでお母さんは外出しているから家に一人。喋る相手もいない。学校に行かないと言い出したのは私自身で、今この状況に困っているのも私。つまり自業自得。誰もいない家の中はすごく静かで、ちょっと怖かった。気を紛らわすために、私はリビングでたった一人、パソコンを開いた。ブラウザを起動させて、特に理由もなくネットニュースを見る。芸能、流行に興味はない。見るのはそれ以外のカテゴリ。トップに上がっていたニュースは、最近ミサイルを飛ばしたとある国についてのこと。軍の創設記念日にまたミサイルを打ち上げる可能性があると騒いでいる。世界情勢のこととか国の体裁だとか、そんなことはよくわからない。だけどそのミサイルで誰かが死んでしまうってことくらいはわかる。死ななくても、癒えない傷を負う。もしそれが私の住んでいるところに落ちたら。そんなことは考えたくもなかった。

 ニュースの記事を上から下へと読み進めていく。記事の本文が終わったところで、その記事を読んだ人が書き込むためのコメント欄があった。今朝投稿されたばかりの記事だったのに、コメント数はすでに100を超えていた。

『平凡な日常が愛おしい』『特番ばっかのテレビは嫌だよ』『平和でいたいよ……』『子供が生まれたばかりなのに』『戦争なんて誰も望んでいないのに……』

 そんな言葉が書き込まれていて、その一つ一つが私の涙となった。

(ただ文字を読んだだけなのに……朝から何なんだろ……)

 悲しみの涙なのか、それとも感動の涙なのか。よくわからなかった。ただただ、涙が溢れるだけだった。

 しばらくして涙が止んで、私はメモ帳を開いて書き込んだ。

『醜いミサイルではなく綺麗な花火を』

 何かのお祝いの日なら花火を打ち上げればいいじゃないか。そんなことを思いながら書いた。だけど、

(だけど、こんなことを書かなくちゃいけないような世界は嫌だな)

 そう思って、さっき書き込んだそのフレーズを、上から黒ボールペンで塗りつぶした。後悔はなかった。

 数分後、私はパソコンを閉じてあの窓の部屋に向かった。時刻はだいたい正午過ぎ。部屋の窓から、朝とは違って力強い光が差し込む。この部屋に来たからと言って、何か目的があったわけじゃない。何か本でも読もうと本棚の前に立った。どれを読もうか迷っていると、たくさんの本の中で隠れるように埋もれていたとあるメモ帳を見つけた。

(そういえば、こんなところに片付けてたんだっけ)

 それを取り出す。真っ黒な表紙のメモ帳。表紙を開くと、そこに見えるのは私の丸い文字。そりゃそうだ。あの夏の日まで、私が使っていたメモ帳だから。ページをパラパラとめくっていく。そこに書き込まれたフレーズたち。『春が嫌い』だとか『青になりたい』だとか『雨が見える』だとか、その他にもたくさん。詩の形になったフレーズもいくつかあった。その中には『神様の涙』も。そのままめくり続けていると、一番最後のページにたどり着いた。そこに書いてあったのは、嫌だった思い出のこと。


「このクラスには来ないで欲しかった」と担任の先生に遠回しに言われたこと。

あたかも私の全てを知っているように、私じゃない人に私について語られたこと。

大事な人の悪口を言われたこと。

将来自殺しそうと言われたこと。

昔の私の方が良かったと言われたこと。

好きなものを無駄と言われたこと。

目つきの悪さに、将来人を殺しそうと言われたこと。

嫌な夢を見たこと。


 私の中で眠っていたはずの嫌な記憶たちが、次々と目を覚ます。成体になったばかりのセミみたいに。冬眠明けの動物たちみたいに。外国映画のゾンビみたいに。

 目が熱い。吐き出せない何かを吐き出そうとする胸。震える呼吸。涙だ。溢れる感覚がして、私はそれを腕で拭おうとした。だけど、

「あれ……?」

 震える私の声。涙が拭えなかった。いや、涙など流れてはいなかった。


 多分もう、流す涙がなかったんだ。



 その日の夕方、私はオレンジ色の光に照らされていた。夕日と、右手に持ったライターの火。そのオレンジ色の光はその二つからのものだった。

(今の私が辛くなるくらいなら……過去の私なんて消えてしまえばいい)

 誰もいない夕方の公園で、左手に持った真っ黒な表紙のメモ帳に火をつけた。メモ帳は角の方から、ゆっくりと食べられていく。じりじりと、じわじわと。夕日が眩しい。ライターの火で炙られるメモ帳を少し高く掲げて、その光を遮る。真っ黒なメモ帳の真っ黒なシルエット。私の思い出が、過去の私が燃やされていく。シルエットは隅の方からだんだんと消えていって、その部分から夕日の光が差し込む。目を細めた。それは眩しいからじゃない。

 私は涙も流さずに泣いている自分に気づいた。なんだか息苦しい。メモ帳を持つ手も、ライターを持つ手も、震えていた。そのまま立っていられなくなって、膝から崩れ落ちた。

「っ……」

 立ち上がろうにも、膝に力が入らない。メモ帳もライターも目の前に転がっている。ライターの火は勝手に消えていたけど、メモ帳についた火は、弱いながらもまだ生き残っていた。私はそれを殺そうと、地面から握り取った土を、何度も何度も投げつけた。当たりはしたが、火が消える様子はない。その間にもメモ帳はじわじわと灰になっていく。

「ぁ……」

 メモ帳のページが強い風に吹かれる。それと同時に、火の勢いが強まった。次々とページがめくられていく。詩を書くためのフレーズ、悩み事、手紙の下書き。それらがどんどん火に蝕まれていく。

(やめて……)

 そんなことをいくら思っても、火の勢いは止まらない。私は思わず右手を伸ばした。メモ帳を襲う火に触れる。熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。それでも、それでも私は手を離さなかった。感覚としては数分間。だけど実際は数秒間。私の右の手のひらに熱と痛みを残して、火は消えていった。

 どうしてもできなかった。過去の自分を殺すことなんて、今の私にはできなかった。痛みに震える右手と、そこに握られたメモ帳。その二つを左手で優しく包み、胸に置く。痛い。苦しい。

「う……ぅ……」

 吐き出したのは嗚咽。それでもやっぱり涙は流れない。

(……苦しいよ……)

 空を見上げた。さっきまでそこにあったオレンジ色はすっかり薄くなり、夜の色が滲み始めていた。

(過去を燃やしても、どうせ今は変わらないんだ……)


 夜、私は窓際で空を見ていた。月は見えない。真っ黒な雲が空を覆っているから。

(明日はまた雨かな)

 包帯で覆われた右手のひらを、左手で優しく撫でながら思う。だけどそれと同時に、

「雨、嫌だな」

 と呟いた。

 あることを思いついて、窓際から離れて机の方に向かった。机の上には、余った包帯と、燃えてしまったせいでその一部が欠けた、真っ黒な表紙のメモ帳。最後のページを開く。嫌だった思い出のページだ。私はそのページを、力任せに引っ張ってちぎり取った。そしてそれを丸めてボールにする。ポケットからハンカチを取り出す。いつ涙が出てもいいように、入れておいたものだ。ボールの形に丸められた紙切れをそれで包んで、てるてる坊主を作った。机の上の包帯でその首をくくる。そして、

(明日、雨が降りませんように)

 そう祈りながら、窓のカーテンレールにぶら下げた。


 昨日の夜の祈りも虚しく、次の日の朝は雨だった。空気が湿っぽい。それだけでも嫌になる。それに加えて、今日は学校だ。わざわざ混み合った電車に乗って、わざわざ勉学のために学校で寿命を削る。そう考えただけで、憂鬱だった。

「いただきます」

 手を合わせてそう言った。朝ごはんだ。目の前にはサラダと卵焼き、ご飯、味噌汁が綺麗に並べられていた。メニューは昨日と全く同じ。お箸を手に持って食べ始める。卵焼きを口に入れたところで、今日も昨日と同じく、その味が薄いことに気づいた。そこで私は、

「卵焼きの味付け、変えたの?」

 と、キッチンにいるお母さんに尋ねた。まだ何か作業をしていたお母さんは、「ん?」と私の方を見た。私はもう一度言う。

「卵焼き、味付け変えたの? ちょっと薄い気がするけど」

 するとお母さんは、何のことやらという風な顔で、

「卵焼きの味付け? 変えてないよ?」

 と答えて言う。どうやら本当のことらしい。じゃあどうしてと考え出す自分を、

(気のせい……かな)

 と抑え込んだ。


「いってきます」

 そう言って家を出る。朝起きた時に降っていた雨は、家を出る頃には止んでいた、なんてことはなく、未だに降り続けていた。ただ幸いなことに、その勢いはそれほど強くはない。私はビニール傘をさして、一歩を踏み出した。水面が揺れた。


 早めに駅に着いたようで、私が来た時には誰もいなかった。駅に備え付けられた屋根付きベンチがあるので、そこで雨宿りをしながら電車を待つ。その間に鞄から文庫本を取り出して読んでいると、二人の少年が騒ぎながらこちらの方にやって来た。どうやら私と同じ電車に乗るらしく、その二人は私の隣のベンチに座った。そしてそのまま騒ぎ続ける。私は読書に集中できなくて、

「はぁ……」

 と、ため息を吐いた。この時ばかりは、雨のホワイトノイズが欲しいと思った。隣から飛び込んでくる声に邪魔されて、目の前の文字が頭に入ってこない。しょうがなく、本を読むふりをして少年たちの話を盗み聞きしてみる。そうしていると、とあるワードが聞こえた。

「やっぱお前、うつ病だろ」

 笑いを含んだ少年の声。『うつ病』。精神の病気。自殺の可能性もある、危険な病気。

(どうしてそんな病気のことを笑って話しているの……?)

 もう一人の少年も笑いながら言う。

「最近よく眠れないし、食欲も出ないし、毎日がつまらない。ああ死にてえ……なんてな!」

 駅に反響する、二人の少年の笑い声。あの夏の日に聞いた笑い声よりひどい。そこで私はふと思い出す。

(そういえば昨日、テレビで特集があってたな)

 確かその症状は、さっき少年が言った不眠や食欲不振、それに加えて毎日の憂鬱や五感の不調。

(やっぱり……私もそうなのかな……)

 ここ数日、あらゆるものに涙を流してしまうようになった。毎日生き抜くのがやっと、そんな感覚しかしない。不安定な心に少しでもれてしまったら、いや、れなくても少し風が吹いただけでも、なんとか生き抜いてきた日々が崩れてしまう。憂鬱に飲み込まれてしまいそう。そんな気がする。

(それくらいなら、)

 ――いっそのこと死んでしまえば、楽になれるかも。

 そう思いかけた自分がいたことに驚いた。あれだけ終わりが嫌で泣いたのに、自分から終わりを肯定しようとしていた。再びあふれてくる涙。もう何度目だ。

(ああ、そうか。――これが鬱なんだ)

 私はベンチから立って屋根の下から出た。途端に雨の勢いが強まる。ちょうどいい。空を仰いで目を瞑る。降り注ぐ雨を浴びる。

「ねえ……」

 きっとこの声はホワイトノイズにかき消されて、

「私の涙も、洗い流してよ……」

 私と雨以外の誰にも聞こえない。

 目を開いて空を見た。曇って涙ばかり流す空。やっぱり私と同じだ。それなら、

(あの雲が割れれば、この憂鬱を割れれば)

 きっと綺麗な空が見える。きっと今は変わる。

 そう信じた。


# # #


 窓の向こうでは、まだ雨が降り続いていた。空は雲で隠されていて、外は暗い。カーテンレールにぶら下がって首を吊るてるてる坊主。

(過去を燃やすんじゃない。未来のことを考えてもしょうがない。今を変えなきゃ)

 私は窓を正面に見た。そこに反射して映る私の姿。もう何度も見た、汚れた自分の姿。その顔が泣いているように見えるのはきっと気のせい。私はそこに映る私向かって、

「ごめんね」

 って呟いて、

「ありがとう」

 って呟いた。

 両手で握ったギターのネック。窓に映る私と、その背中に乗っかかっている憂鬱、そして窓の向こうの雲。汚れて見えるそれらを全て同時に睨みつける。ギターをハンマーのように振りかざした。そして、

「汚れた空も、汚れた私も、もう見たくない」

 そう言って、震える手を一気に振り下ろした。時間の流れが遅くなった。

 何かが割れる音がする。次の瞬間、私に見えていたのは、飛び散るガラス片たち。その一つ一つに、映る私。いや、それはもう私じゃない。私の姿をした憂鬱だ。

(さようなら、私の憂鬱たち)

 私の体に、小さなガラス片たちが突き刺さる。だけどもう、痛くなどなかった。暖かい光が私を照らした。外を見ると、雲が割れていた。そして、

――そこから見える空は、青かった。


物語の中で書かれた詩は、実際に私が投稿しているものです。

そちらの方もぜひご覧になってください。『水たまり』というシリーズにまとめてあります。

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