〔八話〕 人間の定義
人間の愚かしさは、いったいどこからやってくるのだろうか。
全てを思いどおりにしたいと願う誰かの心が、この歪みを生んだのだろうか。
「お、無事に帰ってきたみたいだな、真紅」
授業が終わり、教師がいなくなったところを見計らって真紅は教室へと戻ってきた。自分の席に座ると後ろから空の元気な声がかけられたが、真紅には応える元気すらなく、気づいたときにはぐったりと机に突っ伏していた。
「……おい、まさかかなちゃんに犯されたか?」
かなちゃん、という単語に反応したのか、体が自然と痙攣するような動きを示す。
それをどう解釈したのか、空は奇妙に固い日本語を発していた。
「……オイ……シンククン? マサカコノ短イ時間デ、大人ノ階段ノボッチャッタノカナ?」
背後の雑音を意識の中から追い出して、真紅は数分前までの出来事を自分の中で反芻し始めた。
――――――
ナイトメア。自分のことをそうだと認めた彼女へ、真紅はあらん限りの殺気を叩きつける。気の弱い人間ならば簡単に心臓を止めてしまいそうなそれを、けれども彼女は平然と受け流し、言葉をつむいでいく。
「担任なのに名乗ってすらいなかったわね。私はかなえ、漢字は願いを叶えるの叶よ。苗字は、一応朝倉と名乗ってはいるけれど、もちろん偽名よ」
「そんな話をするために、止めを刺さなかったわけじゃない」
「まぁまぁ、焦らないでよ。大丈夫、私はもうあなたと戦うつもりも、あなたを殺すつもりもないわ」
声からは棘が、体からは力が完全に抜け去り、その顔にはなぜか心から嬉しそうな笑みを浮かべている。
「……その言葉を、信じろと?」
それでも真紅は警戒を怠らない。先日の、集落を襲ってきた暗殺者も抵抗する力が残されていなかったはずなのに、最後の力で空を殺そうとしていた。あの姿を思い出すといくら警戒しても足りないのではないかとさえ思えてくる。
けれどその反面、真紅は彼女の腕をつかむ手から力を抜いていた。
彼女は確かに、ナイトメアの一人だ。だが彼女からは先日の暗殺者たちとは違う何かが感じられる。例えるなら、懐かしさ。
「さっきのあなたと同じで信じてもらうための材料は少ないけれど」
「少ない、というよりはまったくないな」
「ふふ……そうね」
楽しそうに、笑う。無邪気という言葉がよく似合う彼女のそれに、真紅はとうとう疲れて束縛を解いてしまった。
両腕を捕まえているベルトを片手で解き、彼女の上から退く。叶は嬉しそうに笑顔を深め、土を手で落としながら立ち上がる。
「ありがとう。信じてくれて嬉しいわ」
「……一つ、答えろ。お前は他のナイトメアとあまりにも違いすぎる。何故だ?」
ずっと感じていた違和感。その正体がどうしても気になって、気づけば自然とその問いが口をついていた。
叶は人差し指を下唇に当て、思案した後、ゆっくりと口を開いた。
「私は、ナイトメアとしては失敗作らしいから、きっとそれが原因ね」
「……失敗作、だと?」
少なくとも運動神経の面だけを考えるならば、彼女は他のナイトメアよりも秀でたものを持っているだろう。交戦した真紅だからこそ、それはよくわかる。ならば彼女が失敗作と呼ばれる原因が他にあるはずだった。
「たとえば、ホラ、私は死を恐れるわ。そこから他のナイトメアとは違うでしょ?」
「そうだな。それが欠陥だと?」
「そ。ナイトメアにとって恐怖という感情は、邪魔なものなの」
確かに戦いにおいても、捕らえられたときでも死を恐れるということは暗殺者にとって邪魔なものだ。戦いのときは迷いを、捕虜になったときは恐怖をそれぞれ生んでしまう。
だがそれは人間にとって、あまりにも自然なものだ。むしろ当然のようにもっていなければならないものではなかろうか。
「……もしかして、あの人は何も教えていないの?」
「……なに?」
真紅の反応を見て、叶は疲れたように深々とため息をついた。
「そうよね……あの人にだって伝えたくないことはある。気に入っている子になら特にそう……私でも、きっと言えない」
「おい……いったい何を……?」
「――いい、真紅くん。心して聞きなさい」
彼女の真剣な眼差しを正面から見て、真紅は口をつぐんだ。次に訪れる言葉がとても重要な意味を持っている気がして、聞き逃すまいと耳を傾ける。
「私たちナイトメアは……自然に生まれ出た存在じゃないの」
どういう意味なのか、真紅には理解できない。叶は言いづらそうに視線をそらし、泣きそうな瞳を震わせていた。
「私たちはある男のクローン。人工的に作られた、殺人のために生き続ける人形よ。ナイトメア、悪夢って言うのはね、私たちのリーダーが皮肉を込めてつけた名前なの」
「クローン……? そんなものが……」
「事実よ。元々は男の遺伝子を使っているから、女の私は一種の突然変異。他のナイトメアと比べると中途半端な力、抑えられない感情。作った人間から見れば、間違いなく失敗作でしょうね」
頭を強打されたような衝撃が、真紅を襲っていた。
咽が不自然に渇く。神経が細いつもりはなかったが、この内容はあまりに衝撃が強すぎた。
思考が停止しているうちに叶は真紅の目の前へと移動していた。抗えるほどの気力は、真紅に残っていない。彼女が真紅を殺すつもりだったなら、簡単に目的を達成することができただろう。
けれど彼女は同じくらいの背をしている真紅の頭をそっと抱え、自分の胸へと導いた。
「なっ……!」
「あったかいでしょ? 温もりも、心もあるのに私たちはあなたたちとは違う存在なの。信じられる?」
信じられるはずが、ない。頬に感じる温もりも、安らぎも、全て人間ではない存在から与えられている。そんな考えが浮かぶこと自体が、間違っている。
それに、ならば幼い頃の約束は、いったいなんだったというのか。
――悪夢を終わらせる――
あの時感じた、失われていく温もりと鼻孔に残る血の臭い。言いようのない喪失感。それら全てが偽物だと、肯定しろというのだろうか。
そんなものを真紅が許せるはずがなかった。
「……あんたも、あの人も、人間だ。間違いなく、誰がなんと言おうと、俺たちと同じ人間だ」
「ありがとう。あの人の言うとおり、あなたは優しい子ね」
最後に柔らかく頭を撫でられて、真紅は解放された。
正面にしっかりと立って、彼女の瞳を見つめる。朱色の混じったその瞳は、今は決意に満ちていた。
「あなたと戦うつもりは、もうないわ。ちょっとだけ力が見たかったの」
「なぜだ?」
「私は、あなたと同じ。クドウ レンの意思を叶えてあげるために戦っているの。同じ目的を持つものどうし、一緒に戦えないかと思って」
その懐かしい名前は、真紅の心へゆっくりと染み渡っていくのだった。
――――――
工藤 錬。ナイトメアの元リーダーであり、真紅の父、白羽の部下。真紅を死のふちから救い出した男だが、彼は七年前、真紅の目の前で血にまみれ、力尽きた。
彼との記憶はあまり多くはない。元々は父のところへよく来るお兄さんだとしか思っていなかった。それが両親を失い、祖父に預けられるまでの少しの期間とはいえ、本当の兄弟ほどに親しくなっていた。幼い頃の真紅にとっては初めて頼りにできる年の近い人だった。
だからこそ彼が死んだショックは大きすぎたし、真紅の根底には彼の死が、今も根強く残っている。
「あの人の意思……か」
確か錬は当時十七歳。叶とは同年代だ。もしかしたら、恋仲くらいにはなっていたのかもしれない。
だとしたら、彼女には悪いことをしたなと思う。錬が死んだ原因は直接ではないとはいえ真紅にある。
嫌な思考をしていることに気づき、頭を振って雑念を飛ばす。
たとえどれだけ考えようと、彼が戻ってくるわけではないのだ。
「……おーい、真紅? そろそろ現実世界に帰ってきて、アレを止めてよ」
「っ……! なんだ、愛美か。どうした?」
いきなり目の前に現れた可愛らしい顔に、真紅はようやく現実へと連れ戻される。いくら付き合いが長いとはいえ、鼻と鼻が触れ合う距離まで接近するのは心臓に悪い。
「どうした、じゃないって。あんたの後ろにいる馬鹿を何とかしてよ」
振り返るとそこには口から奇妙な空気を吐き出して、白目をむいている何やら面白い空が座っていた。口から出ているものは俗にエクトプラズマというやつだろうか。付け焼刃の知識ではなんとも言いづらいが、本来の人間ではありえない現象が起こっていることだけは真紅にも十分理解することができた。
「……これ、どうしたんだ?」
「あんたが何の反応も見せずに、一人で記憶の海を彷徨ってるから空が一人で暴走しちゃったのよ。何か、大人の階段がどうのって言ってたけど、ともかく何とかできるのはあんただけなのよ」
愛美の言葉に納得してしまう自分がいる。今の空はどこからどう見ても安全ではない。一歩間違えばこれは犯罪を犯してしまいそうなほど危うい。そんな空を力でねじ伏せられるのは、ここにいる人間の中では真紅だけだろう。
重たい体を椅子からひっぺがして、真紅はゆったりと立ち上がる。気だるい感じは抜けきっていなかったが、それでも目の前の壊れた空を止めることくらい雑作もないはずだ。
「悪い、空」
一応謝っておいて、隙だらけの首筋に素早く衝撃を与える。蛙がつぶれたような気味の悪い声を上げて、空は机に顔面を叩きつけ、そのままピクリとも動かなくなってしまった。
視界の端で京が心配そうに空を覗き込んでいるが、それを愛美がそっと引き離す。賢明な判断だと、真紅も同じように距離をとる。
「なぁ……真紅よ。いくらなんでも、今のは痛かったぞ?」
机に顔面を突きつけたまま、正気に戻った空がしゃべりだした。冷静な声音でお調子者の空からはあまり聞くことが出来ない声だったが、それゆえに空がどれだけ怒っているか、よくわかる。
「う……すまない」
「謝れば済むものじゃないよね、ん?」
ゆっくりと、緩慢な動作で目の前の親友は頭を上げる。日光を浴びたその表情は眩い笑顔に覆われて、他者の発言を許さない壁が教室内の全てを埋め尽くしていた。
恐ろしいと素直に感じてしまう。暗殺者なんて比にならないほど、空の放つ負の気配は邪悪なものを含んでいる。
「さぁ、真紅。黙って制裁を受けろよ」
猫なで声に四肢を怖気が走る。逃げようとしても両足が固まってしまって動けない。
「や……まて、空。話せばわかる、だから少しは……う、うわあぁぁぁぁ!!」
その後、真紅の悲鳴が数分間教室内を木霊していたという。
こんにちは、広瀬です。
真紅の根底を作っている男、工藤 錬。やっと名前だけは出せました。今まで『あの人』とか『彼』とか代名詞だけしか使えなかったので作者的にはよかったです。
さてまだまだ続いていく学園編、次からは真紅ばかりではなく他の人たちにもスポットを当てていこうと思っています。