〔八十話〕 薬
人には、それぞれの役割がある
彼女の役割はきっと、彼らを支えることなのだろう
保健室の空気というものはどうにも独特で、どこか神秘的なものを含んでいるように思えて真紅は少しだけ苦手意識を持っていた。
元々学校というものを知らなかった真紅には保健室の存在自体が入学までは知らないものであり、入学してからもほとんど使用する機会が無いものだった。そのためその部屋にあるもの全てが珍しく、棚の中に安置された薬や体温計、薄水色のカーテンで仕切られたベッドなどは好奇心の赴くままに弄ってみたいと思っていた。
残念ながら今は、暴れた空のせいで部屋の半分ほどが壊れている。二つほどベッドが蜂の巣になっていたり、薬品が入っていただろう瓶が粉々になっていたりと、保健室の主である教師が見れば卒倒してしまうのではないだろうか。
惨状を無視して空の横たわるベッドの傍らに立つ。
一番窓際のベッドに空の身体を横たえ、窓の方に愛美と天一が、カーテンを背に真紅と康が陣取っている。天一と康はそれぞれ備え付けの椅子に腰掛け、愛美は立ったまま空の表情へと視線を落としている。
一通り空の身体を検査して、窓際に背を預けた叶が小さく溜め息をついた。
「……本当に眠ってるだけね。外傷も……まぁ破けた制服を着替えさせれば全くの無傷でしょ。内臓に損傷がある形跡もないし、これ、ほんとにあなたの力じゃないの?」
疑うような声を投げられて、丸椅子に座っていた康が頭をかいた。
「あの空間には確かに一定のルールができてた。でも、死んでも回復できるルールなんて魔力がどれだけあったってできるものじゃない。残念ながら、俺の力ではないよ」
きっぱりと否定する康の表情もどこか困惑気味で、横たわる空に剣の雨を浴びせた張本人に至っては未だ不思議そうに首をかしげている。
真紅だって、正直な話まだ実感ができていない。
明らかに死に体だったはずの肉体が完全に回復する。天一の攻め手に何か不具合があったのだとしたらそこを突破口に色々と考えることもできただろうが、いかんせん、あの”剣のオーロラ”は欠点すら感じることができなかった。
空の暴走から始まった今回の騒動は、最初から最後までわからないことだらけだった。
「ともかく、できるだけ原因を調べてみてくれ。あんたが作った薬だ、責任持って解析しろよ」
「はいはい、わかってるわよ。好意が裏目に出ることなんて良くあることだし、落ち込んでなんていませんよ、ええ」
好意の度合いを調節できないのが叶の悪いところなのだろう。そんなことを考えつつ真紅は空へと視線を落とす。
眠り続けるその表情は穏やかで、呼吸も規則的に行われている。さっきまで無慈悲なまでに暴れていた存在とは、似ても似つかない。陽光が彼の表情を照らして、一瞬だけ眩しそうに眉をしかめたが、それでも起きることは無かった。
ここまで穏やかな表情をされると、こっちまで眠くなってしまう。
「……授業サボって、寝ててもいいか?」
「ダメに決まってるでしょう、不良生徒」
冗談交じりに放った言葉だったが、真紅の身体はボロボロだし精神力はほとんど持っていかれているかのように、授業中に眠ってしまってもおかしくは無い状態だった。
それは天一や康も同じなのか、真紅が叶と言葉を交わしている間に目を閉じて仮眠しているようだった。
「……あんたら、ほんと不良ばっかりね」
座りながら眠る二人に気づいて叶は溜め息をついた。
「あぁ、そうだ。真紅、一つだけ確認したいんだけど、いい?」
「ん? なんだ?」
一瞬愛美のほうへと視線を向けた叶は何も言わずに窓枠から背を離し、反対側のドアへと歩き出す。真紅も黙ってその背中に続き、愛美を残して保健室を後にした。
授業中の廊下に出た叶は小さな溜め息と共に白衣のポケットから一本の試験管を取り出す。
白濁の詰まったそれを見て、真紅は背筋に寒いものを感じる。それが何なのかを瞬時に理解して思わず手を伸ばしていた。
叶の手からひったくったそれを光にかざすと、まるで固体のように光を通してくれない。
「それが空に飲ませた精力剤。飲んだすぐに倒れちゃったから味とかは保障しないわよ」
「……一本だけじゃないと思ってたが、今持っているとは思わなかった」
「正直、今にも処分したいところだけどね。まだ使い道がありそうだから、そうもいかないみたい」
試験管を叶に返して、真紅は腕を組む。
叶の開発したそれが何なのか定かでない以上、真紅には口を出すこともできない。彼女の思考を読もうとしても、根本的なものがないなら無理だった。
「使い道、って?」
「空が暴走したとき、一度でも言葉を発した?」
質問に質問で返されて、それでも真紅は思考をめぐらせる。
真紅を追っていたとき、天一の奇襲を防いだとき、そして全身を剣で貫かれたとき。空は呼吸すら乱れていなかった。本来なら上げるはずの苦痛の声も、全くといっていいほど聞こえなかったではないか。
その姿は、まるで――
「感情を感じなかった……ナイトメアみたいに、でしょ?」
「どういうことだ? 空は……」
「ナイトメアではないよね。あれは人間として色々と欠陥がある。私が言えたことじゃないけど……ナイトメアと人間の違いは、結構簡単にわかるもの」
しかし、空の攻撃性、残忍性、様々な面が彼らのそれに酷似していたのも確かだった。
原因がわかっている以上、その原理がわからない。
「元々この精力剤は私たちの回復力とか生態データを基に構築したものだから、どこかで間違えて、理性までなくなるように作っちゃったんでしょ。そこさえ直してしまえば……薬として使うことも可能なの」
「なるほど……その間違いは、どれくらいで直せそうなんだ?」
「そう、ね……わからないけど、それほど時間もかからないと思うわ」
「そうか。なら――」
薬が出来次第、奴等との戦いを再開できる。
傷の回復力が上がるのなら数で負けているこの状況でも、奴等と戦うことができる。そもそも個々の力だけなら負けているわけではないのだ。ゲリラ的に戦うつもりだったものが、正面きって戦えるようになるのなら願ったりかなったりである。
「こら、変な考え起こさない」
「っ!」
人差し指で額を刺され、思わず変な声が出そうになる。
してやったりという表情をする叶を恨みがましく見つめて、一区切り置いてから溜め息をついた。
「まだ情報が少ないんだから、無茶しちゃダメでしょ?」
「教師みたいなことを言う……」
「教師ですから」
胸を張って嬉しそうな表情をする叶には流石の真紅も言い返せなかった。
「ともかくもう少しの間は大人しくしててよ? 七夜も何かやってるみただし、できれば仕掛けるまでは水面下で動きたいんだから」
「わかってる。七夜が何をやってるかなんて興味は無いが、こっちはこっちで、やることもしっかりしているしな」
未だ腰にささっている六花を優しく撫でて、真紅は叶に向き直る。
今、真紅たちがやるべきは守るための手段を充実させること。敵を倒すための手段ではなく、仲間を、誓いを、敵から守りぬくための手段こそが最も必要なものだった。
「そろそろ戻ろう。天たちにも授業がある。いくらこっちはあんたの弁護があるって言っても、いくらなんでも休みすぎだ」
「あ……そういえば、私の授業の時間、終ってるわ」
「……マジ?」
また他の教師に弁解しなければならないと思うと、鋭い痛みが頭の右側を走る。
目の前で見せる屈託の無い笑顔が、その痛みを助長させていた。
おつかれさまで~す、ひろせで~す。
今日も今日とて忙しい毎日。あれ? 大学生って楽だよっていわれてなかったっけ? 二年前の自分に言い聞かせてあげたいですね。
さてさて今回は繋ぎみたいな回ですが、意外と重要な話かもしれないっすね。薬で……ドーピング以外の何物でもない……。
では、次回もさっさと更新するつもりでいますんで。
ではでは~~。