〔七話〕 黒の女
ありえないこと、というわけでもなかった。
ただ、あまり喜ばしいことでもない。
少年の予想を超えて、世界は早く回っていく。
愛美たちとの昼食は思いのほか楽しいものだった。
昔のことや真紅についてはなるべく触れないよう注意は必要だったが、彼女自身の心根は優しく、あまり自己主張をしないおかげで何事もなく終わることができたのだった。
そろそろ次の授業だということで、愛美と京は一足早く校舎へと戻っていった。
「よかったな、気づかれなくて」
大きく伸びをして空は快活な笑みを浮かべて見せた。真紅は無言で頷き、ゴミを手近な屑篭へと放り込む。片手で投げたビニール袋の塊は風に流されることもなく、目標の篭へと収まった。
安堵。それが真紅の心の大半を埋め尽くしていた。
彼女についての安堵とは別の、自分についての記憶が蘇らずに済んだことへの安堵だった。
京に自分のことが知られるのは、まずい。愛美にも言ったことだったが彼女の父親は真紅にとっては敵だ。彼女が父親に真紅の生存を教えてしまったら、真紅だけではなく空たちにまで迷惑が及ぶことになる。それだけはなんとしても避けなければならなかった。
「さて、授業だな。早く行こうぜ、真紅」
物思いにふけっていた真紅は、空の声に促されるまま立ち上がり、彼の背中を追うように歩き出す。
優しい風が頬をなでる。熱くもなく冷たくもない。心地よいその風にはかすかに甘い香りが混じっていて、真紅は小さく眉をしかめた。
「? どうした、真紅?」
「空。先に行ってていいぞ。たぶん、俺に用があるんだと思うから」
よくわからないと言いたげに首をかしげる空を置いて、真紅は彼を追い越す。その向こう側にいる人物へと、鋭い視線を向けたまま。
「――気づいてくれて嬉しいわ、朝凪くん」
にっこりと、表面上は優しく取り繕っているその笑みは真紅の警戒心を促進させる。一定の距離をとって、真紅は足を止め、瞳にありったけの殺気をこめた。
「何の御用でしょうか……先生」
校舎に背を預けていたのは真紅たちのクラスを担任する女教師だった。すらっとした体格によく似合う黒のスーツを纏い、口元には艶のある笑みを浮かべている。昨日の、クラス一つまとめることができなかった頼りない雰囲気は完全になくなっていた。いや、今の彼女を見る限りでは、もしかしたら昨日はわざと生徒たちの好きにさせていたのかもしれない。
なんにしても警戒を怠ることは、真紅にとってマイナスでしかないだろう。
「ええ。次の時間は私に付き合ってもらえるかしら? 次の授業を担当してる先生には私から連絡しておいたから」
「……わかりました」
心の中で小さく舌打ちして、真紅は歩き出した彼女の背を追う。
身に纏っている雰囲気からは危機感しか感じられない。言いようのない恐怖は普通の人間がかもし出せるものではなかった。
それとも、と真紅は思案する。教師というものはこういった雰囲気を隠し持っているものなのだろうか。
教師というものをよく知らない真紅にとって、その疑問は至極全うなものでもあった。
教室の窓からは見えない校舎裏へと連れてこられた真紅は、彼女からは視線をそらさぬまま、周囲の状況をうかがった。
しっかりと整備の整った土の地面。左手には校舎の白い壁が、右手には網目状の柵が設置されている。柵は二メートルほどあり越えようと思えば越えられる。柵と校舎の間は、目測で五メートルほど。
「さて、ついてきていただいた理由が何なのか、あなたはわかっていますか?」
その問いに真紅は黙って首を振る。初対面にも近い人間から殺意を向けられる理由など、真紅には見当すらつかない。
教師は艶やかな笑みを浮かべると、一呼吸おいて言葉をつむいだ。
「あなたがいったい何者なのか、それを確認するためです。”朝凪”くん」
朝凪を強調した言い方に、眉をしかめる。
その問いには、真紅にとって二通りの意味合いがあった。
一つはナイトメアの関係者という線。彼女がその関係者だったとしたら真紅を人気のない場所に連れてきたことにも納得がいく。
そして、もう一つは――
「あなたはあの、朝凪 白羽さんのご子息よね? たしか行方不明ということになっていたはずだけど、なぜそのあなたがここにいるのかしら?」
真紅の素性を知り、こうやって本人か確認するため。こちらの線は薄いと思っていただけに、真紅は一瞬、両足の力が抜けるような錯覚に陥った。
朝凪家のことを知っているものならば、確かに真紅が本人か、また本人ならなぜそうやって名乗らないのかを問うだろう。真紅は家に戻ったわけでもなく、正式に家を継いではいなかった。
「なぜ、そんなことを聞くんです?」
「あなたが本物かどうか、本当はどうでもいいのよ。上流階級の人間にはそれなりの事情があるでしょうから。でもあなたが暗殺者の類なら、生徒に危害が及ぶ存在を見過ごすわけにはいかないの」
その言葉は教師として彼女がいかに生徒を思っているかよくわかるものだった。
だが彼女が信頼に値するのか判断材料が少なすぎて、たとえ放っている言葉が正しく聞こえようとも、本当のことを言うわけにはいかなかった。
「本人かどうかはともかくとして、暗殺者の類ではありませんよ」
「証明することができるの?」
「御子柴たちが知り合いなんです。それだけで十分だと思いますが?」
慣れない敬語を使って、真紅はなるべく威嚇しないように言葉を投げかける。彼女は口元にそっと手を添えて、思案するように目を閉じた。
一瞬、周囲を取り巻いていた緊迫した雰囲気が霧散した。それを彼女が警戒を解いたからだと思った真紅は、自身も警戒を解き、細く息を吐き出した。
「では、用が済んだのなら俺は戻ります。授業の途中からでも……」
踵を返し、校舎へと戻ろうとしたとき、真紅の背筋を怖気が走った。
振り返り、本能が腕を動かす。それと同時に後方へと飛び跳ねると、目の前で組んだ腕を重たい衝撃が襲った。痛みに顔をしかめることもなく、片足だけで勢いを殺し、追撃へと備える。
――最初の予想が当たっていたか。
攻撃の重み、動きの早さ、死角からの攻撃。彼女は、普通の人間ではない。
真紅の油断を誘うために、わざと生徒思いの発言をしていたのだろう。
攻撃を繰り出したであろう彼女は、今の奇襲を防がれたショックのためか、目を見開いたまま固まっている。
「……今のを、防ぐの……?」
「死にたくないんでな。当たり前だ」
遅れてやってきた痛みを無視して、両足に力をこめる。学校に刀を持ってくるわけにもいかないが、祖父に鍛えられ、空と手合わせを続けるうちに素手での戦いもある程度はできるようになっていた。
次に仕掛けてきた瞬間が勝負。そう思い、真紅は全身の神経を研ぎ澄ませる。
「なら、これでどう?」
正面から仕掛けてくることなど、彼女はしなかった。校舎の壁を蹴り、大きく跳躍した彼女の影は、一瞬だけ真紅の視界から消え失せ、鋭い風が真紅の頬を切り裂くように吹き付ける。
けれど、その行動は真紅の予想したとおりのもの。
膝を折り、真紅は大きく身をかがめる。頭上を掠めていく風を確認して、右足を振り子のように、彼女の足へと叩きつける。
「――あっ!」
頓狂な声を上げ、体制を崩す。蹴りの反動を利用して上半身をひねり、倒れかけた彼女の体を左手でつかまえると、そのまま力任せに地面へと叩きつけ、肘をその顔面へと振り下ろした。
「つっ〜〜〜―――!」
止めを刺す寸前、彼女は両目を強くつぶり、きゅっと口を縛った。
――ありえない、ことだった。
真紅の考えが正しならば彼女はナイトメアの一員だ。本当に彼女がナイトメアだったとしたら、こんな行動をとることはない。ナイトメアの特徴の一つが死を恐れないことなのだ。少なくとも真紅が知る限り、死に何らかの反応を見せたナイトメアは一人しかいない。
彼女の顔が、かつての『彼』の顔とダブった。
元々殺すつもりなどなかったが、彼の残像が真紅の振り下ろした肘を止めていた。
真紅の肘は彼女の鼻先で停止し、彼女の額にかかった髪の毛が真紅の起こした風によって後ろへと押しやられる。
「……え……?」
殺される、と覚悟していたからか彼女の口から驚きとともに大きく息が吐き出された。
「答えろ。あんた、何者だ?」
肘を鼻先に突きつけたまま、彼女の両腕をベルトで縛り、左手で押さえる。
彼女は額に冷や汗を伝わせ、もう一度息を吐いた。その姿からは安堵が感じられ、やはり真紅は眉をしかめる。
「……ごめんなさいね。挨拶としては、少々手荒だったかしら?」
強がって見せるが、彼女の声はまだ、震えていた。
「あんな挨拶、聞いたことがない」
すがすがしそうに目を閉じて、彼女はさきほどまでとはまったく違う、幼い笑顔を浮かべた。その笑顔が、不思議とよく似合う。おそらく本当はこっちの笑顔が、彼女本来の笑顔なのだろうと、真紅はなんとなく納得してしまった。さっきまでの笑顔からは人間味がほとんどしていなかったが、今の笑みは本当に人間じみている。
「……教えてあげる。私は、あなたの想像しているとおり、ナイトメアの一人よ」
楽しそうに、嬉しそうに、彼女はそう言い放った。
こんにちは、広瀬です。
さて、なんか出てきた女教師ですが初登場のときはすごく影が薄かったですよね。二言くらいしか放ってなかった気がします。正直、こんなキャラをやらせるつもりはありませんでした。
でもいつの間にか気の強い女教師に……。世の中わからないものです。
さて、もうナイトメアに見つかってしまった真紅ですが、どうなっていくのでしょうか?
作者としましてもいろいろと出来そうで楽しみです。