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〔七十四話〕 ある夏の物語 〜空〜 後編

 少女の瞳に映るのは見慣れた現実か。

 それとも、新たに見えた非現実か。


 どちらにせよ、彼女の世界は動き出す。

 いくら家自体が金持ちだとしても、子供のほうも金持ちかと問われれば答えは否である。


 愛美のような特別な事情があり、家が持つ財産を全て自由に使えるのなら話は別だ。けれど空の場合は家のことを除けばその辺にいる一般学生と大差はなく、むしろ月々の小遣いだけを見てみればかなり少ない部類に割り振られるのではないだろうか。


 それとは知らず、正面に座る二人の少女は片や笑顔、片や困惑気味の表情を浮かべたまま食事を取っている。そもそもあまり食欲がなかった空ではあったが、せっかく好意で奢ってもらった昼食を無碍にするわけにもいかなくて、一足先に一息で食べ終えていた。



 正直、味はよく覚えていない。



 美味しかったという曖昧な記憶はあるものの、どんな食感だったとか、詳細を語れといわれた場合どう言えばいいのかわからない。


 理由は二つある。一つはもちろん精神的な疲労が溜まっているから。そしてもう一つがやはり目の前で繰り広げられる少女たちの会話のせいだった。


「涼ちゃんは小食だね。なのに塩ラーメンのチョイス。うん、面白い」

「え、えと、それって褒められてるのかな?」

「うんうん。褒めてる褒めてる」


 照れくさそうに頬を染める涼から少しだけ視線を逸らし、けれど会話のほうは意識を反らすことができなくて、空は二人に気づかれないよう溜め息をつく。


 元々お調子者のように振舞っていた空だが、確かに面白おかしいことが好きではある。しかし女の子の会話にどうやってついていけばいいのかはいまいちよくわかっていないし、引っ込み思案の涼に話しかけた場合どんな反応を見せるのかは教室でのやり取りでわかっている。


 自然と空は黙り込むこととなり、少女二人の会話は広がっていく。


 退屈だということはない。涼は美形だし愛美も外見だけはそこらの令嬢に見劣りしない。そんな二人の会話を至近距離で見ることができるのなら、ある程度歳を召した男なら金を払ってでも体験したいだろう。


 もっとも空にはまだそんな趣味はないし、これからもそうなる予定はない。


「でも涼ちゃんって優しいね。こんな馬鹿のために昼食持っていこうなんて」

「そんなことないです。御子柴くんにはいろいろとお世話になっていますので、こんな形でしか、普段のお礼ができないと思って」


 普段のお礼と言われたところで空にはあまり覚えがない。クラスメイトなのだから何度か言葉を交わし、一緒に作業をしていてもおかしくないものの、特別彼女に手を貸したことはない。そもそも保険委員は体調の悪い生徒がいた場合、その生徒の要望があるときのみ手を貸せばいい簡単な委員だ。手を借りたことがあるならともかく、感謝される理由はない。


 愛美も同じことを考えたのか、小さく首をかしげて問いかける。


「空に? 馬鹿ばっかりやってるこいつが、迷惑じゃなくて?」


 愛美の言い分は少々癪に障るものだったが、自身で考えても間違いはない。


 空の反応を気にしてか、一瞬だけ言いよどんだ涼だったが、柔らかい笑顔を浮かべて口を開く。


「直接では、ないんです。でも御子柴くんの行動っていつも、クラスの雰囲気を明るくしてくれるじゃないですか? そういう時って、元気のない人も元気が出るんです。体調が悪い人も、笑って元気になる。それだけで私の仕事なんてなくなっちゃうんです」

「それが、空のおかげ?」

「はい。私は、そう思っています」


 間接的に彼女の仕事を減らしている、少なくとも彼女はそう思い、空に感謝している。はっきり言うと空にはそんな意識微塵もないし、自分が楽しければ学園生活などそれでいいと思っていた。そんな自らの行動が誰かのためになっていて、誰かに感謝される行動になっている。こんなに不思議で、こんなに居心地が悪いはずなのに、どうしてこそばゆいのだろう。


 隠し切れない恥ずかしさから視線をさらに別の方向へと向ける。


 他の学生たちは次の授業の準備や自分たちの校舎へ戻るため、既に移動を開始している。空や愛美たちの場合は教室がそこまで遠くないことや、次の担当が叶だということもあってゆっくりとしていられるが、涼を付き合わせるのは可哀そうかもしれない。


「ところで、戻らなくていいの? 次の準備とか、植田さんはしなくて大丈夫?」

「あ、はい。御子柴くんたちはまだ、戻らないんですよね?」

「ん? ああ、朝倉先生は少し遅れてくるし、とりわけ時間に厳しい人でもないからな。ゆっくりしようかと思ってる」

「なら、もう少しだけご一緒させてください」


 教室で交わした会話とも呼べない会話より、遥かに落ち着いた言葉と雰囲気。打ち解けたとかそんな理由で、変わっているのではないだろう。



 何が違う。



 一緒に昼食をとったからいきなり打ち解けるなどありえない。特別親しい会話をしたわけではない。いつものような明るい雰囲気をかもし出す気力も今はない。



 なら、何が違う。



 周りへと視線を向ける。券売機の前で感じていた男子からの視線は既になく、残っている少ない生徒たちも自分たちの会話に夢中だ。集中していたわけではない、空気のように存在していた視線は完全に抜け落ち、本物の空気だけがその場に残る。


 空の中で、何かがすとんと腑に落ちた。


 目立たないような行動、常日頃は目立たない保険委員という役職、おどおどとした”ような”性格。まるで作られたような、行き過ぎといえるほどおしとやかな性格は弱々しい自分を他人に理解させようとしているのではないだろうか。


 弱々しい彼女は、彼女の本質とは少し離れた場所にあるのではないか。


 確証はなければ、そんな行動をする理由もわからない。そんな感じがする、としか言えない。


 まるで真紅のように直感に任せた判断。何の確証もないものをどうして信じることができるのか今までは不思議で仕方がなかったが、今は少しだけわかる気がする。


 環境の違い、微小な変化、経験則から導き出される答えを最後には自分の直感で判断する。それが真紅の直感を裏付けているのかもしれない。


 そんなことを思いながら、視界の端に入り込んだ人物に驚いて思考を現実へと戻される。


 食堂に入ってきた白衣の女教師。スーツと白衣の狭間で見え隠れする透明な試験管には緑色や青といった液体が並々と注がれていて、おそらくは何か危険なものだろうと予想できる。


 生徒の少なくなった食堂で、彼女は学内で被っている仮面などお構い無しにおもちゃを再発見した子供のような無邪気な笑顔を浮かべた。


 背筋が凍るような感覚。蛇に睨まれた蛙のように呼吸すらできなくて、空の脳内で警報が鳴り響く。


 彼女が、朝倉 叶が苦手だということは決してない。表の顔は害のない存在であるし、裏の顔もはきはきとしているが自分たちに不利益となる行動はしないだろうと考えていた。


 ならば何故、自分の全てが警戒心をあらわにしているのか。わからぬままに目の前へとやってきた叶は、なお笑顔だった。


「聞いたわよ、御子柴くん。調子が悪いんですってね?」

「だ……誰がそんなこと」

「愛美ちゃん」


 何を当然と言いたげに人差し指が愛美へと向けられる。乾いた笑顔を浮かべる愛美も叶の変化に驚いているようで、悪意があったとは思えない。


 珈琲を買ってきただけではなかったらしい。


「な、何の用でしょう?」



 自然と震えだす自らの声。



 自然と広がっていく彼女の笑顔。



 関係のない涼がいることも気づかずに、叶は恐ろしい笑顔を浮かべたまま懐から一本の試験管を取り出した。



 純白の、まるで固体のような液体。



 コルクに封じられた試験管の中に鎮座する奇妙なそれは、美しいとは思うのだがどういうわけか危機感を覚えずにいられない。


「これ、御子柴くんに試して欲しいんだけど、いいかなぁ?」

「全力で拒否させてください」


 どんな方法で、どんな効力を持っているのか定かではないが、どう考えても危ないものだ。


「まぁまぁ、そう言わずに。一本分飲み干せば活力が沸いてくるからさ」


 およそ人間の飲み物には思えないそれに、全身が更なる拒絶反応を示す。


「明らかに毒なんですけど、それ」

「ううん、そんなことないよ? ただちょぉっと、意識が飛ぶこともあるかもなぁってだけ」

「っの……マッドサイエンティス……んが!?」


 油断していた口へと突っ込まれた試験管。いつの間にコルクを外していたのかわからないが、呑み込むわけにはいかないと残っている精神力を総動員する。


 数秒拮抗していた力だったが、押し込まれた液体を呑み込まないにも限界があった。


 喉を通り過ぎたのは液体だったはずだ。しかし熱くもなく冷たくもなく、まるで空気のようなものが腹部へと落ちていく。


 胃を中心に冷たい感触が全身へと広がってゆく。四肢へと到達したそれはまるで眠りのように四肢の感覚を少しずつ鈍らせてゆき、空の意識に薄い靄をかけていく。


「こ……の……」


 空になった試験管を離されて、言葉を放つことが出来るようになっても、舌が麻痺しているのか思ったとおりに動かない。


 嬉しそうな叶の笑顔、苦笑いの愛美、そして戸惑ったような涼の表情を視界に捉えながら空の意識は完全に、闇へと沈んでいくのだった。



――――――



「あら、倒れちゃった。調合ミスったかなぁ」


 勢いよくテーブルへと突っ伏した空を見て、叶は首をかしげる。本気で不思議そうな表情からは絶対に元気になると確証があったようで、愛美はただただ苦笑を浮かべるしかなかった。


 傍から見ていた愛美ですらアレがまともな飲み物ではないことくらいわかった。純白の液体は透明感など微塵もなく、まるで液体化した雪のようで、美しくはあるが同時に恐ろしい。そんなものを飲まされてはさしもの空もただではすまないだろう。弱っている状態ならなおさらだ。


「結局なんだったんですか、あれ」

「え? 精力剤の改良版」


 何をどう改良したのかはこの際聞かないでおく。ともかくまともなものではないことだけ、確かだろうと思ったから。


 予想外だったのは学校内の、それも人の目がある場所で本性をあらわにしたことだ。同じクラスの涼がいても学外と同じ性格を維持しているのは何か考えがあってのことか、それとも単純にほかの事が見えていないのか。


 どちらにせよ隣で茫然自失に陥っている少女を、どうにかせねばならなかった。


「……叶先生、色々とやることが増えましたけど、大丈夫ですか?」

「へ? 何が?」


 本気で気づいていない。その事実に半ば頭痛を覚えながらも、溜め息をついて堪え、隣の少女を指差してみせる。


 未だ呆然と叶を眺め続ける少女は自分が指差されたことすら気づいていないようで、叶もそちらを向いてからは他のものが見えていないように固まっていた。涼にとっては優しく穏やかな教師という印象しかないだろう叶が、こうも砕けた女性だったという事実を受け入れるにはそれ相応の寛容さが必要になる。


 空が沈黙した今、事態を収拾させられるのは愛美だけとなっていた。


「あ、あのね、涼ちゃん……これは、その……」


 ともかく涼を復活させようと声をかけてみる。けれど彼女は愛美の声などまるで聞こえていないようで、焦点の合っていない視線を叶に向けている。



 その瞳に愛美はふと違和感を覚える。



 彼女の瞳に映っているのは恐怖ではない。彼女の変化や空に行った行動を鑑みると恐怖のほうが鎌首をもたげるのではないかと愛美は考えていた。だがそこに映っているのは、まるで、羨望。


「す……素敵」


 ゆっくりと口を開いた涼に、愛美はただ驚愕するしかなかった。


 目を輝かせ、今にも抱きつかん勢いでテーブルから身を乗り出す。好奇心を通り越し、崇拝の域に達した瞳の色は彼女本来のものとは全く異なったもので、愛美はただただ呆然とことの流れを眺めることしかできなかった。


「えっと……は?」


 思わず漏れた言葉はけれど、幼い少女のように目を輝かせた彼女に届くことはない。ようやく自身を取り戻した叶も自分のクラスで見ていた彼女と全く異なった彼女を見て、表情を引きつらせている。


「素敵です、叶先生! 凛々しい表情、素早い動き、まさに私の理想像です!」

「えーー……とりあえず、ありがとう?」


 返す言葉を失って、やっと出てきたのはなんとも情けない声音。その頬を汗が伝っていることに気づいて、愛美は何となくおかしくなる。



 けれど次の言葉は、流石に笑い飛ばすわけにはいかなかった。



「叶先生! お願いです、私を、私を……叶先生にしてください!」



 愛美も、きっと叶も、彼女の言葉をただ呆然と反芻することしかできなかった。



 今回もやはり可哀想な目にあっている空、うん、残念すぎる。


 どうも、広瀬です。六月になった瞬間更新していますが、残念ながらこの更新、連続とは行きません。

 や、最近は確かに更新が減っていましたが、これから一週間は確実に更新できなくなりまして……。


 戻ってきたら早く続き書かないとなぁ。


 本編の内容に全く触れていないことに気づいたので、一応触れておきますか。




 がんばれ、空。




 以上! ではでは〜

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