〔七十二話〕 ある夏の物語 〜真紅〜 後編
平和だ。
そんな感情を心地よく感じるのは、別にかまわないのではないだろうか。
理不尽な少女に少しだけ辟易して、溜め息をつきながらベンチに座る天一の隣へと腰を下ろす。恵理のことになると腰が低くなる彼に苦笑を向けて、彼が差し出した紙パックの飲み物に口をつけた。
「……ぶふぉっ!?」
一口飲み込んだ瞬間、青臭い匂いと強烈な酸味が口内を犯していく。言葉では言い表せないほどの苦味が後からやってくると共に青臭い匂いが胃へと到達し、大きな波のように吐き気がやってくる。
危うく戻しかけたものをぐっと堪えて、真紅はゆっくりと手元の紙パックへと視線を落としていく。
『眠気スッキリ! 青汁プラスレモン汁!』
完璧なまでのゲテモノ飲料水を握らされたことに怒るより、今はまず吐き気を抑えることに集中しなければならない。全身の毛穴から湧き出してくる冷や汗が夏の暑さから来るものなのかもわからぬまま、ただ必死で吐き気を堪え続ける。
「……あれ? どうしたんだ、真紅?」
本気で何が起こっているのかわかっていない、そんな反応を見せる天一に疑問が生じる。悪戯ならこんな反応を見せることはないし、天一の性格なら悪戯の後にしっかりとした後始末が残っているはずである。その様子もなく、しかも呆けたようなこの反応。
悪戯ではない。恵理がこういった悪戯をするならわかるのだが、今の彼女は京と楽しそうに話し込んでいる。悪戯は成功するのを見届けなければ面白くない。それをしないということは彼女の悪戯ではないのだろう。
ともすれば天一の善意でこれを買ってきた、ということなのだろうか。
波のように訪れる吐き気を何とか堪えながら、天一に視線を向ける。未だ呆けたような表情を見せる彼からは、悪戯をした少年の無邪気な気配は感じられなかった。
「すっげぇ顔が青いけど、大丈夫か?」
「だ……だい、じょうぶ……だ」
天一の意図がどこにあるのかは知らないが、善意ならば無碍にすることもできなくて思わずそんな言葉を返してしまう。見るからに大丈夫ではないだろう自分に向けられた視線は本当に無邪気で、真紅は思わずもらった紙パックを天一へと返してしまった。
「? いらねぇの?」
「あ、あぁ。なんだか一気に眠気が覚めた……飲んでくれ」
そう、なんて簡潔な言葉を残し、天一は一息で紙パックの中のゲテモノ飲料水を飲み干していく。思っていた以上に躍動する彼の喉に半ば呆然と視線を注いでいたがすぐにその動きもなくなって、ものの十数秒で世にも恐ろしい飲み物を飲み干したのだと理解できた。
「ぷはぁ……うん、不味い」
不味いといいつつその表情は清々しいほどの笑顔で、真紅が身悶えるほどだったものを飲み干した人間の表情には到底思えなかった。
「よく飲めるな……」
「うん? 飲めないほど不味いものでもないだろ。身体にいいし、眠気覚めるし、いいもんじゃねぇか?」
さも当然のように言い放つその瞳には嘘偽りなく、思わず絶句せざるを得ない。
今日までの天一を見ている限りでは別に味覚が異常だとか、ゲテモノ好きだという様子はまるでなかった。自分でも少しは料理が作れることから味覚障害の可能性は少ないだろうが、もしかしたら恵理の料理を食べ過ぎて少々免疫ができているのかもしれない。そんな、半ば失礼な想像をしていると天一はまた不思議そうに首をかしげ、空になった紙パックを鉄製のくずかごに放り投げる。
立っていれば腰ほどまでの高さがある網目のくずかご、空を向いているその口に吸い込まれていった紙パックは音もなく、まるで音を立てることすらおこがましいほどのゲテモノだと自己を卑下にしているような、そんなどうでもいい想像を真紅に引き起こさせる。
あまりに暇すぎて、すでに妄想と言える度合いまで到達してしまったようである。
「これくらいの刺激がないと、やっていけないかと思ってさ」
そこまで悶えるとは思わなかったけどな。
そう言いながら天一は快活な笑顔を浮かべ、今度は紙袋に収まった昼食を手渡してきた。
飲み物の悪夢があった直後、中身が見えないものを渡されては流石に警戒せずにはいられない。無意識のうちに強張った体が差し出されたものを拒絶するように、小さな震えを生じさせずにはいられない。
真紅の心配をよそに自分は紙袋の封をあけ、かりかりの衣がついているカレーパンにかぶりつく天一。妙に幸せそうな表情を浮かべているあたり食生活について多大な不安を抱かずにはいられないが、今は手の中にある紙袋が不安で仕方がなかった。
本能が警戒している、というわけではないのだが奇妙なほど胸が苦しい。
警戒心を異様なほど刺激している。しかし食べないわけにもいかなくて、残されている全身の気力を振り絞って封をあける。
ほのかな熱と共に上ってくる香ばしい空気。
香ばしさの中に微かな甘い香りと、食欲をそそる衣が見え隠れしている。中に入っていたのは二つのパン。片方は天一と同じカレーパンだが、もう片方は先からソーセージの端が見えているもので、どちらも見た目、香り共にまともなものといえるだろう。
張り詰められていた警戒心が一気にしぼんでいく。
「……まともだな」
「当たり前だ。パンでどれだけ冒険できると思ってんだよ、お前は?」
天一の優しさの塊を食べ終え、少し遠目で食事をしている二人の少女を眺めながら二人は何の気なしに言葉を交わしていく。最初こそ互いの学科についての話題だったが、今後の方針について、自分たちの得物について、最後には天一が使えなくなったという力について。
最近になって見せるようになった京の自然な笑顔と恵理の快活な笑顔を見ながらする話題でもなかったが、それでも時間があるうちにしておく確認はいくつもある。
「お前の場合は、そうだな、肉体の能力を瞬間的に上昇させるってことでいいんじゃないか? それ以外にできそうなことって思いつかないんだよな?」
天一の問いには素直に頷く以外なかった。そもそも力だの何だのいわれても、実際にできるようになった今ですら混乱することが何度かある。定義もあやふや、存在も感じ取ることなどできないものなのに、何故か使えるこの力について情報を手に入れるのは必須ともいえる。
「んで、だ。お前の刀、六花が反応しているのは力の根本。そうだなぁ、うちの師匠の言葉を借りるなら”魔力”ってやつだ。精神力や魂の力がどうとかって言ってたけど、そいつがあるから刀も反応するし、能力も使える」
「それが全ての基、と考えていいのか?」
「おう。俺のも恵理のも康のも全部、そいつが基礎になる。まぁ使える力のほうは何度も使っていかないとうまくは使えねぇだろうけどな。とりあえず魔力が燃料、能力はエンジン、武具はタイヤだと思っとけばいい」
「? ちょっといいか?」
純粋な疑問に真紅は首をかしげる。いいよ、と首をかしげて返す天一に思わず笑いが漏れそうになったが、踏みとどまって次の言葉を探した。
「武具はタイヤ、車輪ってことだが、能力だけではまだ不十分ってことなのか?」
真紅自身の力もそうだったが、康の、あの空間を操る本物の魔法を見る限りでは、彼は武具など用いることなくその力を最大限に使用していた。真紅もまた、六花を手に入れる前と後で能力の幅が広がったということもない。だからこそその表現が妙に引っかかり、こうして疑問が生まれていく。
「使うだけならできるんだろうけど、燃料の消費が極端に多いんだよ。エンジンにも申し訳程度にはタイヤがついてるんで、それで動かせるけど、タイヤを替えたほうがより効率よく動かせる。康も使ってないように見えて、いつもあの刀を腰に挿してる。その恩恵を受けてるんだ」
康が空間を操るときに刀を持っているかなど、正直気にしたことがないためわからない。だが天一がそう言うのならそれが事実であり、納得するには十分な要素となっていた。
「まぁ俺は説明下手だからな。本当に細かいところまで確認するには康に訊くのが一番だ」
「……ん。そうだな」
他にも話したいことは山ほどあるが、二人は戯れる二人の少女へと視線を移したまま次の話題へと進むことはなかった。
退屈なのは間違いのないことだった。それでもこの退屈を、心地よいと感じている自分がいることも自覚している。平和を体現しているような少女たちの姿を見ているだけで、心地よさは快楽へと変わり、退屈は充実へと変わっていく。
少し、言い過ぎかもしれないが。
あの夜から変わり始めた自分の心を、真紅は思いのほか素直に受け入れている。
戦う力がどれだけあるかなんて関係ない。戦う力がないからって、守りたいものを作らないのはただの逃げだと、そんな考え方が自身の中に生じている。
誰の考えが正しいなんてわからない。つい最近までの自分が正しいのかもしれないし、今の自分が正しいのかもしれない。もしくは正しい選択なんてないのかもしれない。
それでもいいと思う。
迷っている時間はたっぷりある。少なくともこの退屈で穏やかな日常が続く限り、自分の感情を見直している時間くらいはあるはずだ。
少しずつ自分を変えていった元凶を、夏の日差しをうっとうしくも思いつつ、真紅は二人を穏やかに眺めるのだった。
え〜……書いた都度更新しようと考え始めた今日この頃です。
どうも、広瀬です。
見つかる前の平和な時間を満喫する姿というものを表現するため、それと真紅の変化を少しずつ表現できればいいと考えていたわけですが、上手くできているかはあまり自信がありません。というより全く自信がなくなりました。
いやぁ、どうしよう。
ともあれ少しずつ時間を見つけては書いていく所存ですので、これからもどうかよろしくお願いしますね。
ではでは〜。