〔七十一話〕 ある夏の物語 〜真紅〜 前編
ただ、そこにある平穏。
他愛の無いやり取りが、どうしてか心を満たしてゆく。
休日は高嶺家で訓練をつみ、普段は神凪学園で生徒として行動する。それが企業に見つからず、かつあちら側の情報を効率よく入手する最善の行動だった。
天一、恵理、康の三人は特別科の交換留学生であるため真紅たちと行動を共にする時間は極端に少なくなってしまうが、むしろ自由に行動できる分だけ情報収集には向いているかもしれない。真紅たちの側には叶もいるため学園と企業の情報をやり取りするパイプはこちら側が握っているといっても過言ではなかった。
極め付けは企業の人間である高嶺 荘介。重役のポストについている彼には様々な情報が自然と流れ込んでくるし、情報操作は彼の十八番でもある。叶と並ぶほどハッキングにも精通していることから彼女と並ぶ情報戦の要だろう。
発見されるまでの間は情報戦だ。真紅たちに出る幕は無いだろう。
「……眠い」
思わず漏れ出した言葉は真紅の心境を端的に表しているものだった。
可及的速やかにすべきことは限られている。真紅自身が持っている力を完全に把握すること、六花の本質を理解すること、七夜のような死なない兵士をどうやって倒すか。どれもが学園で暢気に授業を受けている場合ではないことを示している。
焦りこそなくなった真紅だったが、それにしても暢気に行動しすぎていると思わずにはいられない。
黒板に描かれていく理解不能の数式と窓から差し込んでくる夏の太陽もそれを増徴させ、必然的に学園を抜け出してしまいたいという欲求が発生していた。
発見されていないとはいえ、危険度は今までと何一つ変わっていない。七夜の見立てでは聡司を倒したことで真紅たちの存在を危険視する意識が強まり、発見されると同時に襲撃される可能性が最も濃厚。七夜がこちらについたこともその確立を格段に高めていた。
ただ座して待つよりは何かをすべきだ。そう意識していても学園を休み続けるわけにもいかないし、目立った行動を起こすことなど論外だ。
不謹慎だが、刺激も無いこの学園では退屈するのも当然である。
「随分と退屈そうですね、真紅」
授業が一つ終わり、眠たげな目の真紅がつぼにはまったのか京は片手を口元に添えて柔らかい笑顔を浮かべる。妙に気恥ずかしくなって一度目を反らしたが、一度溜め息をついてから大きく伸びをして、京へと視線を戻す。
「確かに、退屈だよ」
「それでも眠らなかっただけすごいです。御子柴君は最初の一分ほどで眠ってしまいましたよ」
未だに背後で突っ伏している友人を見る限りでは、こちらも相当に退屈しているようだった。けれど彼の場合は単に疲労から訪れる眠気であって、肉体的には何もしていない真紅とは違って色々と詰め込んでいるのが伺える。
真紅と違ってやるべきことが明確な分、疲労も大きくなっている。それを承知しているからこそ空の隣で彼を見守る愛美も起こす仕草を見せないし、真紅も深い眠りを妨げようとは思わなかった。
もっともそれを知らない京にとっては空の不真面目さが顕著に現れているだけだろうし、他のクラスメイトたちにも同様の印象を与えていることだろう。普段からのイメージはこういう場面においてプラスに働いていた。
曖昧な笑顔を浮かべて空については何も触れない。具体的な訓練内容は知らないが体力の高い空がこうなっているのなら、本当に限界なのだろう。
空のことは愛美に任せ、京を連れて購買へと向かう。別に付き合ってもらう必要など無かったのだが何となく、二人そろって向かうことになっていた。
一階の昇降口付近にある購買には、しかしこちら側の学生はほとんどいない。もみ合うような人間の塊が目の前に広がっているが、九割以上が特別科の学生である。むこうよりも上質なパンや弁当を販売しているらしいが、そのために百メートル以上ある校庭を駆け抜けようという気概が真紅には理解できなかった。
棚に並べられたパンやらおにぎりを会計に持っていくシステムだが、その全てをたった一人のおばちゃんが捌いていく光景はなんとも恐ろしい。
「……随分と、混んでますね」
弁当持参の京にはこの光景を見ること自体が珍しいらしく、口元には少々引きつった笑みが浮かんでいる。女の子の、そもそも活発とは程遠い彼女にとってはこの人並みへと飛び込む勇気が出ることは無いだろう。もっともそれは真紅も同じだが、これを突破して昼食を手に入れない限り午後の授業を空腹で過ごさなければならない。退屈で、しかも空腹となってはさしもの真紅も最終手段を選択せざるを得ない。
心優しい京なら自分の弁当を分けてくれることくらい快諾してくれるだろうが、彼女のことを考えて作られた弁当を分けてもらうのは少し憚られた。
「よし、行ってくる」
大きく息を吸って両足に力をこめる。力負けはしないが、この量の男児を突き抜けるのは至難の業。意識を強めようとした矢先、右肩に柔らかい重みが訪れ、反射的に振り返っていた。
――ぷにっ――
右の頬を指圧する、少し細くてスベスベした人差し指。記憶に無い感触に何事かと戸惑っていると少女の嬉しそうな笑い声が耳に届いた。
「あはは……まだ引っかかる人いるんだね、これ」
少しはしゃいでいるような跳ね回る声音と視界の端っこで花開く一輪の笑顔。快活な少女の後方には頭を抱える少年の姿もある。
「……恵理……それに、天もか。どうしたんだ、こっちの校舎にまで来て」
周りの特別科生徒のように昼食を買いに来ただけかと思ったが、それなら恵理を連れてくる必要が無い。むしろ彼女の場合は天一をパシりに使うことになんら抵抗を感じないだろうと予想もつく。
はたして、真紅の予想は的中した。
「康が撃沈してさ、二人だけで食うのも味気ないからってこっちでお前らと食おうと思ってさ。もうお前の分のパンも買ってあるんだけど、どうだ?」
「ありがたい。あの波に突入するのは正直気が引けていたところだ」
疲れることは極力避けたいし、一人だけ妙な動きをして目立ってしまいたくも無い。彼らなりの考えは他のところにあるのだろうが真紅に都合がいいのは変わらない。何より二人きりの食事よりも、何人かで食事をしたほうが京も喜ぶだろう。
「……ところで、そろそろその指を外してくれないか?」
「んー? 無理」
天一と話している間もずっと、恵理は真紅の頬に指を押し付けたままだった。むず痒い、という表現が適切なものだったが、何か、背中に冷たい視線が突き刺さっているような奇妙な感覚が彼を襲っている。
はっきりとわかる視線だ。恵理が気づいていないはずが無いのだが、彼女はさらに頬を強く押したり、断続的に押したり引いたりを繰り返してゆく。そのたびに強まっていく視線の感情が真紅にさらなる気まずさを与えていく。
「はぁ……ほら、いい加減にしろよ恵理。さっさとくわねぇと昼休みが終っちまう」
「はーい。それじゃ、中庭へゴー!」
呆れたような溜め息と共に歩き出す天一と跳ねるように昇降口へ向かう恵理の背中を見送って、真紅は数秒その場で動けなくなっていた。
視線の主は十中八九京だった。一対何が気に障ったのかわからないが、機嫌が悪いのは間違いない。
「京? 弁当を取ってこなくて……いいのか?」
いたたまれなくて振り返ることすら憚られる。それでも振り返らないわけにいかず、意を決して振り返った。
目が、冷たい。
普段のおっとりとした雰囲気とはまるで違う。丸くて、少したれ気味だった目は上半分ほどが目蓋に覆われ、小さな口元は不満そうに少しだけ上方へ向いている。
目に見えた変化などほとんど目立たないものだったが、真紅にははっきりと彼女が不満を訴えているのがわかってしまう。
「……二十秒ください。すぐに取ってきますから」
ようやく口にした言葉は、酷く低いものに聞こえた。
「あ……うん」
「いいですか? 動かないでくださいよ? 先に行ったりしたら、私、怒りますから」
「は、い……」
京が怒った姿など想像できなかったが、それゆえに彼女の言葉には不思議な拘束力と重さが存在していた。
彼女の怒った姿、少しだけ見てみたいなと小さな悪戯心が生まれてくる。彼女の性格から考えれば怒るといっても頬を膨らませて恨みがましく目を細めるくらいだろうが、予想に反して大きな声で怒りをあらわにするかもしれない。以前の夜のように静かに強い言葉を浴びせられる可能性だってある。一番怖いのは怒ると言いながら涙を流したりして、真紅にはどうしようもないような状況を作られてしまうことだった。
どれも一度は見てみたいような姿だが、そもそもどうして彼女の機嫌が悪くなったのか、真紅にはわからずにいた。教室を出て、購買にやってきて、人並みに突っ込む直前まではまだなんとも無かったはず。ならその後、天一たちがやってきてから機嫌が悪くなったのだろうか。
恵理と京が仲違いしているということは無い。むしろ京にとって恵理は愛美に並ぶほど信頼を置く友になっているだろうと真紅は感じている。なら天一かと問われれば、違う、と思う。冷たい視線は真紅と、そして恵理に向けられていたもので天一は完全に蚊帳の外だった。
恵理の悪戯が京を不機嫌にさせたのか。京がされたわけではないので可能性は低いと思っていたが――
不意に左肩に控えめな重みが訪れる。考え事をしていた真紅は反射的に振り返り――
――ぷにゅ――
本日二度目の罠に、引っかかってしまった。
「え……み、京!?」
「ふふ……真紅の肌、スベスベしてますね」
不機嫌はどこへやら、弾むような声の京はさっきの恵理と同じように何度も何度も頬をつついてくる。
京の急速な変化も驚いたが、それ以上に自らの変化が真紅の心を取り巻いていた。
恵理にされたときは感じなかった胸の高鳴り。戦闘のときに感じるような緊張ではなく、どことなく心地よい鼓動。自然と上昇する頬の温度を自覚しながらも、京を遠ざけることなんてできなくて、結局なすがままにされてしまう。
「み、京……そろそろ行かないと、昼休みが……」
「あ、え、えと……ごめんなさい! あの……は、早く行きましょう!」
横目で捕らえた京の頬は桜色を通り越して朱に染まっている。勢いで行動してしまって、後々になって恥ずかしくなった、といったところだろう。そんな京の姿にどうしても頬が緩んでしまう。
足早に昇降口へと向かう背中を追って、真紅もゆっくりと歩き出す。昇降口を抜けて太陽の光にさらされると、一瞬だけ眩暈にも似た感覚が訪れる。しかしそれも一瞬のこと。太陽に照らされた中庭がはっきりと見えるようになると、京の背中が鮮明に映し出される。
開けた中庭で京を見失うことは無いとして、とりあえずはあの二人を見つけなければならない。特別科の制服を着ているだけにすぐ見つけられるだろうが、あまり時間をかけすぎるといけない。
そんな心配をよそに前を行く京はいち早く二人を見つけたらしく、両手を小さく振りながら早足になる。その先には両腕を大きく振る恵理の姿がある。恥も外聞も無く両腕を振るその姿は、年齢以上に幼く見えた。
「遅い!」
京より少し遅れてベンチへたどり着いた真紅を待っていたのは、恵理の容赦ない一言だった。
「あ、あはは……ごめんなさい、恵理ちゃん。私がお弁当を取りに行っていて遅れたんです」
「京はいいのよ、可愛いから。でも真紅が遅いのは許せないの!」
「……横暴だ」
両肩を落とす真紅を見て恵理は相貌を崩す。これにいつも振り回されているのかと思うと、天一と康の苦労がはっきりとわかってくる。女版の空とでも言うべきだろうか。他人の前でこそ清楚な姿を装っているものの、本来は天真爛漫を通り越したトラブルメイカーだった。だが手がかかるはずなのにそれを不快に感じさせない部分は、ひとえに才能といってもいいのかもしれない。
夏の風が過ぎ去ってゆく。
平穏という名の世界に身を委ねて、少年はその時間を謳歌するのだった。
中途半端なところで更新してしまったことを少しだけ悔いている広瀬です。どうも、こんばんは。
真紅と京、近づいたかなぁと思えばまた遠くなり、遠ざかったかなぁと思えば近くなる。
なんか、書いていて苛立ちを覚えるようになってきています。
じれったいんじゃあほぉぉぉぉおおお!! と叫んでやりたい気分です。
何やってんだか、と自分に突っ込みをいれそうな今日この頃でした。
ではでは〜〜。