〔七十話〕 朝
少女の夢と、少年の願い。
いつか重なるときが来ることを少女は、心の底で願っている。
空を眺めていた。青々と澄み渡る広い空は心の中に大きく開いた穴を埋めてくれるわけでもなく、逆にいなくなってしまった人の存在を大きく意識させる結果となっていた。
人形のように考えることをやめていた京が初めて抱いた感情。
喪失。そこから生み出される、悲しみ。
世界の中からいなくなってしまったわけではないのに、目の前から消えてしまっただけでどうして胸が締め付けられるのか。
少女の小さな胸の中で初めて生じた痛みは少女に一つの答えを与えていた。
――いつか失ってしまうのなら、それまでできる限り、大切な時間を過ごそう。大切な人と一緒に。
少年を失った少女の心ではそんな、強くて固くて、美しい信念が生まれていた。
現在の高嶺 京という少女を形成しているのは少年、朝凪 真紅との離別だったのかもしれない。誰かに歩み寄る強さをくれたのは、間違いなく彼だったと京自身は認識している。
けれど今は、彼を取り戻してしまった今は失いたくないと強く願っている。
悲しい死に方だろうとかまわないと語った彼の瞳。そこに宿っている悲しみと、同じくらい大きな決意。彼をそうまで縛り付けるものが何なのか、京は少しだけ、いいや、強く知りたいと願った。
――――――
柔らかなまどろみの中で感じる、右手の感触。暖かくて大きな何かを握り締める手のひらからは、安らぎと喜びが、まだ半分ほど夢という波に浸っている意識を包み込んでいる。同時に目蓋を透過する柔らかな光が夢に浸る残った意識に覚醒を促し、少女はゆっくりと目蓋を押し上げてゆく。
歪んでいた世界はゆっくりとその形を取り戻し、そこが少女の寝室で、自らのベッドの上なのだと理解する。ふと右手の感覚が気になって、緩慢な動きで首を右に向ける。
「……え?」
ベッドの隣には小さな丸椅子が設置されている。いつもはほとんど使うこともなく、またその必要もないものだったが、今そこには一人の少年が腰掛けている。
少しだけ幼さが残る表情、短く黒い髪。眠る少女の右手を柔らかく包み込んだ左手と、右手は自らの膝を使って頬杖のようにしており、本当に小さな寝息を立てていた。
けれど少女、京はそんな彼の寝顔に見とれることもなく、ただ混乱に陥っていた。
どうして彼が、朝凪 真紅が自分の部屋にいるのか。何故自分の右手を優しく握り締め、自室に戻ることもなく眠ってしまったのか。何で――
――何でこんなにも、心が安らかなのか。
普通なら男性が近くで眠っているだけで恐ろしいと感じてしまうだろう。今までだって、これからだってそれは変わらないはずだ。だが真紅の場合は怖いと感じようとしても、全く恐怖を感じない。
そっと、左手を伸ばす。彼の頬に触れたいという欲求が強く鎌首を持ち上げ、京の行動を加速させている。
手のひらが頬に触れる直前、京の左手は不意に行き場を失い、中空をさまよった後布団の中へと戻っていく。
触れてしまったら何かが壊れてしまうのではないか。直感じみたものが全身を駆け巡り、京の行動を完全に押しとめる。
「……真紅」
思わず漏れてしまった言葉。そこに感情が含まれていなかったとしても、飛び出してしまった音は眠る少年の鼓膜を緩やかに揺らし、少年の浅い眠りを覚ましてゆく。
半分ほど開かれた目蓋の下に鈍く光る漆黒の瞳。まだ焦点の合わない瞳は何の感情も浮かび上がってはおらず、おそらく京の姿は映っていないだろう。その横顔に思わず心臓が飛び跳ねた。
「ん……まぶしい……」
空いている右手で目蓋の上から力任せに目を擦る。けれど京の手を握る左手には変わらず柔らかい力がこもっていて、それが完全な無意識から来る行動なのだと証明している。単純に握っていることを忘れているだけなのかもしれないが、その何気ない行動は少女の頬を上気させるには十分すぎる威力を持っている。
焦点の合わない瞳と少女の瞳が交差する。それだけで頬の温度がまた上昇する。けれど真紅のほうは未だ意識がはっきりしていないのか、何度か瞬きを繰り返すだけだった。
十数秒見つめあうような形となり、京はやはり、動けない。動くことで真紅の意識を覚醒させたくなかった。覚醒してしまえばこの顔を正面から見据える機会などなくなってしまいそうで、それは凄く勿体のないような気がして、ただ息を殺し続けた。視界に入っているのに息を殺すなど少々おかしな行為だったかもしれないが、真紅を見ていられるのならそれでもいいと思う自分がいる。
一際長く目蓋を閉じてからようやく真紅の瞳に活力が戻ってくる。
「みやこ?」
「あ……お、おはよう、真紅」
できるだけ穏やかな笑みを浮かべようと努めるも、どこか引きつった笑みが浮かぶのを自分でも認識できていた。寝起きの真紅はしかしそれに気づいていないのか、大きく一つ欠伸をもらすと首をかしげている。
「ここ、どこだ?」
「えと……私の部屋、です」
「ん……あぁ、そうか。昨日そのまま眠ったのか。すまない、不快な思いをさせたか?」
否定の意味を込めて何度も首を振る。若干おかしい反応を、しかし真紅はさほど気にしていないように息を吐く。京としてはありがたい反応なのだが、どこか空しく思うのは何故なのか。
「ところで、どうしてここにいるの?」
どうやって部屋に戻ってきたかも記憶にない。おそらくは眠ってしまった自分を真紅が連れてきてくれたのだろうと思っているが、それならばどうしてここで眠っているのか、どうして手を握っていたのかがわからなかった。
真紅は眠気を晴らそうと何度か首を振り、小さくうなる。
「確か……眠った京を抱え上げて、千崎さんに鍵を開けてもらってベッドに寝かせて……部屋を出ようとしたら右手が握られてたから、無理矢理外すのも悪いと思って緩むまで待ってたんだよ。いつの間にか俺まで眠ってしまったみたいだけど」
その言葉を聞いてようやく、真紅より京のほうがよほど強い力を込めているのに気づいた。気づいてしまった瞬間頬の温度が一瞬で上昇し、全身へと広がっていく。
慌てて手を離すと真紅は不思議そうに首をかしげたものの、何事もないように朗らかな笑みを浮かべていた。
「風邪とか引いた感じはないか? 外で眠ってしまったから、それが少し心配でな」
「え? えっと、大丈夫、です」
「本当か? 妙に頬が赤い気がするんだが」
「だ、大丈夫ですから!」
胸元の軽い掛け布団を引き上げて、顔の下半分を隠す。鈍感な真紅でも流石に気づいてしまうかと危惧したが、結局のところ彼は京の動揺や迷いに気づくことなく、流れるような動作で椅子から立ち上がってドアへと向かっていた。
彼がここにいる理由がなくなったのだろう。手を握っていなければもっともっと早く解放されていたはずだが、無理矢理そうしなかった理由を好意的に解釈してもいいのだろうか。いや、彼にそんな感情があるはずないと京は自分の中で決着をつけていた。
ドアノブに手を添えたとき、真紅は思い出したように振り返った。
「改めて口にするのは少し恥ずかしいから、こんな形で許してくれ……ありがとう、京。君のおかげで少し、求めているものが何なのかわかりそうな気がしてきた」
「え……?」
「朝食はしっかり取れよ。それじゃあ」
京の返答を待たずに部屋を出て行った真紅。その背中はどういうわけか妙に力強くて、京は思わず首をかしげる。
彼が求めているもの。
直接彼の口から聞いたことはないが、色々と想像することはできる。
例えば生きる目的だったり、戦う目的だったり。彼が求めているものは何かしらの目的ではないかと京個人は考えていた。
けれど何故京のおかげでわかりそうなのか、彼女本人はまるで予想できないのだった。
えと……お久しぶりです。広瀬です。
なんだか気づけば二ヶ月以上更新していなかった今日この頃。いやぁ、ネットが繋がらなかったりスランプだったりと色々なことがありました。えぇ、そりゃあもうたくさん。
はい、言い訳です。本当に申し訳ない。
春休みも明け、大学が再スタートした今日からはまた、今までと同じペースで更新できるように努めていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。
ではでは〜〜。