〔六十五話〕 静観者たちの剣
銀の老人は世界を疎んじ、世界に背を向けた。
黒の少年は一度世界に背を向け、それでも大切なもののために、もう一度世界と向き合う心を手に入れた。
どちらが正しいのか、誰にも、無論二人にも、わかりはしない。
二振りの刃。純白の刀と紅の刀は互いの力に共鳴する、などということも無いがどこかしら共通するところがある。互いに増幅器の能力を有し、主の負担を軽減すると共に絶大な影響力を主へと与えている。一度その力に頼ってしまえば、自らが無ければ戦えないようにしてしまうほど。それが刃を鍛えた刀工の思惑なのかは定かではないが、ともかく刀と主の関係性について二本の刀は同じような関係を持っていた。
それを知る数少ない人物、彼は眼下に寝そべる出来の悪い弟子を眺めながら小さく、おそらくすぐ隣にいても聞こえないほど小さな安堵の溜め息をついた。流れる銀髪は風に揺られ視界をちらつき、うっとうしさと共に奇妙な懐かしさを彼に抱かせる。空しくなりそうで、彼は無理矢理溜め息をついて自らを誤魔化し、踵を返してその場から去ろうとした。
「随分と過保護になったものだな。弟子の心配をするなど、貴殿らしからぬ行動をする」
振り返った先にいた相手。正面から対峙しても気配がほとんど感じられない男に、初めて対峙する人間ならば幽霊かと思うだろう。彼も人生経験が莫大な量でなければ理解できない人間だったが、生きていることは間違いが無いし疑いようの無い人物である。
年のころは天一たちと同じくらい。長い足にフィットするジーンズと黒の上着を着て、長い黒髪を彼と同じように頭の後方で一本にくくっている。意志の強い顔には冷笑が浮かび、その右手には鞘に納まった二本の刀が握られていた。
なぜこの場にいるのか、なぜこんな格好をしているのか彼には皆目見当がつかなかった。
「あの少年に、朝凪 真紅に刀を打ったお前が、ここに用事があるとは思わなんだ。自らが打った刀にはまるで興味がないと思っていたのだが、やれやれ、そんな容姿をしてまで陽の下に現れるとは、どういった風の吹き回しだ?」
少年、のように見えるその男は口元に鋭い笑みを創り上げ、彼に語りかける。
「貴殿ほど過保護でもないのだが、私も自分の息子、六花の様子を見たくなったのだ。力をまだ使いこなせていない少年に預けはしたが、どうにも心許なかった。陰ながら助力しようかと思っていたのだが……どうやらその必要は無かったらしい」
姿とは比例しない口調に苦笑いが浮かぶ。姿を偽ることは出来ても口調、心まで若返ることは出来ないらしい。
言葉尻に優しいものを感じて、彼は小さく首をかしげる。
「随分と人間くさくなったものだな、情を抱く相手が現れるなど、ここ最近無かったことではないか?」
詳細などわかるはずもなかったが、彼の考えでは少年の姿をしたこの男が特定のもの、もしくは人間に興味を示すことなどほとんど無かった。彼の腰にささっている刀もこの男に鍛えなおしてもらったものだが、本来の力を引き出すまではいかないものの、人間とは思えないほどの技術と力で半分ほどの力を取り戻しつつあった。今でも一度使用した直後に修復しなければならないほど損傷が激しいが、使い物にならないでいられるのはこの男のおかげである。
しかしこの男はたいしたことではないと言いたげに鼻を鳴らすだけで、報酬のほとんどを返してきた。完全に直せなかったのは自らの力量不足だと頭を下げて。その姿勢と力量が気に入った、というのが彼の気持ちである。
それでも彼に興味を示した、というのとは少しだけ違う。自らを高めるための素材としか見ていないはずだったし、そもそもまだこの男は修行中だとのたまっていたはずである。
「術者として、鍛冶師としては未熟だがな、いかんせん年をとった。若者に託した自らの光がどこまで輝いてくれるのか、気になるのは私だけではないと思うのだが?」
「……何が言いたい?」
「貴殿の希望、託した光はどこまで大きくなるのか。私としても気になっているのだが、貴殿はさほど気にならないと、そう言うのか?」
確信を持った眼差しは彼の銀髪を突き抜けるように、その背中に存在する光へと向いているような気がした。気のせいではないだろうが、彼としては予想の範囲を出ない問いかけであり、同時に鼻で笑ってしまうような感覚が彼の心を取り巻いていた。
「……そう、だな。さほど気にはしていない。儂の弟子は、どうにもじゃじゃ馬でな。あの男が負けるところも、死ぬところも、倒れるところすら想像できん。だから儂の光は、まだまだ儂の中にあるのだよ」
「貴殿ほどの存在になれば、早々に力を託すのかと思ったが……やれやれ、予想以上に用心深いのか、単純にあの男が眼鏡にかなっていないのか。どちらでもかまわないのですが、興味本位で聞いてみたいのですが?」
戸惑いの表情こそ見せなかったものの、予想を外された反動は男の言動の影に見え隠れしている。元々さほど饒舌ではないこの男が今日に限ってはかなりの量喋り続けている。その異変をまず理解すべきだった。
その理由に思い当たって、彼は小さく笑う。それは嘲笑ではなく、ただ純粋に愛らしいものへと向ける慈愛の笑み。
「お前は、本当にあの少年が気に入ったようだな。朝凪 真紅、といったか……なるほど、確かに奴は”あの男”によく似ている」
その言葉を口にした瞬間、男の体が跳ねるように反応する。握っていた二振りの刀、その柄を同時に、それも片手で掴み腰を落とす。片手二刀流などという変則的な剣術を得意とするその剣士は、確かに鍛冶師としても人間としても未熟かもしれないが、剣士としては一目を置ける存在である。
さほど細くも無い柄を二つの指で挟み、悠々と扱うことが出来る腕力。精密に刃を振ることが出来る操作性や一撃の重みを考えれば稀代の名将だろうと歴戦の勇者であろうと見劣りしない。名が知れていないのは世が世だというせいもあるが、同時にその存在を認識している人間が極端に少ないことにも影響を受けている。
世捨て人、というほど世間から隔絶しているわけでもなく、かといって社会に貢献しているかと問われれば、答えは否。鍛冶師という廃れた職についているせいもあるが、この男や彼のような存在はそもそもが一般人には認知されない。というよりは、受け入れられないのだ。
「騎手二刀流……騎乗時に片手は手綱を引き、片手だけで戦うために考案された流派。その創始者にして、一番の使い手。お前以外の誰一人として会得できなかった剣術は、お前の色が出すぎていたために広まらなかったのだと考えているが?」
「その通りだ。この剣術は私のために、私自らが考案したもの。そもそも広めるつもりも無かった」
もし銃のような火器が存在していなかったとするなら、この男は世界一の戦士として名を連ねていたはずだ。変則的な剣術は初見では見切ることが出来ず、馬上から届く鋭い刺突、斬撃はただの歩兵には目視すら出来はしない。力を使わない状態でこの男と戦ったとしたら、彼ですら死を覚悟しなければならないだろう。
本当に、人間にしておくには惜しい人材である。
「あの男が死んだのは、お前のせいではない。あの男自身がお前の手助けを拒んだのだし、そもそもあの戦力では、お前が手を貸したところで暖簾に腕押し、無意味この上なかった」
かつての戦い。手を出さないと決めていた彼とは違い、目の前で剣を握るこの男は、自らが刀を預けた男のために死地に赴こうとしていた。
戦力といっても手を貸そうとしていたのはたった一人の剣士。対する敵は強力な暗殺者が三十以上。市街地を利用した逃走劇には、流石の彼も脱帽したものである。
燃え盛るビル街、削り落とされたコンクリートの地面。ガラスは飛び散り、そこかしこに敵の気配が消えない。本来なら気配を消すことが常識である暗殺者たちも、状況が状況だけにそんな余裕も存在していなかった。
恐怖心を持っていないはずの暗殺者が本能で逃げ出すほどの剣士。人間として逝ったのは、彼なりのポリシーだったのかもしれない。
「……貴殿の心がわからぬ。何が大切で、何が必要で……そんな人間的な心が、貴殿には残っていないのか?」
「笑わせてくれる。この儂に人間としての心を求めるのか、お前は」
笑いが堪えきれない。思わず漏らしたその笑顔は男の怒りを増徴するだけだとわかっていてもこらえることなど出来はしない。互いに人間の枠を越えてしまったはずなのに、まだ人間としての自分を保ち続けようとする。滑稽の極みだと、彼は思う。
刀を手にしていない彼と、現存する最高強度の刀を二本持っている男。鍛冶師として未熟、とはいうものの現代では最高と呼べるほどの名工であることは疑いようの無い事実である。その男が自分のために打った刀なのだから、なまくらであるはずが無い。最高硬度、最高の切れ味を誇っていると考えるのが妥当だった。
圧倒的な不利に置かれていても、しかし彼は笑みを崩すことが無い。
「やめておけ。お前には、儂を殺せるだけの力は無い。無様にあの蒼天を仰ぐだけだ」
「武器を持たない貴殿に何が出来る。牙を持たぬ獣同然の貴殿に、私を倒すことなどできはすまい?」
「愚か者が……だからお前は未だに人の枠を超えられんのだ」
この世の理に羽交い絞めにされ、身動きがとれず、じたばたともがくことしか出来ない人間。それこそが人間だ、と彼の弟子は満面の笑みを浮かべて応えるだろう。だからこそあの少年を弟子として鍛え上げ、人間の限界がどこにあるのか知りたくなる。限界を、見てみたくなってしまう。流れゆく時の中を生きてきた彼にとって、その少年の存在はある種の奇跡であり、同時にまだこの世界にも可能性があるのだと信じさせてくれるもの。
人の枠を越えようとするものと、人の枠に戻ろうとするもの。どちらが強い課などわかりきっているが、それでも彼は信じている。
進化しようとするその志こそが少年の、朝倉 天一の力なのだと。
ならばこそ、退化しようとするこの男に、彼は負けるわけにいかなくなった。
「力の差を、見せ付けてやろう」
右手を横に、地面と水平となるように掲げてから彼は目を閉じる。髪留めが千切れ、その長すぎる銀髪が宙に浮くと共に彼の右手に光が集まっていく。
呼吸をさせるな、瞬きさせるな、何も考えられないほど、本能レベルで動けなくなるほど右手に意識を集中させろ。この世で最も無防備である自分を認識させるな。そう念じることで世界を従わせ、世界に従属する存在を全て意のままに操る。
訪れた重みと重たくなった空気の質感に、召喚の成功を知る。同時に目を開けた彼の眼前にはただその存在を注視する男の姿だけが映っている。
漆黒の長刀。卍型の鍔は漆黒に染まり、上質な布で編みこまれた柄ももちろん漆黒に彩られている。柄尻まで漆黒に染まったその刀は、日本刀と呼ばれる部類の刀剣。目の前で息を呑むこの男が鍛えなおしたものだったが、こうして敵対するとやはり違うものなのか目を離せずにいる。
柄と同じ色の鞘に手を伸ばし、彼はゆっくりと宣言する。
「――我が理の下に、ひれ伏せ」
この世の理など関係ない。誰かの想いなど興味もない。ただ自らの理の下に生き、自らの理の下で死ね。
世界なんて神様が創った存在から抜け出して、彼はその刃を蒼天の下にさらすのだった。
――――――
刀鍛冶の男、少年の姿をした彼は名を波多野 時雨という。自らの力を知ったのは彼がその姿を保てるようになった頃、まだ十代の頃だったという。力の使い方などまったくわからなかった彼は面白半分にその力を使い続け、結果、自らの愚かさと無力を知り、世界を棄てた。
不特定多数の人間と関わる必要を見出せず、ただ自らの研究に没頭していく。そんな生活が好ましく思えて、戦場で戦えるという騎馬の技術を手に入れ、そのための剣術も編み出した。彼の本質を知らない人間は足しげく彼の元に通い、彼の剣術を学びたいと思ったものの誰一人としてしっかりとそれを会得することが出来ず、また彼は一人になった。
その後は自らのために最高の刀を創りたいと鍛冶師としての技術を学び始め、数多くの刀を打ってきた。
その全てが、自分のため。もう誰かのために生きることが嫌になって、孤独を愛し、孤独に浸り続けた。
そんな彼の世界に土足で踏み込み、色々とかき回していった男がいた。
「俺のために刀を打ってくれないか?」
快活な笑顔に隠れている悲しみ。それを見抜くことは、かつての時雨には不可能なことだった。長きに渡り他人と関わらなかった彼に他人の何かを見抜く技術などあるはずが無く、どうでもよかったというのが本音である。
老人の姿で対応した時雨は彼に怪訝な表情を向け、手を振った。
「私は自分のためにしか、刀を打たない」
きっぱりと言ってのけ、時雨はまた刀剣の手入れに取り掛かった。こういえば退くだろうと考えて、もうその存在を忘れようと思っていた。けれど彼は諦めるどころか目を輝かせて、低いカウンターに身を乗り出した。
「いいじゃねぇか。自分の技術が向上する、そのために刀を打つ。で、それを俺が使う。あんたにはいいことずくめだろ?」
「……聞く耳持たんな」
人間と関わりを持ちたくなかった。いずれ失うものだとわかっているから、どうしても関わりたくない気持ちが先走って。そもそもどこから自分の工房の場所が知られたのかわからなかったが、ともかく信用できないと思っていた。
その日は何とか追い払った。安堵して床についた時雨だったが、次の日起床した瞬間、ただ呆気にとられることしか出来なかった。
「あ、どうも。おはようございます」
額に白い鉢巻きを巻いて、動きやすいような灰色の服を着て、林の中に作っていた竈の前で薪を割っている。まさかまだ夢を見ているとも思えないが、そう誤認させるほどの衝撃を時雨に与えていた。当然抗議しようとした時雨に、彼は笑顔で手を広げる。
「手伝うことくらいさせてくださいよ。ずっと一人なんて、寂しいじゃないですか」
「寂しい? そんなわけがないだろう。私はもう長い間、ここで一人で生きてきたんだ。今更誰かがいるほうが迷惑極まりない」
「そりゃあおかしな話だ。昨日と違って、今のあんたの顔、生き生きしてますよ?」
そんなはずがないと言いたかった。正面きってそんな言葉をぶつければ彼がいなくなることは容易に想像できる。彼がいなくなれば時雨の平穏は戻り、今までどおりの一人だけの生活を送ることが出来るはずだった。
それでも、時雨の体は反応してくれなかった。
彼の前に歩み出ることは出来ても、喉が渇いて言葉が出ない。拒絶の言葉を放つどころか、時雨の体は彼の意識を離れ、少年のそばに腰を下ろしていた。
「そんなに、顔に出ていたかな?」
「もうばっちりと」
何をやっているのか、自分の行動を理解できなかった。他人と生きることをやめたはずだった。他人を信じることをやめたはずだった。だというのに、何だというのだろか。
この、心が満たされる感覚は。
その日から彼と少年の共同生活が始まった。午前中は刀を打ち、午後は竈の手入れ。夜は外の世界についての情報を得ることで時間を潰し、眠たくなったら眠る。最初こそ探るような心だった時雨も、徐々に会話に慣れ始め、時に聞き入り、時には突っ込みを入れて彼とのやり取りを充実させていた。
いつしか、彼のために刀を打つことも悪くないかなと感じてしまうほどに彼との日々は楽しかった。
彼がやってきて一月という時間が流れた。その頃には完全に互いが打ち解け、彼の抱えていた秘密をも露見させてしまった。それでも少年は笑顔のままで、そういう人間もいるんじゃねぇか? くらいの感覚で受け止めてくれた。今まではこの力が、容姿を変容させる力が露見するだけで気味悪がられて避けられていた。こんな反応が初めてで、彼への情が深まるばかりだった。
ある日、彼は持ってきていたスケジュール表を見て溜め息をついた。黒塗りの表紙には何の文字も描かれてはいなかったが、彼にとって重要なものであることはそれまでの経験でわかっていた。
「明日……か」
呟くその言葉には普段の快活さはなく、彼の負の部分を如実に体現しているようだった。
「何があるんだ?」
少年の姿で作業をしていた時雨は、小さく首を傾げつつ彼に近づく。彼は勢いよく首を振って、なんでもないよと呟くのだった。
その姿にどこか無理を感じた。他人のことなど興味が無かったはずの自分、その変化に何故か心安らかなものを感じつつも、時雨はその場に腰を落とし、鍛えている途中だった刀を打ち水の中にぶち込んだ。水が瞬間的に沸騰する音を耳にしても、時雨の意識は彼の方向へ向いていて、その憂いを含んだ横顔を眺め続ける。
「どうしたんだ、時雨? 急に作業を止めたりして」
「……何を迷っているのかと、思って、な」
普段快活以外の表情を見せない少年の顔に、初めて戸惑いの色が浮かんだ。驚愕にも似たその姿はどうにも時雨の心をかきむしり、その先を知りたいと思わせる。
「お前は私を救い出した。今度は私が、お前の迷いを払ってやりたいと思うのだが、どうだろう」
らしくないことを言っているのはわかっていた。それでも、自らの性格なんて考えないで、心で物事を決めてみようと、そう思ったから。
少年は小さく溜め息をつき、時雨の正面にどっしりと腰を落とす。
「俺がここに来て、お前に刀を打ってもらおうとした理由、まだ伝えて無かったよな?」
「ああ。確かに聞いていなかった。それどころか、お前がここに来た経緯すら、私は聞いていないがな」
「そうだったな。俺の親父が、お前のことを知ってたんだ。凄腕の刀鍛冶がいるから、刀が欲しいならそいつのところに行けってな」
なぜこの場所と自分のことを知っていたのか、最初の頃こそその謎が心の中を渦巻いていたが、今となってはどうでもいいことだ。それよりも今は彼の心を取り巻いている憂いを取り払ってやりたいと、強く強く思うのだ。
少年は誤魔化すように両手を広げ、おどけて言葉を紡いでいく。
「……大切な人を取り戻すために、力が欲しかった。戦えるための力を必要としていたんだ」
「大切な人を……取り戻す?」
かつての自分が重なる。大切で、心の底から一緒にいたいと願っていた女性。特別美しかったわけではないが、一緒にいることで心が癒され、自らの本来の姿を見せることが出来た。
そんな彼女を失ったのは、時雨の力不足。
忌み嫌われた時雨を守るべく楯となった彼女を、時雨は泣きながら見捨てることしか出来なかった。だからこそ力を求め、自らの存在を高めることに没頭していった。
どうして忘れていたのか、大切だったはずなのに時雨の心は荒んでいた。
「うちの親父どもが企業間で対立していて、その抗争に巻き込まれている。彼女が相手側の社長、その息子と婚姻を結ばされるのが、明日だ」
立場や状況は当たり前に違うが、少年もまた、かつての時雨のように大切な存在を失おうとしているのか。それを阻止するために力を求め、時雨に頼ってくれたことを、場違いと知りながら嬉しく思った。
無言で立ち上がった時雨は、竈のある庭に出て一振りの刀を握る。自らのために何年も鍛えてきた三本の刀。片腕で二振り、もう一本の手で一振りの刀を扱うことが出来る時雨にとってもっとも適している本数だったが、この一振りを、三本の中で最高の刀を彼に送ろう。
決意した時雨の行動は早かった。戸惑いながらついてきていた少年に声をあげ、手伝わせると共に彼の体の中に流れている魔力を、少しずつその刃に注ぎ込んでいく。なぜ自分も手伝わされているのかわからないという表情をしていたがかまわず、時雨は彼が倒れるまで、刀を打つ手伝いをさせた。
夜明けと共に完成した刀。迷いの無い一筋の光を示すべく創り上げたその波紋は少年の存在自体を示すように、少年のためだけに創り上げた最高の刀。
眠っていた少年を叩き起こし、最高の刀を握らせて、その瞳を正面から見据える。
「――ゆくぞ。こんなところで呆けている余裕は無いはずだ」
まさか一晩で完成するとは思っていなかったのか、少年は眠たげな目から急に覚醒し、時雨の言葉にしっかりと頷いたのだった。
その後、秘境と化していた住処を引き払って久方ぶりに世俗に戻った時雨は少年と共に結婚式場に突入する。武装していた黒服のガードたちをものともせず、しかし誰一人として殺めることなく戦いきった二人の前に現れた花嫁の姿に、少年はただ咆哮を上げた。
「朝凪 白羽! 花嫁をいただきに参上した! ……なんてな」
花嫁にウィンクしてみせるその姿はあまりにも歳相応で、思わず笑ってしまった。後に知ったことだが当時彼は十七になったばかりで、戦士としても人間としても未熟だったらしい。そうは言うものの長年生きつづけている時雨にとって白羽の背中は並みの大人に匹敵するほど大きくて、背中を預けるには十分な相手だった。
その頃から時雨は自らが果たせなかった思いを白羽に託したのかもしれない。大切なものを守るために死ぬ、自らの理想の死に方を果たすために、彼の戦いに助力しながら。
だからこそ、あの戦いに、共に剣を持って向かいたかったと、切に願った。
――――――
気がつけば、目の前に広がるのは雲一つ無い蒼天。両手に力が入らないと共に四肢の感覚が希薄。二振りの刀は目の前の地面、というよりも屋根に突き刺さったままで何が起こったのかを把握するには十分すぎるほどの光景であった。
「わかったか? お前では私を倒せない。お前の力は既に戦うことからは離れている。それは自らが一番よく知っていることだと思うが?」
頭の上からかけられる声は感情を含んでいない。感情で行動した時雨を責めるように、あえて感情を殺して見せる。その奇妙な気遣いに思わず笑みが浮かび、姿が見えないその相手に手を伸ばす。蒼天から降り注ぐ日差しを遮るように掲げられた手のひらは思いのほか小さくて、どうしてこんなに小さな手なのか悔やんでしまうほど。
人間を超えなければ、守りたいものを守れなかった。けれど誰かを守りたいと願う心は人間のもので、そこにはきっと矛盾が生じてしまうから。世界の理の中でも彼の理の中でも、時雨は勝つことなど出来ないのかもしれない。
「そう、だな。貴殿に勝てるほどの力は、私には無い。だが……それでも挑んでしまうのが人間というものではないか」
「くだらん。お前や儂は既に人間の領域など超えているはずだ。今更そんな想いなど不要なもの」
「そうでしょうか? 良くも悪くも私は、人間でいたいと思っていますよ。あいつが教えてくれた人間としての生き方を、もう少し続けてみたいと思うんです」
どれだけ弱くなったとしても、たとえそのせいで命を落とすことになったとしても時雨は感情で生き、感情の下に死ぬと決めた。それが時雨を世界に引き戻した少年に対する、せめてもの誠意だと思って。
呆れたような溜め息が頭上で空間を揺らす。けれどそこに含まれているのは呆れだけではなく、多分の感慨も存在していたのではないかと時雨は思う。
刀が鞘に納まった甲高い音と共に張り詰めていた空気が糸を切ったように消滅していく。
「好きにすればいい。お前の生き方はお前のものだ。儂を含め、お前やあやつの生き方に口を出せるものなど存在せん。なにせ、既に人間と呼べるかどうかも危ういのだからな」
茶化すような口調と響きには自嘲的なものも混ざっていた。
きっと彼も、本当は人間でいたいのではないかと時雨の直感が語りかけている。戻りたくても彼は時雨やもう一人、人間の域を超えてしまった男などよりもよほど人間から遠い位置に立っている。だからこそ必要以上に世俗と距離をとり、たった一人の弟子しか取ろうとしない。
彼の流派。数世紀前に考案され、世紀を重ねるごとに発展を重ね続け、名を変え続けたその流派は一子相伝と言われている。しかしその認識は誤りであり、正確には時雨と同じようにたった一人の会得者しか存在していないのだ。
幻の流派、飛翔連牙流。
まったく癖が盗めず、弟子を取らないためにその技の一つ一つすら未知数である剣術を初めて継承する少年。その存在は彼にとってよほど大きなものだという認識は、今でも時雨の中で変わりはしない。
「それでも……私たちは、いや、俺たちは生きなきゃいけないんだと思います。たとえ世界の摂理から外れてしまったのだとしても、そこには何か意味があるのだと信じて。前に進んで見せる、そんな心を持って」
「……本当に、変わったよ、お前は。いつの間にそんな人間らしさを取り戻したのか……あの男には感謝せねばならんかもしれないのぉ」
やけに老人らしい口調を作ったと同時にその気配が一瞬で消えうせる。驚いて上半身を起こした時雨の視界に動くものは悉く存在せず、ただ溜め息をつくことしかできない。
茶目っ気という面だけを見るならば、少なくとも彼はまだ人間の、それも成人する前の精神を持っているのではないかと常々抱いていた疑問を大きな溜め息と共に吐き出して、時雨はゆっくりと立ち上がる。
嫌になるほど清々しい蒼天の下、時雨はただそこにいるかもしれない友を思いつつ佇むのだった。
前回から量を極端に多くして更新していますが、これ、実際自分の首を絞める以外の何物でもないんですよね。
忙しい忙しい言っている割にはこうやって量を上げ、クオリティを落とさないように頑張ってる。
なんだかなぁ、そろそろ更新の手を一旦休めようかと思ってもいるんですよ。最近は読んでくださる方も減ってきて、続けていく自信もあんまり……。
すんません、嘘っす。
どれだけ読んでくださる方が少なくなろうと、描きたいものがあって読んでくれる方が一人でもいるなら書き続けたいと、そうやって自分を高めていければいいなと思っています。
珍しく真面目に後書きを書いていることに奇跡を感じつつ、今回はこのへんで。
ではでは〜〜。