〔五十七話〕 赦しと許し
願えばきっと、叶ってしまう。
望めばきっと、拒まれはしない。
それでも彼は、赦されるわけにはいかなかった。
天一がようやく帰宅した頃には、日付が変わろうかというような時刻になっていた。
完全に夢の世界へ旅立ってしまった恵理をソファーに横たえて、小さく息を吐き出す。想像していた以上に距離があったのもそうだが、歩いている間に背中の眠り姫が無意識で体を動かすため、落ちないように調整するのにいちいち手間を取られてしまった。
よく考えてみると夕食をとっていないことに気づいて、軽く何か入れようと冷蔵庫を開けてみる。数日前にいろいろと買い込んでいたはずだったがいつの間にかほとんど食べるものがなくなっていて、軽く衝撃を覚えてしまった。
一応アパートの一室を借りてはいたが、ほとんど毎日のようにこの一軒家で生活していた。康はアパートで生活しているが、天一がこちらを使っているからアパートを使っているだけで、天が使わなくなったら使うよと笑っていたのを思い出す。流石に毎日夕食を作っていたら、買いだめしたものもなくなるということだろう。それが想像以上に早かっただけの話である。
残っていたジャガイモと玉葱、それにベーコンと薄いチーズ一枚を取り出して使い込まれたまな板を用意する。ジャガイモの皮をむいて、玉葱もむいて、適当な薄さに切ってから油を敷いたフライパンに玉葱をぶち込む。炒めている間にベーコンを小さく切って、玉葱がしなってきてからジャガイモを投入し、塩コショウで少し味をつける。ジャガイモに火が通ってきたらベーコンを入れ、さらに炒めて火を止める。フライパンに蓋をして、少しの間蒸してから、チーズを手で裂いて上にかけた。最後に弱火で少し放置してから、上手に皿へ盛り付けて完成。
二十分程度で完成した料理は育ち盛りの男子にすれば手軽すぎるものかもしれないが、簡単に作る分には申し分ない。調理中に解凍しておいた白米を添えれば十分すぎるほどの夜食だ。
リビングに皿と茶碗、それにポットを持っていくと、匂いにつられたのか恵理が夢の世界から帰還していた。眠たげな目をこすって、おふぁよぅ、なんて呂律の回らない挨拶をよこす姿に苦笑を浮かべ、恵理の正面に腰掛けた。
「なにぃ、やしょく?」
「そ。お前も食うか? 気に入ったら作り方くらいは教えてやる」
「たべる〜。でも、つくりかたはいらにゃい」
予想していた答えにため息をついて、キッチンから箸と取り皿を持ってくる。完全に目を覚ました恵理は目の前に鎮座する料理に目を輝かせ、天一から皿と箸を受け取るとすぐに料理へと箸を伸ばした。
「っ〜〜〜〜! 相変わらず美味しいね、天の料理は」
「簡単なもんだぞ、こんなの。お前の料理が壊滅的なだけだ」
「そ、そんなことないよ! たまたま天が食べるときだけ、失敗するだけだもん」
中学校の調理実習などではよく恵理の料理を食べさせられたものだ。そのたびに腹を痛めたり、意識が遠くなったり、いきなり走り出したくなったりと思い出すだけで寒気がするような事態を何度も経験した。その一方で他の生徒たちに聞いてみても普通だよ、といった反応をされるため、わざとやっているのではないかと警戒したこともあった。だが康のような、まともな調理ができる人間が一緒の場合はいたってまともな食事が出てくることを考えると、理由が本当にわからなかった。
しかし、美味しそうに料理を食べる恵理の姿は見ていて心地いいものである。それほど手の込んだものではないが、美味しい、といって食べてくれる人がいて、それが大切な家族だったのならこれ以上の幸福はないのではないかと思えてくるのだ。
もはや母親の心境ではないかと気づいて、思わず頭を抱えてしまった。
「どしたの、天?」
「い、いや、なんでもないよ。あぁこら! 俺の分も少しは残しておいてくれよ」
気を抜いているうちに半分ほど食べられていて、急いで箸を動かす。恐ろしいことに手元にあったはずの茶碗まで奪われていて、白米まで半分以上食われていた。
実の妹ながら恐ろしい食欲だ。食材の減りが予想以上に早いのは彼女のせいではないのかと、わずかな頭痛を覚えてもいる。
食べ終えた頃、時計の針は一時を少し回った時刻を示していて、食器を適当に洗ってから人心地とばかりに日本茶を沸かした。一人暮らしをしていると覚えてしまうもので、作法などはわからないながら美味しいと思える淹れ方を習得していた。
「……主婦?」
「うるせぇ。そういうのは一人で料理できるようになってから言うんだな」
他愛のないやり取り。心休まる時間を共有する感覚は悪くないものだったが、いくつかやることが残っているのを思い出して、どうしようかと少しだけ思考の海に浸っていた。
「今日は考え事が多いね。ん? もう日付変わったから昨日と今日、かな?」
「……まぁ、な」
防衛策は叶と康、さらに七夜や高嶺家の当主に任せておけば天一が口出しすべき点は見つからないだろう。その点は康を信頼しているし、いざとなれば無茶をしてでも何とかなる。一番の問題はやはり、天一自身の力が戻る気配がないということだろう。
師匠はナイトメアという敵、組織に向き合うことで力を取り戻すことができるといっていた。だが原因となったであろう烏丸を倒したが力が戻る兆しはない。烏丸を倒すことで力が戻ると考えていた天一にとって、これはとても大きな誤算だった。
烏丸を倒すために戦ったとき、初めてわかったことがある。恵理と対峙したときは不知火の二刀流という反則技を使ったからこそやり過ごすことができただけで、一本だけだったさっきの戦いはほとんど本来の動きをすることができていなかった。真紅や七夜に助けられていたから生き延びられただけで、もし一人だけだったら確実に負けていた。
本当に、無意識のうちに力に頼っていた。ただ刀を振るうだけでもどこか力の存在に頼っていて、刀をよけられても力でどうにかできると思っていた。しかし今回は、力がないと思っただけで動きが鈍った。
はっきりとわかる、今の自分は足手まといだと。雑魚と戦うには十分な戦力になるだろう。だが彼らの言う番号付きと一対一で対峙したとき、おそらく天一は何もできずに終わってしまうだろう。
「……深刻に考えることかな、それ」
「え?」
唐突に投げられた言葉で思わず顔を上げる。鼻と鼻がぶつかるほど接近していた恵理の笑顔に驚いて、目を何度かしばたかせてしまった。
「今までがおかしかったんだよ。何でもかんでも自分一人で背負って、突っ走って。皆と一緒にやれることがある、それってすばらしいことだと思うんだけどな。頼ってもらうのって、結構うれしかったりするしね」
「恵理……お前……」
「らしくないこと言ってるのはわかってるよ。でも、たまには妹らしいことさせてよ、お兄ちゃん」
優しい笑顔、落ち着く声音。愛しさがこみ上げるその姿は、死んだ母に似ていた。
当然といえば当然だったが、何の心の準備もできていなかったためか心に受ける衝撃を緩和することができなかった。
「え……? お兄、ちゃん? なんで、泣いて……」
「へ? あ、これは、その」
気づけば一筋の涙が頬を伝っていた。慌ててそれをぬぐい、なんでもないという風を装ってみるが、恵理はさらに笑みを深め、今度は唇が触れるほど顔を近づけた。
「優しい私は、嫌い?」
「ば、馬鹿か! そういう問題じゃなくてだな! ただ眠すぎて、欠伸をこらえたら出てきただけだよ!」
苦しい言い訳だったが押し通して、天一はソファーから立ち上がる。
本当に、双子というのは厄介なものだ。考えていることが全てわかるわけではないにしろ、感情の起伏を感覚で理解されては隠し事が成り立たなくなってしまう。その勢いで最大の嘘まで暴かれてしまった日には、今までの苦労や痛みが全て無意味になってしまうだけではなく恵理を悲しませる結果につながってしまうだろう。
しかし、隠し続けることに本当に意味があるのだろうか。今日の真紅を見ていると、自分も隠し事を続けている意味を見失いそうになる。
言い方は悪いが、所詮母はもう故人。恵理を悲しませたくはないがいつまでもばれるのを恐れているよりはよほどいい決断なのではと考えなくもない。だが真紅と違って、天一には真実を告げるだけの勇気が存在していなかった。真実を告げて、大切な人の泣き顔を見る覚悟なんてできるはずがなかった。
――あいつの泣き顔だけは、見たくねぇんだよ。
天一が自覚している唯一の弱点。戦闘面では絶対に弱点を作らないように心がけていた天一がどうしても直せなかった部分。でも直せなくていいとも思っている。生活していくうえでも戦闘上でも、さして影響はないのだ。恵理に頭が上がらないだけで、それさえ我慢すれば万事うまくいく。
でも、心の中で赦されたい自分がいることにも気づいていて――
――馬鹿馬鹿しい。本当に馬鹿馬鹿しい考えだ。
赦されないことで罪を忘れない。母と交わした約束を果たすまで、絶対に赦されるわけにはいかないのだ。たとえどんな悲しい思いをしたとしても、赦されることだけは許されない。
簡易ベッドに身を横たえて、天一はただ何も考えず眠りという闇へ落ちていった。
夜なべして書いた話なのでどこかおかしいところがあるかもしれません。その場合は後に訂正しますんで生暖かい目で見守ってくださると嬉しいです。
しかし天が料理上手なことには正直驚きました。恵理が実は料理が下手、という設定は最初から存在していたのですが、それなら天はどうなんだ? というのは盲点で急遽料理上手という設定が仕上がりました。
あ、天が作っていた料理はいいジャガイモと玉葱さえ手に入れば本当にお手ごろ、かつ簡単に作れますんでお試しあれ。
いや、レシピが大雑把過ぎるだろ。
さて天一の意外な一面も見れたところで後書きも終わりたいと思いますが、次話はあまり焦点が当てられていない人を中心に描いていこうかと……。
やっぱやめようかなぁ。
ではでは〜〜。