〔五十六話〕 現在〜イマ〜
過去があるから、現在がある。
そんなこと誰だってわかっているはずだった。
真紅の記憶を話すだけならば彼女の心を傷つける心配はほとんどない。襲撃された期間が、彼女がやっと笑ってくれた直後だったということだけが唯一残念なことだっただろうか。真紅が危惧していたのはその後、祖父とともに事件の真相を知ったときのことだった。
「……俺たちを襲ったやつらは、高嶺 荘介、彼が指揮を取っていたらしい」
そもそも襲撃を受けた際、真紅たちは高嶺家の別荘へ向かっている最中だった。そのコースを予想して、極力周囲へ危害が及ばない場所を選ぶことができた人間は少ない。また白羽の実力を正確に把握して、投入する戦力を計算することができた人間を絞り込んでいくと、荘介だけが浮かび上がってきたのだ。実際彼と対峙した感覚なら、仮定は確証に変わっていた。彼自身もおそらく、問い詰める必要もなく、正直に真実を答えてくれるだろう。
真紅と荘介の間では、すでに判明していた事実。けれど真紅たちを陥れたのが自らの父だったと知った京はどんな反応を見せるのか。それだけが真紅の不安要素だった。
案の定、彼女はどうようしたように両手を自らの口元に沿え、目一杯に涙をためていた。
そんな姿を見たかったわけではない。彼女の泣きが見たくなかったからこそ黙っていたというのに。真紅は自らの未熟さと変えることができない真実に悔しさを感じ、下唇を噛み締める。
「怨んでいないと言えば嘘になる。だがそれもかなり薄れているのさ。彼自身も自分の行動を悔いているようだし、君が悲しむことはない」
「でも……」
口下手な真紅の精一杯な慰めも、今の彼女には通用しない。臨界点を突破した涙は頬を伝い、星明りの下できらきらと輝く。思わず綺麗だと思ってしまうほど京の泣き顔が美しくて、真紅は息を呑む。美人の涙は男を狂わせると空によく言われていたが、ようやくその意味が理解できたような気がした。
かける言葉を捜そうにも、何を言おうと今の京には意味がないことを察して真紅はただ押し黙る。結局のところどれだけ強くなっても守れないものがあるのだと、祖父の教えで理解していたはずだった。
なら、どうしてこうも胸が痛むのか。涙なんてものは錬が死んで以来枯れ果てたと思っていたが、彼女の姿を見ていると目頭が熱くなるような懐かしい感覚が襲ってくる。だが泣く理由が見当たらなくて、真紅はただ戸惑うばかりだった。
「ごめんなさい……ごめん、なさい……」
「謝らないでくれ。君に謝られると、どうすればいいかわからない」
「でも、謝りたくて……意味はないかもしれないけど、どうしても……」
京の言うとおり、その謝罪に意味はない。彼女の自己満足だと片付けられても仕方がないほど理不尽な思いの押し付けだ。
頭の隅にそんな考えがあったが、それよりも強く、彼女の言葉に癒されている自分がいることに気づいていた。
謝罪なんてものは関係ない。ただ自分でも気づかなかったほど深い悲しみを共有して、それに涙してくれた京がどうしようもなく愛しく思えて、同時に自分がどうしようもなく情けない存在に思えて、どうしたらいいのかわからなくなった。
そもそも高嶺家に知られてはいけないという考えはあったが、彼らを怨んだことはほとんどなかった。事実を知らなかったときはもちろんだが、真相を知った今でも彼らを怨む気持ちはほとんどない。もちろん、どうしてという感情は胸の内に燻っている。それでも荘介の気持ちが知りたいと思いはしたが、本当の憎しみがあったかと聞かれると首を傾げてしまうだろう。
「なら……一つだけ、お願いを聞いてくれるか?」
口をついた言葉は京も、そして真紅自身も予想外なものだった。
顔を上げた少女の赤い瞳を見て、いったい何を願うというのか。自分の心が本当に望むことを探して、たった一つだけ、しっくり来る言葉を搾り出していた。
「俺の代わりに笑ってくれ。泣き顔なんて、見たくない」
「そんな……そんな、お願い……」
「頼む。俺はきっと、心の底からは笑えないから。だから代わりに笑顔をくれ」
悲しまないでいい、苦しまないでいい。そんな姿を見るために彼女へ真実を伝えたわけではないんだ。
それに真紅の言葉はあながち嘘でもなかった。
空たちと一緒に馬鹿なことをやって、笑うことは何度もある。けれどそれは心の深淵に存在する空虚を紛らわすためのもので、本当に笑っているわけではなかった。
だから笑顔を求める。自分が持っていないものを、京に求める。それで彼女の泣き顔が晴れるなら、十分すぎる結果だから。
「お願いだ――京」
月明かりの下でわかるほど赤い目を京は見開く。再会して初めて下の名前で呼んだことがよほど衝撃だったのだろう。意識してその名を呼ばなかった真紅自身も、少しだけ気恥ずかしさに似た感情を抱いていた。
「本当に、そんなことでいいんですか?」
「あぁ。あと、できれば敬語もやめてくれると助かる。敬語は苦手だ」
「――はい!」
京はクスッと笑うと、涙の跡が残る顔で最高の笑顔を浮かべてくれたのだった。
――――――
真紅たちのやり取りを見届けようとした天一だったが、それ以上の問題に直面してしまったためその場を離れなければならなくなっていた。
「う、うえぇぇぇ〜〜ん!」
「ったく、そろそろ泣き止め。どこに泣く要素があったんだ?」
真紅の話を聞いていた途中、突然恵理が泣き出した。慌てて抱きかかえ、逃げるようにその場を離れた天一だったが、正直なところなぜ泣くのか皆目見当がつかなかった。
「だって……だってぇ!」
「あ〜あ〜、わかったわかった。わかったからとりあえず泣き止めよ。そしたらいろいろ聞いてやる。ほら、いい子だから、な?」
小さな子供をあやすような感覚で天一は恵理の長い黒髪をすく。さらさらと手触りのいい髪はいつまでも撫でていたい代物だったが、流石にこれ以上泣かれたら対処に困った。
恵理をこんな風にあやすのも随分と久しぶりのような気がする。こっちの学園に交換留学生として来るまで、恵理とは会話こそあったがほとんど挨拶程度にとどまっていた。お互いに顔を合わせづらい気持ちが少なからずあった。普通の兄妹とは違い互いの繋がりを強く感じることができたが、母の死がそれに小さな亀裂を生じさせ、今まで全て分かり合えてきた二人に戸惑いを生じさせたことも原因の一端を担っていたのだろう。
贔屓目もあるだろうが、いい女に育ってくれて安心する。思っていた以上に約束の効力が切れる日は早いかもしれないと一抹の寂しさを感じながら、天一は泣き止むまで彼女をあやし続ける。
「ごめんね、天。真紅の話聞きたかったよね」
「別に。もともと盗み聞きなんて趣味じゃないし、気にするなよ。泣き虫の世話のほうがよっぽど重要だ」
ようやく泣き止んだというのに今度は赤面する恵理。もともと同じだったはずなのにどうしてこうまで違っているのか、恵理のそんな姿を見ていると時々不思議に思えることがある。それが成長するということなのだと気づいたのは、恵理が天一のもとを離れた後のことだった。
赤面して顔を逸らす恵理の髪を優しく撫でる。機嫌がよくなるかと思ったが、なぜか恵理は眠そうに目を細めていた。
「恵理?」
「あ、ごめん……なんか、ねむい」
頭を撫でられてよほど気持ちが良かったのか、蕩けた目は今にも重みに耐え切れず閉じてしまいそう。泣くことによほど体力を使ったのかもしれないが、いくらなんでも屋外で寝かせてやるほど天一も甘くはない。
「ばか、ここで寝るやつがいるかよ」
「うん……だから、おんぶ」
「はぁ!?」
自分で驚くほど大きな声を上げてしまったにもかかわらず、恵理の眠気には歯止めがかけられないようだった。
しかし、いきなりおんぶしろと言い出す女がいるだろうか。仮にも年頃の女子高生、血の繋がった兄妹だからといって問題がないとは言い切れないのではなかろうか。そんな考えが脳裏をよぎったが、小さく溜め息をついて諦めた。
母が死ぬ前まではこんなこと日常茶飯事だったはずだ。友達に冷やかされたり馬鹿にされたりしたとしても決して離れられなかった二人。いまさらおんぶ程度で驚くこと自体がおかしなこと。
「はぁ……わかったよ。ただ、おんぶは面倒くさいからな。こっちでいかせてもらう」
「ふぇ? わっ!」
不確かな恵理の動きを止めて、一気に持ち上げる。片腕は足に、片腕は背中にそえると予想以上に軽い体がすっぽりと腕の中に納まった。
「……少し痩せた?」
「そんなことないと思うけどなぁ」
ダイエットをしているようには見えなかったが、もしかしたら父子家庭になってからまともな食事をしていないのではないかと心配してしまう。久しく実家に帰っていないことを思い出して、たまには親父に連絡を入れようかとまるで関係のないことを考えてしまった。
母の件についてもそうだったが、父はどうも放任主義が過ぎるような気がする。家を飛び出した息子を心配している様子はないと恵理は言っていたし、天一自身もそんな気はしていたのだ。天一たちの力についても少なからず知っているようだし、師匠と同じ、もしくはそれ以上に謎の多い人ではないかと考えたこともあった。
「ま、どっちでもいいけどな」
「どうかした?」
「何でもねぇよ。寝るのか喋るのか、どっちなんだ?」
「んーー……ねる」
言うが早いか天一の首に腕を絡ませて、小さな頭を胸板に押し付ける。数秒もしないうちに聞こえてきた小さな寝息は彼女が本当に疲れていたことを証明していた。
穏やかな寝顔を眺めていると互いの成長を否応なく実感する。けれどその成長の中に昔と変わらぬものがあるような気がして、安心している自分を感じてもいた。
もし母を殺す必要もなくて、今までどおり同じ時間を共有し続けていたら、一生離れられないほど依存していたかもしれない。そう思うほど恵理とともに過ごす時間は穏やかで、優しい。その大切さを教えてくれたのは、結局のところ母だった。
――良くも悪くも、母さんに支えられてるんだな。
恵理の寝顔を眺めながら、さて帰るか、と前へ一歩踏み出したのだった。
はい、というわけで追憶が終わってからの第一回ということですが真紅が思いのほかヘタレだったことと天一がシスコンだったことがわかったくらいでしたね。
しかし天一に少なからず共感できてしまう作者は末期なのでしょうか? いや、そんなことはないはずだ。妹が可愛いと思うのは、兄としては当然のことですよ!
そもそも血のつながった兄妹を大切にしてどこが可笑しいというのでしょうか。そりゃぁいい年した大人がそれをやっていたらさすがに引きますよ? でも学生の年齢ならそれくらい許されてもいいのではないのか! どうなんだ日本!
何か、疲れているような気がします。
と、ともかく次話はもう少しまともな後書きを……あれ、話が脱線しすぎてる?
いいじゃない、たまにはこんな後書きがあったって。
毎回こんなノリでいこうかな。
ではでは〜〜。