〔五十三話〕 追憶〜壱〜
かつての悲しみを、苦しみを、今少しだけ呼び起こそう。
これからまた、しっかりと歩いていくために。
あの日、使用人の運転する車の中、家族三人で向かった先は高嶺の別荘がある場所だった。大事な話をしにいくんだ、朝凪 白羽は幼い真紅にそう言って楽しそうに片目を瞑って見せたものである。
朝凪 白羽は当時三十代になったばかりのまだ若い男で、けれど老人のような真っ白な髪をしており、頬などにはどこでついたのか刀傷など鋭く細い傷が目立つ男だった。母は温厚な人で、白いワンピースがよく似合う黒髪の大和撫子といった表現がよく似合う人。真紅は、おそらく白羽もだろうが彼女が本気で怒ったところなど見たこともなく、幼心にも母の優しさと聡明さがよくわかった。
別荘へと向かう途中で真紅たちが乗っていた車が事故にあった。対向車線からはみ出してきたトラックがぶつかり、一家全員が死亡した。そういうことに、なっている。
だが事実そうだったとするならば、今ここに真紅は存在していないだろう。
別荘に近づいたころ、運転席を小さな衝撃が襲った。真紅はその際まったく気づかなかったものの、白羽はかなりの速度で走っていた車のドアを躊躇うことなく開け放ち、真紅と母の二人を抱きかかえ、一本の刀を伴って車内から身を投げた。普通の人間なら耐えられないほどの衝撃を白羽は難なくやり過ごし、二人の体をそっと離す。幼い真紅の瞳を捉えたのは数秒前まで乗っていた車が蛇行しながら進み、民家に突っ込んでいく様。何が起こったのかまったくわからぬまま、真紅は半ば呆然と父の背中を眺め続けていた。
『……やっかいなのがおいでなすったな』
父の呟きと同時に周囲の建物から黒いスーツを身に纏った男たちがわらわらと現れた。どう考えても異常な状況に、けれど白羽は慣れた様子で肩を回し、腰に携えた刀を引き抜いて見せた。
当時の真紅にとって父が刀を持っていることは当たり前で、法律上問題があるということを理解してはいなかった。そこからすでに異常だったのだと気づいたのは、祖父の下で様々な事象を教わってから。
母に抱きかかえられるような形となり白羽の動きをよく見ることはできなかったが、襲い来るスーツの男たちを打ち払い、ゆっくりと血に染まっていく刀の様子だけはなぜだかはっきりと覚えていた。
不意に視界が開けたと思った瞬間、両手を大きく広げた母の背中が視界いっぱいに広がった。母の体が大きく跳ねたと思ったとき、その白いワンピースに赤い染みが幾重にも広がり、母の体がゆったりと地面に落ちてゆく。閉じられた目蓋と広がってゆく血の池は母から暖かさを奪ってゆき、同時に真紅の理性を奪いつくしていく。
呆然と立ちすくむ真紅を抱え上げて白羽は大きく跳躍する。母はもう助からないと理解して、真紅だけでも助けようという考えだったのだろうが真紅を抱える彼の腕も小さく震えていたことに当時の真紅は気づくことができなかった。
事故現場から数キロ離れた場所で白羽は突然停止した。抱きかかえられたままだった真紅は何が起こったのかと正面へと視線をめぐらせる。そこにいたのは襲ってきた男たちと同じようなスーツを着た、どこか幼さを残す少年だった。
『白羽さん! ご無事で?』
『錬か。ちょうどいい、真紅を頼む。俺はまだやらなきゃならないことがあるらしい』
『ですが! あなたを死なせるわけには……』
まだ何か言おうとする少年に白羽は抱えていたものを思い切り投げる。もちろん投げられたのは真紅で、悲鳴すら上げるまもなくその体は少年によって抱きとめられていた。
白羽が身を翻すとさきほどまで追ってきていた男たちのうち、十数人が追いついてきていた。刀を抜いた白羽は最後に首だけで振り返り、真紅に快活な笑みを向けた。
『真紅。あんまりいい親父じゃなかったかもしれんが、それでもお前を愛してたよ』
まるで今生の別れを交わすように、白羽の言葉は真紅の理性を引き戻すのに十分な力を持っていた。父さん、と声を出そうとしてもすでに白羽は背を向けて男たちへと駆け出していた。少年の腕から逃れようとしても思いのほか少年の力は強く、真紅の動きを完全に封じ込めていた。
『離せ! 離せよ!』
『……離したらあの人の後を追うつもりだろう? お前じゃどうもできない。さっさと逃げるぞ』
『やだよ! どうして、どうして!』
『なら強くなれよ。もう何も失わないでいいくらい強くなるまで、それまでは逃げ続けろ』
少年の言葉など聞けるはずもなく、真紅はもがき続ける。もがいて、もがいて、もがき続けて。けれどどうやっても白羽の背中に近づけなくて、真紅は不意に意識が遠のいていくような感覚に襲われた。少年に何かされたのだと気づくまもなく意識は闇の中へと落ちていった。
目が覚めたとき目の前にあったのはみすぼらしいほど壊れている木の天井だった。所々に穴ができていて、柱は風化寸前、床も軋むほどどうしようもない場所だったが意識がはっきりしてくるにつれて、真紅は慌てて体を起こした。
『気がついた? よかったよ、意識を落とす方法ってよくわからなかったからね』
背後から聞こえた声に驚いて、真紅はかけられていたタオルケットを引っぺがし、勢いよく振り返った。そこにいたのは黒いスーツを脱いで白いジャージを身に纏っていた少年。白羽が”錬”と呼んでいた男だった。
『ここはどこ?』
『山奥にある小さな山小屋。隠れるのにちょうど良かったからね、拝借させてもらったよ。当分は追っても来ないんじゃないかな。もちろん追ってきていたら戦うしかないんだけど生憎と君を守りながらは厳しいかな』
あっけらかんと物騒なことを言い放つ少年に真紅は幼心にも恐怖を覚えた。白羽にたしなみ程度の剣術を教わっていたからなのか、当時の真紅でもわかることが一つだけあったのだ。この男は危険だと。
片膝を立てて座っているその姿からは本来何も感じないはずだ。だがどこにも隙がない。怒りに任せて襲い掛かろうとした真紅の本能を止めたのはおそらくそれが原因だったのだろう。
錬は真紅に笑顔を向けると、ゆっくりはっきりと言葉を紡いだ。
『だから、君を強くする。追手が来ても自分で戦えるくらい、いや、俺でも手が出せないほど強く。そうすれば君は、復讐だろうと何だろうと自由に決めることができるはずだから』
『俺にとって、何の価値があるのさ? 父さんたちは死んだんだ。復讐なんか……』
『俺があいつらと仲間だったと言っても、何の感情も抱かないか?』
急激に胸の奥からこみ上げてくる何かを真紅はしっかりと覚えている。あれが憎悪という感情だったとするならば真紅は当時から計り知れない負の感情を隠していたのだろう。京の件で大人たちの醜い面をしてしまったことも真紅のそれに拍車をかけていたかもしれない。
今度は理性と本能が怒りに負けた。錬へと勢いよく飛び掛った真紅だったが、しかし予想していたようにその体を木造の地面へと叩きつけられる。息ができなくて視界がちかちかと点滅しているような錯覚を覚える。その隙に錬の肘が鼻先まで落下してきて、寸前で急停止した。
『こんな簡単にやられるようじゃ、まだまだだよ』
殺されてもおかしくない状況。しかし錬は真紅から離れ、満足げに一度頷いていた。
『それだけの怒りがあるのなら大丈夫。これからどんどん強くしていけるさ』
『この……!』
立ち上がろうとしても両手に力が入らない。さっきの衝撃が脳に影響を及ぼしているのだろう。そこまで計算して真紅を倒したとしたら、この男は本当に恐ろしい実力を持っているといえた。それを理解したのは少し後のことだったが、真紅はただ怒りの瞳を錬に向けるだけで精一杯だった。
『俺を殺したいならかまわないよ。寝込みを襲うなり、正々堂々狙うなり好きにしたらいい。でもそう簡単にはやられて上げないってことは覚えておいてね』
『……上等』
その日から真紅と錬の奇妙な共同生活が始まった。寝食をともにし、時には実戦ばりの稽古をし、時には木登りや泳ぎなど一見意味のなさそうなことをして、同じ時をともに過ごしていた。いつしか真紅は怒りも忘れ、単純に錬に勝ちたいと思うようになっていた。勝てるわけがない、絶対に手が届かないという感覚は最初の数日だけで、武器などの扱いを少しずつ覚え始めた真紅はいつか錬に勝つことができるのだと信じていた。
気づくと一週間以上更新していませんでした。閲覧ページ数が多いのは”早く更新しろ”という意思表示なのかと、かなり申し訳ないなぁと思っている次第でございます。
と、前口上はこの辺にして、この追憶、二回か三回に分けて書いていこうと思っています。また一週間以上更新しない、とかになってしまったらメッセージか評価とかで”早く更新しろやぁ!”とか……送られたら困りますね(汗)
今回の話、錬の性格や人柄をメインに書いていこうと考えていたんですが、最初の予定とはるかに違う人になってしまいました。どこかで路線変更させる予定ですが、いやまさかここまで物腰が穏やかになるとは……。
当初の予定と照らし合わせてみると、正直気持ち悪いくらいの変化です。
余談はこの辺にして、次話、できる限り早く更新できるように頑張ります。
ではでは〜〜。