〔五十一話〕 かつての少女に
悲しませたくなどない、苦しませたくなどない。
真実を知ることで彼女が悲しむことになるのなら、本当はそれを知らせることは間違いなのかもしれない。
けれど彼女がそれを望むのなら、少年は――
荘介のことを七夜に任せ、真紅と天一はそろって執務室を後にした。
連戦の疲れもあってかすっかり眠りこけてしまった真紅だったが、天一が苦笑を浮かべながらも連れ出してくれたおかげでなんとか意識を取り戻し、高嶺家の広い廊下を今はしっかり歩くことができていた。
「何で、手を出した?」
助けられたことには感謝しているし、彼の助けがなければ戦いにすらなっていなかったことは真紅も理解していた。しかし真紅は最初に、天一にだけは手を出すなと忠告したはずだった。それを無視してでも助けに入ってくれたことが少し照れくさかった、問いに含まれた本当の理由はそんな単純な感情。
「お前のケジメは終わってただろ? あれはイレギュラーだったし、それくらいは手を出してもいいと思ったからな。それに、あいつには借りもあった」
何事もなかったかのような笑顔で、天一はこともなげに言ってのける。どこまでも前向きな姿勢を見せる彼を羨ましくも思い、けれどその内に秘めたものの大きさを感覚で理解できるあたり、本質は自分と同じではないのかと真紅は小さく溜め息をついた。
諸々の手続きなどは全て七夜たちに任せ、真紅たちは高嶺家を離れようと考えていた。七夜は確かに数刻前まで敵だったが、根っこの部分が真紅と同じ、錬の遺志を引き継ぐという面において同質と言えた。だからこそ信頼することができていたし、不思議とその選択が間違いではないのだと確信することができていた。
お互い想像以上に消耗していたからか正面玄関まで歩く少しの間、二人の間に沈黙が舞い降りた。だがその沈黙は居心地の悪いものではなく、最初から言葉など要らないといえるほど心地よいもの。
執務室は二階にあったらしく、天一についていく形となった真紅は正面玄関の階段までたどり着いた。あとは玄関を抜け、天一の家で他のメンバーに説明するだけ。
だが、真紅は天一の背で彫刻のように固まってしまった。
「あ、お疲れ、天。思ったより時間がかかったわね」
鬼ごっこのときの面影をまったく見せない清楚な白で統一した、目を奪われるほど綺麗な格好をした恵理がやってきた天一に笑顔を向けている。天一は天一で、元気な恵理に困ったような表情を向け、頭をかいていた。
「……なんでいるんだよ、お前」
「へ? 何か面白そうなことしてるなぁと思って、後ついてきた」
「な、てめっ! いつの間に気配消すなんて技術覚えやがった?」
「ふっふ〜、天が気づかない場所で、私も成長しているんだなぁこれが」
誇らしげに胸を張るその姿に、天一はやれやれと首を振る。
本来なら真紅も一緒に溜め息をついて馬鹿話をしながら屋敷を出るのだが、真紅はただ一点に視線を奪われ、息をすることすら忘れていた。
黒のレースがついたワンピースを着た、少し儚げな印象を与える少女。学園で見せる流れるような黒髪は左の上方でまとめられ、一つの房として成り立っている。
その姿が、かつての彼女と完全に一致していた。
――初めて出会った幼い日の彼女は、今とまったく同じ姿をしていた。
その瞳には生気が感じられず、真紅は子供心に必死になって彼女を笑わせようと走り回ったものだ。
けれど今の彼女の瞳には優しげな光が宿り、ほんのりと恥ずかしそうな笑顔が浮かんでいた。
「ね、言ったとおりでしょ? 真紅もぞっこん、ってね」
「えり〜、恥ずかしいからやめてよぉ」
恵理の背中に隠れようとするが、その恵理に押し返され逃げ場を失っている。小動物のような動きを見せる彼女は学園での落ち着いた姿など微塵もなく、本当に彼女が昔の”人形のような少女”なのだとわかってしまう。
雰囲気、とでも言うのだろうか。お淑やかに整えてどこか無理をしている感じはなく、本当の自分を表に出している。
「どうかしたか、真紅?」
「え……いや、何でもない」
天一の声でようやく我を取り戻し、視線を京から逸らす。目ざとくそれに気づいたのか、恵理は小悪魔特有の笑みを浮かべ、京の耳元にそっと何かを耳打ちした。瞬間、京の顔が遠くから見てもわかるほど赤く変わり、今にも湯気が出そうなほど茹で上がっていた。
何を耳打ちしたのか、内容こそわからないがよからぬことであるのは間違いない。あの天一が表情を引きつらせているほどだ、恵理の性格は思っていた以上に困ったものだと言えるだろう。
「天、逃げたほうがいいのか?」
「……あぁ、あの笑顔はまずい」
こと恵理に関しては天一の言葉ほど信用できるものはないと真紅は考えている。鬼ごっこの際に見せたあの逃げっぷり、あれは一見単純な逃げに見えるがそこに行為に対する慣れを感じさせるものだった。もっともそれは真紅の深読みかもしれなかったが、逃げるという選択肢については真紅も大いに賛成できるものだった。
聡司と戦ったときよりも速く体が反応を示す。少しだけ眠ったからか体が軽い。天一が右から駆け恵理の注意を誘い、その隙に真紅が玄関を突破する。その後のことは天一がどうにかしてくれるだろう。
絶妙なタイミングで左右へと散った二人を、しかし恵理は見過ごしてくれない。一瞬で京を自分の後ろへと引いた恵理はその両手を左右へと広げ、口元に不気味な笑みを張り付かせる。
それとほぼ同時に真紅の背筋を冷たいものが駆け抜ける。両足の筋肉を総動員して前進する力をかき消すと、鼻先を鋭い風が駆け抜けた。天一も腰に挿していた不知火を引き抜き、襲い掛かる風の刃を弾いていた。
忘れていたわけでもないが、彼女にはこの力があるのだった。
風を自在に操る、異能の力。見ているだけの京には何が起こったのか理解できなかっただろうが、真紅は表情を失い、天一は引きつった苦笑を浮かべるほどその能力は厄介な代物だった。玄関の扉にたどり着き、それをこじ開けるまでの時間を考えると突破できる可能性はほぼ零に近い。わずかな望みを断たれた二人は小さく肩をすくめ、その場に両足を落ち着けた。
「うん。殊勝で結構。あ、でも後で天にはおしおきね」
「んなぁ!?」
不意に落とされた爆弾に、頓狂な声を上げて膝から崩れ落ちる天一。そんな絶望にひれ伏す姿など想像したこともなく、またできなかったことからも真紅はただその光景に呆然と口を開くことしかできなかった。その爆弾を投下した当人は何が楽しいのか鼻歌など歌いながら、真紅の方へ流し目を寄越した。
「ほぉら、真紅も。むやみに逃げようとするんじゃないの」
「あんな恐い顔されたら、俺じゃなくても逃げたくなるさ」
思わず本音で返してしまうと恵理は艶のある笑みを浮かべて、後で覚えておきなさいよとでも言いたげに指を突き立てた。普段天一が感じている身の危険、その片鱗を垣間見た気がして真紅は思わず同情の視線を天一へと向けてしまった。
うなだれたままだった天一はその視線に気づいて弱々しく笑みを浮かべ、すでに全てを受け入れていると告げていた。
「逃げるのはちゃんと向き合ってからにしてもらおうかしら、朝凪 真紅」
「……なるほど、そういうことか」
彼女なりに気を使ってくれたということかもしれない。事情を全て理解しているわけではないだろうが天一が認める唯一の女の子だ、いろいろなところに気がついて真実に近づいていたとしても不思議ではない。
考えてみると天一と恵理にはやはり、似通ったところがあるのではないかと思う。他人をよく観察している観察眼、何も言わないでもいろいろなことを理解してくれる洞察力、不思議と心を許してしまう安心感。
まるで性別が違うだけの同じ人間がいるような錯覚が真紅を少しだけ混乱させていた。
ともあれ今は彼女の好意に甘え、解決せねばならない問題と正面から向き合うことが必要だった。
「高嶺、少しだけ時間をもらえないか? 話さなければならないことがあるんだ」
驚いたように一度跳ねた京だったが、すぐに表情を引き締めて頷いた。
彼女にはまだ気づかれていないはずだった。それでもしっかりと話を聞いてくれるのは数時間前に見た七夜との戦いのせいか、それとも――
どちらにせよ真紅は、決断を迫られているのかもしれない。
真実を知ることが全て幸福ではない。どっかの偉い人が言ってそうなことですが、一応作者の持論でもあります。
さてそんなことはどうでもいいことなので、作中の補足でもしたいところなのですが……
どこ補足すりゃいいんだろ?
いえね、補足すべき場所はたくさんあるはずなのですよ。でもそれを補足しちゃうとネタばれになるような……。
ギリギリのラインが見えない今は、変なことを書くのは控えることにします。
駄文ばかり重ねていますが、ある種特徴だと思って受け止めてください。
ではでは〜〜。