〔四十九話〕 深淵の囚われ人
ただ守りたかっただけなのに。
ただ泣かせたくないだけなのに。
そうしてたどり着いた結末に、彼は――
漆黒の闇にとらわれたまま、聡司は目を覚ました。四肢は太い縄に縛られたように動かず、自らの体が空中で大の字を描いていることに否応なく気づかされる。どうしてこんなことになっているのかと考えたとき、霞のかかった記憶の中で蒼穹の槍を構えた男の姿が浮かびだした。
「……ありがと、七夜」
完全に人格が消滅していた自分がこうして自我を保てるほど回復したのは、おそらく肉体が一度死滅したからだろう。聡司の場合は肉体の防衛本能として、自らの人格を内側にかくまうことにより聡司の人格が失われたように外部には受け取られていた。
しかし一度肉体が死んだ以上、肉体に刻まれた苦痛と屈辱の色は霞み、どれだけの時間かわからないが自我を保つことができていた。
目が慣れてきたのか周囲の様子が少しずつわかるようになってくる。体は地上から三メートルほど高い位置で固定されていて、真下にはよくわからない機材が無数に散乱している。四方はわずかな光を灯した機械によって固められており、監視されているということが容易に理解できた。
心拍数などで起きていることを悟られてはいけない。ナイトメアとしての本能からかその辺は無意識のうちに調整が効いているらしいがいつ気づかれるかわからない。
不意に足音が聞こえた。足音を殺しているわけでもないのに小さすぎるそれは、聡司の記憶の中ではただ一人しか該当しない。
「研究員たちは下がらせた。起きているんだろう、聡司?」
男の声にしては少し高い声。けれどそこに絶対の自信と究極と言えるまで研ぎ澄まされた闘志を秘めていることを聡司は知っている。
まさか彼が会いにくるとは思っていなかったが、ある意味ではいい機会かもしれない。
「……久しぶり、なのかな。ここ数年の記憶が曖昧だからわからないが、とりあえずそう言っておこうか、小柳」
「う〜ん、昔みたいに”あたら”って呼んではくれないのかい、聡司?」
とぼけた口調だ。本当に聡司が起きていたことを知っていたらしい。
いや、彼にとっては聡司の小細工などあってないようなものなのかもしれない。
ファーストナンバー・小柳 新。錬が組織を抜けて以来、ナイトメアのトップとして君臨している男。錬と同じように日本刀を操り、技の面に関してだけ言えばナイトメア最強。錬よりも美しい技を操ることができていた。
「無理な話だ。誰のせいでこんなことになったか、忘れたわけじゃないだろ?」
「ありゃ、覚えてたか。その節は悪かったね」
「本当に……むかつくやつだよ、お前は」
もし四肢を封じられていなければ、勝てないとわかっていても向かっていっただろう。今だって両腕に千切れそうなほどの痛みを感じながらも、全身が止まろうとしてくれない。飄々としたその態度、口調。この場で殺してやらなければ気がすまないと、理性の奥に引っ込んでいたはずの獣が咆哮している。
六年ほど前になるのだろうか。記憶が曖昧すぎて定かではないが、かつて聡司を捕らえたのがこの男だった。下級のナイトメアを大量に切り伏せ、中級のそれすら寄せ付けなかった聡司を彼は笑顔を浮かべながら生け捕りにしたのだ。聡司の鞭を完全に退け、膝をついた聡司の眼前に刀を向けるその表情は、最後まで笑顔。
「まぁまぁ、そんなに怒らないでよ。今日はいいニュースをもってきたんだから」
「いいニュースだ? お前が持ってきたニュースなんて、昔からまともなものがなかっただろうに」
七夜がこけたとか、錬が叶を泣かせたとか、健三さんが壁をぶっこわしたとか、まともな話を持ってきたことは一度としてない。ナイトメア内で最もありえない容姿をして、最も適当な男。それが小柳 新だった。
「いやいや、今回は本当に真面目な話だよ。どうやら君の監視が弱められるらしいんだ。理性を完全に失っていると理解してもらえたらしい」
「へぇ、そいつはいニュースだ。参考にさせてもらおうか」
そう答えるものの、聡司はまったく新の言葉を信用してはいなかった。
聡司は知っている。叶と聡司が逃げ出したあの日、組織の研究員たちに脱走の情報を漏らしたのはこの小柳 新という悪魔だ。理性が希薄だった頃に仕入れた情報だから少し信憑性には欠けるかもしれないが、警戒するには十分な理由となる。
「まぁ、もう少しだけ我慢してもらえるかな? 君は一度も死んだことがなかったみたいだから、いろいろ検査が必要みたいなんだ」
「へぇ、その言い方からすると、お前は何度か死んだことがあるみたいだな」
「あはは……うん。昔、一度だけね」
漆黒の闇の中、表情などわかるはずもなかったが聡司はなぜか新の顔に小さな苦痛の色が浮かんだような気がした。どんな時でも笑顔を崩そうとしなかった彼が、見えないという先入観がある場所であれその表情を崩した。それだけで驚愕に値する。
いったい何がそうさせたのか興味をそそられたが、聡司は細く息を吐いて目を閉じた。
「要件はそれだけか? 体が重いんで俺は眠らせてもらう」
「再生後は皆そうなるらしいよ。ゆっくり寝ているといい。次に起きたときにはきっと、自由を取り戻せているはずだよ」
――自由、か。
この組織に監視されている以上、自由などという言葉は存在しない。一挙一動を監視され、一人になっても気を抜くわけにはいかない。一つでも妙な行動を起こせば、すぐに動きを封じられる。そんな生活を自由と言うはずがない。
けれど今は、わずかな希望を抱いて眠ることができる。
――頼んだよ、七夜。
錬と叶、七夜、そして聡司。かつて組織に反抗心を抱いた四人のうち、最後までそばで支えてくれていた親友の顔を思い浮かべながら聡司は安らかな夢の世界へと落ちていった。
――――――
応接室、というのだろうか。大きな執務机と正面に設けられた大きなソファー。ソファーのほうには左から天一、真紅、七夜という順に座り、執務机の向こう側にはどっしりと腰掛ける荘介の姿があった。
絶対に顔を合わせてはいけない人、そう考えていた。
高嶺家の当主であり、朝凪 白羽の親友でもあり、京の父親でもある彼。それだけならばむしろ好意的に接することだってできるが、真紅は彼に対して警戒心しか持ち合わせてはいなかった。
白羽が死んだ事故。正確には暗殺のために大量のナイトメアを送り込んできたあの時、首謀者は他ならぬ彼、荘介だった。
白羽が告発しようとしていた幹部たちの中には荘介の直属の上司も含まれていたという。そのため上司から指示を受けた荘介が白羽の動きを探り、白羽がもっとも無防備な状況を狙っていたのだという。
「まずは真紅、感謝の言葉を送らせてもらおう。ありがとう」
「……あなたに礼を言われる筋合いはありません」
「いや、君には大きな借りがある。私の娘を、京を二度も救ってもらったのだから」
「あなたが……!」
勢いよく立ち上がる体を止めようともせず、今まで溜め込み続けてきた感情を抑えようともせず、言葉という名の凶器をつきたてる。
「あなたがそれを言うんですか? 京を人形のようにしてしまったあなたが! 俺の両親を死へと追いやったあなたが! あなたに礼を言われる必要などない。関係のない京を巻き込みたくなかった、ただそれだけだ!」
感情のおもむくままに言葉を発したことなど今まで一度としてなかった。真紅自身も内心では驚いているが、隣に座る二人はもっと驚いていたようで、七夜など目を見開いている。
けれど言葉を向けられたはずの荘介はただ静かに真紅を見つめているだけで、反論しようとしなかった。
いや、ただ見つめているだけではなかった。よく見ると彼の体は小刻みに震え、口は堅く閉ざされ、瞳は微かに震えている。
真紅は今の今まで、高嶺 荘介という人は完全に敵側の人間だと考えていた。人を殺めることに何の感情も抱かず、親友すら簡単に割り切る。そんな、組織の人間の典型だと。
だがこれは、どういうことなのだろうか。彼の姿は、真紅の言葉に何一つ動かされていないわけではなかった。その姿は、罪の意識に苛まれているようにしか見えない。
今まで心の底に渦巻いていた怒りが、ふわりと軽くなったような気がした。
彼が罪の意識を持っているというのなら償うことだってできるはずだ。ならば真紅がどれだけ怒りをぶつけようと意味はない。
大きく息を吸い込んで、真紅は努めて冷静に言葉を選んでゆく。
「……あなたが負い目を感じているのなら、俺たちに協力してもらう。組織の現状と、俺たちの情報が組織に漏れないための手配。その他諸々の援助をしてもらう」
「そのくらいならば、たやすいことだ」
声が微かに震えている。そう感じるのは記憶の中にある彼の声と少しだけ違うからなのか、本当に震えているからなのか。正確な判断をすることはできないが、追求する気にもなれずにソファーへと身を落とす。
同時に天一が腰を上げ、荘介と対峙する。
「援助の一環としてこの屋敷を拠点として使わせてもらいたい。ナイトメアの襲撃にもこの屋敷なら対処することができるはずだ」
「確かにこの屋敷は外敵に対する防衛機構は万全だ。何なら宿泊もできるようにしておこう。その方が何かと動きやすかろう」
「感謝する。人数は……八人分でお願いできますか?」
「問題ない。各自個室を用意できると思うぞ」
二人のやり取りを右から左へ受け流しながら、真紅は小さく溜め息を吐く。
彼を許すつもりは毛頭ない。それは荘介自身理解していることだろう。
「……絶対に許せないのかな?」
「だから、人の心を読むなと言っているだろう、七夜」
二人には聞こえないほど小さな声で、どこか楽しそうな声音が聞こえていた。本当に心を読まれているような感覚がしていたが、不思議と悪い気分にはならない。それが氷室 七夜という人物の人徳なのか自分自身の問題なのかはわからないが、会話すること自体は拒否する道理もない。
「君は錬を殺すきっかけとなった俺を許すことができている。それと同じように、彼も許すことができるんじゃないか?」
「別に、完全に許したわけじゃない。ただあんたにも理由があったんだと思ったら、どうにも憎むだけではいられないと思っただけだ」
「ならもっと簡単じゃないか。荘介さんにも理由があったんじゃないか、今後悔しているのならそれでもいいんじゃないか。考え方はたくさんあるよ」
確かにそうなのかもしれない。真紅が子供なだけで、過去のことだと割り切ることができたなら彼を味方としてみることができるのかもしれない。
だが理屈はわかっていたとしても、心がそれを拒んでいる。
怒りの矛先を彼だけに向けるつもりはないが、彼に向いた怒りは真紅の原動力にも繋がっているはずだから。少なくとも今、完全にそれを鎮めることはできなかった。
「あとは……そうだね、時間が少しずつ解決してくれるんじゃないかな?」
「ああ……俺も、そう思うよ」
もし怒りが、憎しみが完全に消えてしまう日がきたとしたら真紅はいったいどうなってしまうのだろうか。今更普通の生活を送ろうなどとは思わない。日常は、両親と過ごした幸せな時間はもう戻りはしないのだから。
霞の向こう側にある未来を見ようとする自分に嫌気がさして、真紅は目蓋を下ろす。
酷使してきた体は主の意志をやんわりと押さえ込み、いつの間にか何も考えられなくなっていた。
今回、本当は聡司に焦点を当てた物語にするはずでした。
昔の叶との掛け合いや、七夜や錬とのやり取り。そういったものを描けたらいいなと思っていたのです。
でも、それやっちゃうと情が移っちゃいそうで……。
味方になるのは七夜だけで十分じゃああ!!
以上、心の叫びでした。
こんな実のないあとがきで申し訳ないのですが、今回はこの辺で。
ではでは〜〜。