〔四話〕 神凪学園
暖かいのか、冷たいのか。よくわからないその世界の中で、少年は新たな生活を始める。
真紅は生まれてこの方、これほど緊迫した雰囲気の中に立ったことがない。
幼いころからいくつかの死線を乗り越え、ある程度の事象は享受することができると思っていた。
だが、真紅の認識を超える事象がこの世にはまだ数多く存在しているのだと、彼は改めて自分の無知を確認することとなった。
教卓に立ち、すらっと背の高い女教師が優しげに声を上げる。
「え〜、今日からこの神凪学園二年四組に編入してきた、朝凪真紅くんです」
転校生がやってきた。世間一般ではどういう反応がなされるのか、常識というものをよくわかっていない真紅にはわからないことだったが、この学園は特殊なのだということだけは容易に理解することができた。
はっきり言うと彼らは皆、真紅を歓迎してはいなかった。
突き刺さる冷たい視線。友好的な雰囲気など欠片ほどもなく、クラス内にある六十個以上の瞳はほとんど、敵意以外の何物も溜め込んではいない。
「伝統ある我が学園では初めて、外部からの転入を認めたということですが、皆さん、どうか特別視することなく接してくださいね。では朝凪くん、自己紹介を……」
小さくため息をついて真紅は促されるまま、教卓へと足を進めた。
――――――
森を抜け、漆黒の海を目にした後、真紅はその足で空の実家へと向かった。
実家といってもそんじょそこらの家ではない。豪邸、そういっても過言ではないほど大きな洋館。後方には馬鹿でかいほどの敷地があり、山すらも彼らの所有物なのだという。
屋敷の中に招かれて、パーティーなどが開かれるほど大きい広間へと案内された真紅たちは、そこでオーケストラが演奏しているような重厚な音楽と優雅に踊る一組の夫婦を目にすることになった。
純白のドレスを身にまとった女性は髪を上品にまとめ、男性のリードにあわせるかのように踊る。男性は男性で、タキシードを着こなし、彼女を気遣いつつダンスを楽しんでいるようだった。
「……何やってんだよ、この馬鹿夫婦」
頭を抱えて深々とため息をつく空。その表情には疲労の色が濃く、茶番には付き合いたくないという気持ちがありありと感じられた。
「あら、馬鹿とはひどいわね、空。真紅くんが戻ってくるっていうから盛大に盛り上げようと思ったんだけど、いろいろな人たちに止められたのよ。だから代わりにダンスでお出迎え。真紅くん、お帰りなさい」
「お帰り、真紅くん! 七年ぶりだね、元気だったかい? お父さんに似て、りりしく育ったようだね」
ダンスをする夫婦、空の両親は親しみやすい朗らかな笑みを浮かべ、ダンスを再開した。
彼らは真紅の死んだ両親と旧知の仲だった。真紅の両親もそうだったが、空の両親も社会的に成功した人物で、真紅たちも親のおかげで友達になった。
彼ら夫婦は真紅にとっても懐かしく、安らぎを覚えることができる数少ない人たちだった。
「ご無沙汰しています、早苗さん、光義さん」
小さく頭を下げると二人はまた満面の笑みを浮かべた。
音楽が終わると同時に二人はダンスを終え、三人へと歩み寄った。踊っている最中は気づかなかったが、光義は真紅たちより頭一つ大きく、早苗は愛美と同じくらい小さい。
「話は聞いているよ。どこから情報が漏れたのか、僕たちなりに調査を進めていこうと思っている」
「お手数をおかけして、申し訳ありません」
「なに、気にすることはない。君は僕たちにとってももう一人の息子のようなものだ。遠慮せず、何でも言ってくれたまえ」
その細い体にどれだけの度胸と優しさを蓄えているのか。真紅には計り知れないほど彼の度量は大きいものだった。
「ありがとうございます。早速ですが、ひとつ、お願いを聞いていただけませんか?」
「かまわないよ。なんだい?」
「俺を、この家でかくまってくれませんか? あいつらを、ナイトメアを根絶やしにするまでのたれ死ぬわけにはいかないんです」
光義は一旦、思案するように目を閉じた後、意を決したように口を開いた。
「――それは、復讐のためかい?」
真紅の両親を殺した部隊がナイトメアだということは彼もすでに知っていた。そもそも真紅がナイトメアに殺されることを恐れて、祖父のところへ連れて行ったのが光義だったのだ。
両親を殺された恨み。それを晴らすためにナイトメアを滅ぼそうとしている。そうやって考えるのは当然のことだ。立場が違えば真紅も同じ答えにたどり着くだろう。
けれど真紅は首を振り、確固たる意思を自らの言葉に詰め込んだ。
「いえ、両親を殺されたことは、恨んでいないと言えば嘘になるけれど、正直関係ないんです」
「それは、どういうことかな?」
「約束、したんです。ある人と。彼らの悪夢を終わらせるって。そのためにも、俺は彼らを、彼らの頭を潰さなきゃならないんです」
今の真紅にとってそれは絶対に優先すべき誓いだった。それが自分の平穏を壊してしまうと知っていても、誰かを悲しませてしまうと知っていても。立ち止まるわけには、いかない。
――――――
翌日、というよりはその日の夜中にはこの[神凪学園]への編入が決定していた。
光義曰く『まずは普通の生活に慣れなきゃいけないね。というわけで、空たちが通ってる学園への編入手続き、済ませてきたよ』らしい。
ただでさえ世間から隔離された生活を送っていたのだ、少しの間は空の屋敷にとどまり社会情勢を理解する時間がほしかった。
昨夜の疲れもあって、真紅は覇気のない表情のまま教卓へと歩み出た。
敵意溢れる瞳を冷ややかに眺めながら、真紅は威嚇するでもなく、できるだけ穏やかに言葉を発した。
「朝凪真紅です。よろしくお願いします」
内容は簡潔に。というよりは面倒くさかったので考えてすらいなかった。
「えっと……他に何かない?」
「特にないです」
わざわざ歓迎されていない場所で長話をするつもりなど毛頭なかった。
「え〜〜、それでは皆から何か質問はない?」
間が持たなかったのか困惑気味に言葉を投げかける教師。
伝統があるのか知らないが、この学園で外部の人間が快く思われていないのはよくわかった。ただでさえわからないことだらけだというのに、この状況は正直にいって堪える。
誰にも気づかれないようにため息をついて、さてこれからどうしようかと考え始めたとき、唐突にそれはやってきた。
「――はいは〜い! 昔から気になってたんだけど、どんな女の子がタイプなんですか?」
「俺も質問。こいつは守備範囲外なのか?」
一瞬、地面がぬかるんだような錯覚に襲われた。
能天気な二つの声は、今までいったいどこに隠れていたのか生徒たちの中から発せられた。敵しかいない、暖かい視線などないものだと思っていたがそれらは確かに、存在していた。
「……お前ら、もうちょっとまともな質問にしろよ」
「えぇ〜、いいじゃん気になってたんだから。真紅は女の子に興味ないのかなぁ、ってさ」
「気になっていつも寝不足気味なんだとさ」
「ちょっ……そこまで言ってないでしょ、空!」
一番後ろの席に愛美と空は並んで座っていた。窓際、向かって右側の席に頬杖をついてニヤニヤと気味の悪い笑みを浮かべる空と、その隣で頬を真っ赤に染めている愛美。慣れ親しんだ顔があっただけで、敵地だと思っていたその場所に、何故か居心地のいい空気が流れ始めた。
「御子柴たちの知り合いか……」
「怪しい人じゃないみたいね」
「それに、よく見ると素敵な方ですわ」
途端に教室内の空気自体が変わりはじめた。
敵意を含んだ視線は好奇の詰まったものへと変わり、あるものは問いかけ、あるものは面白そうに真紅を眺める。
いつの間にか、教師が仕切っていたはずの教室内は生徒たちの独壇場へと変わっていたのだった。
すごくご都合主義になってきたような気がする今日この頃。
実際は裏で空の両親が動いたため、クラスが同じになったという裏設定があるんですが、本編で出すことはないでしょう。
さて真紅の新生活が始まります。新生活、いい響きだ……。