〔三十九話〕 遊戯の後に
遊戯は終わり、現実と向き合うべきときが訪れる。
約束を守るために、天一は母を殺した。殺さざるを得ない状況だった。
でもそのせいで、恵理は約束を棄て、天一に殺意を向けるようになってしまった。
考えてみれば滑稽な状況ではないだろうか。
「……俺は自分の意志で母さんを殺した。それでいいだろ?」
「おに……天」
「俺の力を試したかったから母さんにけんかを吹っかけただけだ。それ以外に理由は無い」
辛くても恵理の瞳を直視して、言ってのけた。その後すぐに体を離し、二本の木刀を拾い上げる。
直後、スピーカーにノイズが走り、鬼ごっこの終了が宣言された。
「賭けは俺の勝ちだな。今日の夕食は恵理が準備してくれよ」
「……はぁ……うん、わかった。もぅ最高の料理を作ってやるんだから」
気を取り直したような”うん”と華やかな笑顔。それはさっきまでの”妹”としての恵理ではなく”鷺村 恵理”という少女が見せる気丈な笑顔。
自分を責め立てるその笑顔を見ることが、天一にはたまらなく辛い。
恵理との賭けは、天一が勝ったら夕食の材料費は恵理が、恵理が勝ったら天一がはらうというなんともどうでもいいものだった。だが馬鹿にならないのはその材料費。最低でも手持ちの半分は使って用意しなければならないという制約付き。
お互い意地になって貯金を全て下ろしていたため、仕送りで生活している天一には相当辛いものになっていただろう。
もっとも恵理にとってもそれは同じこと。鷺村と名乗っていても恵理はまだ父と一緒に生活している。父が天一を責めなかったことには当初から反発していたが、それでも父には怒りを向けているわけではなかったため、母が死んだ後は天一が家を出る形をとって事なきを得ていた。
生活費を稼ぎたいがために友達だった康にバイトを紹介してもらったのが、情報屋として活動し始めるきっかけだった。
昔のことを思い出すなど、らしくない。せっかく手に取った木刀を力任せにへし折って放り投げると、天一はいつもと同じようにわざと軽い笑顔を浮かべて振り返った。
「しかし結局、俺以外は眼中にないみたいな行動だったな。真紅や空たちだって相手としては申し分ないやつらだったはずだぞ?」
「あ、それ! そうだ、天! あの真紅って子に私たちと同じ力があるって本当なの?」
「うん? あれ、言ってなかったっけ?」
真紅の力には初めて会った瞬間、天一がらしくない奇襲をかけたときから気づいていた。いや、力の存在に感づいたからこそ天一は奇襲をかけ、一撃で仕留めようと焦っていたのだ。
すっかり忘れていたためか、恵理は頬を限界まで膨らませ、美人が台無しになるほどふてくされた仕草を見せた。
「聞いてません! 何よ何よ、康は信用してて私は信用しないんだ。そぉなんだ!」
「あー、あー、あー! 悪かった。悪かったよ、頼むから機嫌直してくれ」
平謝りするような覚悟、というよりもどうでもいいやという気持ちで天一は両手を高々と掲げて降参の意志を示した。その瞬間を待っていた! とでも言いたげに恵理の瞳が鋭い光を宿した。
しまった、と思ってもすでに遅い。
「悪いと思ったなら、今日の夕食代半分持ってね」
「え、いや、ちょい待て……お前の財布と俺の財布じゃ重みがまるで違――」
「へぇ、じゃあいいや。今日は康と私の分しか用意しないから」
「俺を飢え死にさせるつもりか、お前は!」
死活問題を楯にされては、天一に勝機はない。料理は一通りできるようにしてあったが、今日は流石に自分で作る気力は残っていなかった。
ああだこうだと議論するのも億劫になって、天一はもう一度両手を上げた。
「……もうやけくそだ。好きにしろ」
「やった! だから大好きだよ、天!」
危うく抱きつかれそうになって、反射的に手のひらを前に突き出していた。突き出した右手は見事なまでに恵理の額を捉え、恵理は両手を大きく広げたまま天一の腕の長さ分だけ手前で静止していた。
嫌な沈黙が、お互いの間に流れた。
どれだけ経ったかわからなくなったころ、地獄からこみ上げてくるような憤怒の声が恵理から聞こえてきた気がした。
「……天一くん、そんなに抱きつかれるのが嫌いなのかな?」
「い、いやぁ、なんていうかこれは……変な癖が付いてしまってですね……不可抗力といいますか、俺のせいじゃないといいますか」
「てーんーいーつーくーん?」
「ひぃ!? ちょ、ま……いやぁぁぁあああああああ!」
悪鬼のような恵理の表情に、天一はただ悲鳴を上げ、逃げ出すしかなかった。
――これでいい。
こうやって、他人でも家族でもない友達としての距離にいられたなら、他には何もいらないとさえ思えてきてしまう。
天一は母を殺した罪の意識から、恵理は母を殺された憎しみから離れていく。それでも互いに過ごしていくなら、この距離が一番過ごしやすい。
死の危険を背中に感じながら、それでもこんな日常が続いて欲しいと、願ってしまった。
――――――
二人を迎えに行ってくるよ、と言って康が消えてから真紅は校庭の木に背を預け、思考の海に沈んでいた。
祖父、神坂 黒陽がこの学園の関係者であり、企業と繋がりがあった。少しだけ驚いていたが、それも当然かもしれないと思う自分も確かに存在していた。
そもそも父、白羽は企業の幹部だった。祖父が企業に籍を置いていたため、父もその後を追って入社したという考え方だってできる。驚くべきなのは、どうして今までその可能性に思い当たらなかったのか、という一点のみ。
祖父と過ごしていた間にその考えを思いついていれば企業のことをもっとよく理解できたかもしれない。ナイトメアへの対抗策も手段の幅が広がっていただろう。
もっとも、どれだけ考えても所詮”今更”だ。
過去に戻れるわけでもないし、今すぐに祖父を捕まえて話を聞けるわけでもない。どれだけ考えてもどうしようもないものなら、考えないほうがいいのではないか。そう思えてきた。
少しは前向きな考えができるようになったかな、と思いながら真紅はゆっくりと思考の海から浮上していく。
「どしたの、真紅? すごい遠い目をしていたけど」
「……なんでもない、少し考え事をしていただけだ」
一緒に待機していた叶へ適当に言葉を返し、真紅は当面の問題へと意識を切り替える。
今は天一と恵理に叶をあわせることができれば、ナイトメアに対する防衛手段も叶たちが考えてくれるだろう。叶と康だけでもできたかもしれない。
そちらは二人に任せるとして、やはり一番の問題は七夜だった。
三日後、正確には二日半だが高嶺の屋敷へもう一度行き、七夜と対峙する。これはすでに決定事項となっていた。
いくら考えたところで、真紅の頭から疑問が消えることはなかった。
――確かに俺は、何かを忘れている。
とても重要な、何かを。
それがわかるというのなら、七夜との戦いも甘んじて受け入れよう。
ふと違和感に気づいてしまった。
今まで敵だと思っていた七夜。殺して、錬の無念を晴らす足がかりにしてやろうと思っていたが、今はなぜか戦うことに戸惑いを覚えている。
馴れ合っているのとは何か違う。そもそもさほど会話らしい会話もしていないし、戦場以外で会ったのは昨日だけ。
あえて言うなら、既視感。
七夜と戦う、ということはあの時が初めてだったのだろうかと、よくわからない疑問が真紅の中を取り巻いて離さない。本社の中以外で、一度戦ったことがあったのではないだろうかと。真紅がまともに戦えるようになったのはここ三、四年の間だから絶対にありえないことだったが、何かがとても引っかかる。
やってきた三人に気づいて、考えることを止めた。
「お疲れさん。でけぇ怪我もないみたいだし、何よりだ」
「そっちこそ、な。結局鷺村さんに見つかったのか?」
真紅の問いに天一は両手を上げて降参のようなポーズを見せた。よく見てみると顔の所々に殴られたような痕がある。さほど深刻なものでもなかったが、気づかないふりをしてやることも大切だった。
「叶、対抗策の打ち合わせはお前に任せる。天、ちょっといいか?」
「んあ? どうした?」
皆から少し離れ、真紅は声を潜める。何があるかはまだ理解していないようだったが、天一もそれにあわせ少しだけ顔を近づけてくれた。
「二日後、ナイトメアの一人と会う」
天一の表情が引き締まるのがわかる。しかし気にすることなく、真紅は淡々と話しつづけた。
「氷室 七夜という男だ。話し合い、ですむとは思わない。もしかしたら死ぬほどの傷を負う可能性もある」
「それをどうして俺に?」
「何か気づいて、手伝わせる形になるのもいやだったからな。今回は手を出さないでくれ」
天一ならどこからか情報を仕入れて援軍に来てしまうのではないか。そう思ったからこそ真紅はこの話を先にした。そうすることでこれが自分自身の問題なのだと伝えるために。
それを理解しているのか、天一は口元だけで笑い、背を向けた。
「わかった。ただ、死ぬなよ?」
「……ああ。わかっている」
まだ少ない付き合いだが、どういうわけか天一とは分かり合える部分が多い。同類、といても過言ではない。
あとは七夜との戦いまで、少しでも自分の状態をよくしておくこと。
いつになく死が間近に感じられるのに、真紅はなぜか自分の中に喜びが生まれていることを実感するのだった。