〔十七話〕 面影
不注意だった。
わかるはずがない、知りうるはずがないと高をくくっていたのが間違いだった。
失われていくのは、日常。
愛美と空を信介に任せ、真紅は一人高嶺家へと向かっていた。
正確には京も一緒にいるのだが、状況を考えてみても一人と考えて問題はない。
「ん……」
寝返りでも打ちたいのか真紅の腕の中で京は体をひねった。それにあわせて真紅も抱えやすいように腕の角度を変えていく。
高嶺家へと向かう途中、京はとうとう疲れきって眠ってしまった。倒れそうになったものの、真紅の腕を抱えていたため大事に至らずすんだが、問題はそこからだった。
最初は力のある信介に京を送ってもらおうとした。しかし信介は、
『がんばってください、真紅様』
と満面の笑みを浮かべて真紅を送り出した。
楽しんでいるとしか思えない。だが一方で信介が高嶺家に彼女を連れて行けない理由も理解することが出来ていた。
信介は高嶺家、いや、企業に属する全ての人間から姿を隠し続けねばならない。朝凪家と関係があった人間は企業やナイトメアたちによって常に狙われていると言っても過言ではなかった。
真紅ならば、当時が子供だった分、ばれない可能性が高い。
だからこそ真紅もしぶしぶ信介を二人の介抱に専念させ、自分は高嶺家へと向かうことになったのだ。
出来ることなら、近づきたくはない場所だ。あの家には、楽しい思い出がありすぎる。
高嶺の屋敷は元々この町にあった。御子柴はいくつもの屋敷を所有しているため当時から屋敷もあったが、そこは別荘のような扱いとなっていた。
屋敷がある場所も、概観も、構造も、全てがはっきりと思い出される。
戻りたい、とさえ思えてくるほどに――
「――やめろ」
自分の心へ、自分の言葉で、制止の声をかける。
これ以上願ってしまったら、叶ってしまいそうで。悪夢を終わらせることなく空たちと共にぬるま湯の世界を歩んでいけそうで。
――どうしようもなく、怖かった。
両腕に存在する心地よい重さと温もり。そっと視線を下げると、気持ちよさそうに眠る少女の顔が自然と目に映った。
叶うものか。
叶ってしまえば、空たちだけではなく彼女まで危険に巻き込んでしまう。
もしかしたら企業側の人間として温情をかけられるかもしれないが、そんなもの可能性の域を出ない。一番安全な方法は彼女に危害が加わる前に、自分の目的を果たすこと。
そのためには、叶の言っていた作戦を早めてもらうほかにはない。
考え事をしているうちに目の前に懐かしい屋敷が姿を現した。
三メートル近くある門と、それより少しだけ低い塀。堀はかなり遠く、左右百メートル近くまで広がっており、その向こう側には林が広がっている。屋敷の周囲に林を生息させているのは当主である荘介の趣味だったはずだ。昔と変わらぬ緑に自然と頬が緩むのを感じて、すぐに引き締める。
少し低くなったような気がするが、真紅は黙って門の前に立ち、京を抱きかかえたまま拳一つ分ほどのボタンを押した。
数秒して脇に設置されているスピーカーからくぐもった声が漏れ出す。
『ここは高嶺家の屋敷でございます。あらかじめご予約されていた方はそのように……』
「ご息女をお連れした。少々トラブルに遭遇なさったため、急遽私がお連れしたわけだが、お屋敷まで連れて行きたい。許可をいただきたい」
昔、父に教わった拙い敬語ながら、少しは伝わったらしい。スピーカーの電源が切れ、
重たい門が音を立てて開き始める。
入れ、ということだろう。スピーカーから流れ出した声は老齢の男のものだった。彼は真紅がこの屋敷に通い始めた頃からすでに老人だった。その頃も無駄なことは一切口にせず、無言で許可を出すだけだった。
横幅の広い道を京を抱えたまま歩き、大きな屋敷の前に立つ。茶色い屋敷は二階まであり、正面の玄関から左右へと十部屋ほどがある。全ての部屋にしっかりとした家具、寝具が設置されているがほとんど使う人間がいなかった。
正面のこげ茶色の扉が左右へと別れる。出迎えのものが来るのも待たずに、真紅は小さな隙間から中へと滑り込み、正面を見据えた。
中は広間になっていた。扇形に左右へと別れた大理石の階段が正面に鎮座している。左右には四つずつ扉が設置され、その先はそれぞれ廊下になっているはずだ。
左右を固めるように使用人の列が二つ、その広間に作られている。
「お嬢様をお連れいただいたとのこと、ありがとうございます。先ほどの非礼をお詫びいたします」
真紅の正面に立つのは白髪混じりの髪をオールバックにして、執事の服を着こなした老齢の男性。頬は痩せこけ、体はしぼんだようにも見えるが、それでもかつての力強さを残しているかのように目には奇妙な輝きが宿っている。
「構いません。それよりも……」
「承知しております」
そういうと左右の列から一人ずつ、体格のいい男たちが歩み出て、真紅の腕の中から優しくその少女を抱き上げた。
少女の重みと温もりがなくなった腕を、少しだけ名残惜しいと思いながらも、真紅はその場で踵を返し、屋敷を後にしようとした。
「お待ちください」
しかし執事はその行動を許そうとはせず、真紅の背に力強い声を向けていた。
「私の用件はこれだけです。急いでいますので、これで……」
「せめて、お名前をお聞かせ願えませんか?」
どうやって切り抜けるべきか、真紅は少し思案した。
無理に名前を偽れば、京がその嘘に気づいてしまうかもしれない。天然だから気づかないかもしれないが、本名を彼らに告げることはどうしても出来なかった。
「……神坂……です」
かといって完全な偽名では、おかしくなる。だから真紅は、祖父の苗字を使った。
「神坂さま……本日は、ありがとうございました」
「いえ、それでは、失礼します」
それ以上の追求を逃れようと、真紅は仕草こそ見せず、だが急いで屋敷を後にした。
――――――
目が覚めたとき、そこは見慣れた自分の部屋だった。
視界の端がちりちりと点滅しているように思えたが、彼女は構わず上半身を起こし、周りを見回した。
何度見回したところで自分の部屋と寸分もたがわない。
「……あれ?」
どうしたというのだろうか。京は首をかしげながらも、ベッドの中から這い出した。
ドアから廊下へ出ると、そこには見慣れた老人の姿があった。
「お嬢様。お目覚めになりましたか」
「千崎さん……私、どうしたんでしょうか?」
老齢の執事は恭しく頭をたれると、京に向けて柔らかい笑みを浮かべた。
「神坂様、というお方がお嬢様を運んで下さいました。先ほど帰られてしまいましたが、お引止めしたほうがよろしかったでしょうか?」
「いえ、神坂さん、ですか」
京の記憶の中にはそんな名前の知り合いはいなかった。ともすればいったい誰が京を連れてきてくれたのか、皆目見当が付かなかった。
「お知り合いではなかったのですか?」
「ええ、どんなお方でしたか?」
「はい。お嬢様と同じ学園の男性でした。短い黒髪と、細身のようでいてしかし筋肉の付いた体。礼儀作法も、この高嶺家に来たにしては萎縮していませんでした。私個人の見解を述べさせていただきますと、彼は普通の学生ではありませんね」
「他に、特徴は?」
今の情報からではやはり自分の記憶の中に一致する人間はいない。
執事は思案するようにひげに手を添えると、思い出したように手を叩いた。
「そうですね。彼にはどこか、懐かしさを感じました。まるで始めて会ったわけではないような、不思議な感覚です」
「……懐か、しい……?」
懐かしいなどという感覚は彼女には久しく覚えのないものだった。
昔の自分は人形のような少女だったと、千崎から聞いている。京はその頃のことをあいまいにしか覚えていないが、当時一人の少年が足しげく彼女の元を訪れていたという。
もしかしたらその人が、とも考えたが可能性は低い。
「千崎さん、一つ教えてもらいたいことがあるんです」
「お嬢様のお願いとあっては、断ることなどできません。いったいどのような?」
「昔、私を助けてくれた人はいったいどのような方だったのでしょう?」
千崎が知らぬはずがない。当時の彼女にとってもっとも近い人物であり、その少年とも必ず接点があるはずだ。
しかし千崎は何かを迷うように視線をさまよわせ、京と視線を合わせようとしなかった。
何か言いにくいことを抱えているときの、千崎の癖だった。
「千崎さん? いったい、その方に何があったのですか?」
「っ! お、お嬢様……それは……」
「お願いします、千崎さん。私、どうしても知りたいんです」
京の熱意に根負けしたのか、千崎は深く溜め息をつき、諦めたように口を開いた。
「彼は、そうですね、明るくて他人の暗い顔を見るのがとても嫌いな方でした。子供ながらに他人の痛みをわかっていたのかもしれません。よくお嬢様の部屋にお友達を連れてきては、楽しそうに話しかけてくれていました。お嬢様は覚えていらっしゃらないんでしたね?」
京はただ頷くことしかできなかった。
自分の記憶にはない空白の自分。自分が自分ではなかった頃の思い出を千崎はまぶしそうに目を細めながら語っている。
もしその少年がいなかったら、今の自分は存在しているのだろうか。
それとどうして千崎がその話をすることにためらいを覚えたのか、京にはわからなかった。
「その少年は、今どうしているのですか?」
今度こそ、千崎は絶句していた。その質問だけは聞きたくなかったと言いたげな空気の中、けれど京は答えを聞かずにいられなかった。
「……お亡くなりになったと、聞いています」
「……え?」
「数年前に、事故で。一家全員が亡くなり、家人たちも暇を出されたと」
恩人が、顔も名前もわからないまま死んでいた? その真実を受け入れがたく、京はいやいやをするような子供のように頭を左右へ振る。
「本当に? その方は亡くなってしまったのですか?」
「戸籍上は、ですが。事故自体が大規模のものでしたのでご遺体は見つからなかったのですが、その方のご両親の遺体が見つかったことから彼も生きてはいないだろうと警察の方々は判断されたそうです」
千崎の声は勤めて平静を装っている。だがその中には微かな揺らぎと、奇妙な期待が籠もっているように思えた。
その理由を問いただそうとしたとき、彼はしかし、と続けた。
「私は正直、彼が死んだとは到底思えないのです」
「どういうこと、です?」
「先ほどの彼、お嬢様を連れてきてくださった方ですが、本来なら警戒すべき対象でした。ですが、もしかしたら彼が、あの時の少年ではないかと警戒を緩めてしまっていたのです。生きていたら、立派に成長してくださっていたら、あんな姿をしているのではないかと……私の願望でしかないのかもしれませんがね」
自嘲気味に笑う彼の表情は実年齢に近づいたのではないかと思えるほど老いて見えた。昔を懐かしみ、そこに救いを見出しているような、優しい笑顔。自嘲的なものだったとしても、そこには安らぎがあった。
「お嬢様、これからお話しすることは、出来ることなら荘介様にはお伝えしないでいただきたい」
京は無言で頷き、先を促した。
「少年は”神坂”と私に名乗りました。少年は気づいていないかもしれませんが、私は”彼”の祖父と懇意にさせていただいておりまして、その名をよく覚えております」
話が見えてこない。遠回りに何かを伝えようとしているのかもしれないが、あいにくと予備知識も何もないためその意図ををくんでやることが出来ない。
「”彼”の祖父は神坂 黒陽と名乗っていました」
「それは……どういう」
「偶然、ではないでしょう。彼にとってこの高嶺家は”敵”と判断すべき場所です。本名を告げられないのも、当然でしょう」
半ば確信を持って、千崎は京へと言葉をつむぎ続ける。
けれどその内容は安易に教授できるほど優しくはない。
どういうことだというのか。
恩人と高嶺家が敵? 本名を名乗れないほど?
疑問が彼女の思考を支配していく、それすら予想していたかのように千崎は笑みを深め、彼女へ優しく語り掛ける。
「ご安心ください。彼は警戒心こそ持っていましたが、私たちに危害を加えようとは思っていないようでした。あんなことがあったのに、未だに昔と同じ目をしていましたよ。」
「千崎さん……」
混乱している京の頭にしわしわの手のひらが優しく触れる。
人形ではなくなってからの京は、小さな頃よくこうして千崎に慰められたものだった。
祖父、といってもいいほど彼女にとって千崎は大切な存在となっていた。
「本当は、知らないほうがよかったのかもしれない。だからこそ彼はお嬢様に何者かを知らせず、それでも気遣ってくださったのかもしれません。ですが、私はあなた方の未来に、後悔という念を残してしまいたくはありません」
だから――
――だから、どうかお許しください。
千崎はここにはいない誰かに語るように、声にならないほど小さな声でその言葉を解き放った。
「……京お嬢様。あなたを救ってくださった、少年の名を今ここで明かさせていただきます」
拒絶したいならそうしてください。彼の瞳は京にそう語りかけていた。
だが、京がそれを恐れては、本当に取り返しの付かないことになりそうで、そして彼女自身その人の名を知りたくて――
――違う。
本当は、わかっていた。
――予想していた。
出会ってからずっと、彼女のことを気にかけてくれていた人。
――その答えが返ってくることは。
優しいのに、少しだけそっけなくて。
――霞がかかった記憶の中で、笑顔を向けてくれた人。
でも結局、冷たくなりきれていなかった。
――優しさを捨てられなかった人。
「少年の、名は……」
朝凪 真紅。
珍しく大量に書きましたが、まぁ結構重要な内容なんでいいかなぁ、とか思ってるしだいです。
こんちわ、広瀬です。
執事の名前とか適当に付けたつもりだったんですが、まさか何気に重要ポスト。やべぇ、もうちょっとちゃんと決めるべきだった、と少し後悔。機会があればもっと詳細な設定とか、真紅の爺さんとのやり取りとかを取り入れていきたいですね。
ともかく、真紅の正体がバレたわけですが、これからの京がいったいどんな行動に出るのか。ようやく予定通りに話が進んでいく予感……。
それでは次話、明日明後日にはUPしたいと思います。ではでは〜〜。