〔十六話〕 和菓子の悪夢
和菓子としては失敗作。
けれど策略の中では大成功と言わざるをえない。
自身よりも相当に年をとっているその男に、少年は頭を悩まされる。
お詫びの和菓子を四人が受け取り、間食した後、それは起こった。
和菓子自体はほどよい甘さとすっきりとした後味が真紅にとっては好みの味で、もう一つくらい無理を言って作ってもらおうかなと思えるほどの逸品だった。
ただ、なぜこれが正規のメニューとして用意されていないのか、真紅には皆目見当がつかなかった。
だが目の前の光景を見る限りでは、確かに正規のメニューにしないはずだと納得するしかない。
「……だぁからぁ! おばかなしんくぅには、わっかんないんでしょぅよ!」
呂律の回らぬ舌で真紅に罵声を浴びせる愛美。しかしその瞳は真紅を映しているわけではなく、目をむいて口から変な煙を吐き出している空に向いていた。
残った京は真紅の隣に移動して、瞳を潤ませたまま制服の袖をそっとつかんで離さない。
一人だけ、素面を守り続けている真紅はただただため息をつくことしかできなかった。
あの和菓子が正規メニューにならない理由、それはアルコールの成分量が極端に高いせいだろう。
最初に異変が現れたのは、空だった。
たった一口、舐める程度しか口に入れていないはずだったが、空の顔が一瞬で赤に染まり、ボンッと漫画のような爆発音を上げて動かなくなった。不審に思って空を気遣っているうちに残った二人は和菓子を食べきってしまい、足取り不確かに歩み寄ってきた愛美が真紅をつかもうとして、間違えて空の首根っこをひっつかみ、説教を始めた。その惨状を逃げ出そうとした真紅の制服を、今度は顔を真っ赤にした京がその細身に似つかわしくない怪力でつかみ、離そうとしなかった。しきりにごめんなさいと謝罪してはいるものの、恐らく心はこもっていないだろう。
結果、和菓子を少ししか食していない真紅だけが、平静さをもってその場に取り残されることになった。
「……すいません、店員さん。店長、呼んできてもらえませんか?」
「え? あ、は、はい! 少々お待ちください」
惨状を目にして一瞬だけ放心状態に陥っていたウェイトレスが、しかしすぐに復活して、急いで店の奥へと駆けていく。
口の端から白い煙を吐き出している空。怒鳴り散らすように説教を続ける愛美。小さな子供のように真紅の袖を握り締めている京。この状況を、いったいどうやって打破しろと言うのだろうか?
ナイトメアと戦うよりも、正体を知られないように策略をめぐらせるよりも、こっちのほうがよほど難しいものなのではなかろうか。
文字通り頭を抱えていると、信介がエプロンを着けたまま座敷へとやってくる。
「どうしましたか、真紅様!」
ウェイトレスの慌てっぷりからただ事ではないと感じたのか、言葉遣いが昔のものに戻ってしまっている。しかし、今はそんな些細なことを気にしているほど余裕もなかった。
「信介! この和菓子、酒入ってるだろ!」
「あ……あぁ、そういうことですか……すいません、やはりアルコール濃度が高すぎて……」
「御託はいいんだよ! さっさと何とかしてくれ」
言っているうちに愛美は動かなくなった空の頬をぺちぺちと軽くひっぱたき、京は袖だけではなく腕全体を抱え込むような形で真紅を逃がすまいとするかのように目を潤ませている。
真紅一人の力でどうこうできる状況ではないのだ。
しかし信介は平然と笑みを浮かべ、真紅の肩にそっと手を置いた。
「……大丈夫ですよ、真紅様。この信介にお任せください」
「いい策があるんだな?」
「えぇ、少々お待ちください」
恭しく頭をたれ、信介は座敷を後にする。その背中は真紅の目にはとてつもなくまぶしく映り、少しだけ、ほんの少しだけだが信介を見直してしまった。
少しして三人の行動も―空は最初からだが―少しずつ沈静化の色を見せ始めた。愛美も京も目が虚ろになってゆき、空の顔色も青を通り越して白へ……。
「って、空! おい、しっかりしろ!」
慌てて立ち上がろうとするが腕をがっちりと固められているため、立ち上がることすらままならない。
引き離すにしても乱暴なことはできないため、真紅は小さく舌打ちをもらした。
流石にあの顔色は危ない。
真紅の本能が危険信号を鳴らしている。青白い、とすらいえないほどの白さは死人の顔色だ。見慣れた端正な顔にも妙な汗が浮かんでいる。
愛美にどうにかしろと言ったところで無意味だろう。
早く来い、と念じた瞬間、巨体が座敷へと突っ込んできた。
「真紅さまぁぁ! 一般の客は全て帰っていただきました、これで思う存分に宴会が出来ますよ!」
「どうにかする方向が違うんだよ、脳まで筋肉が!」
空いていた右腕で巨体を殴りつける。半身を固定されているためか、威力はそれほどでもなかったが、信介はすいませんと雄たけびを上げて盛大に壁にぶつかっていった。
自分の店ではないが、建物は大丈夫なのかと不安になった。
体制を立て直した信介は思いのほか迅速に行動を始めた。空を捕まえていた愛美の手をそっと離し、代わりに自分のつけていた白いエプロンを握らせて、空に活をいれる。意識こそ取り戻してはいないものの、空の表情は少し血色をおび、呼吸も安定を始めたようにも見える。
残った問題は真紅の腕に絡みついている京だったが、信介は豪快に笑い、『役得ではないですか』と見当違いな答えをよこすのだった。
「……さて、真紅様は和菓子を食べていないのですか?」
「いや、少しは口にした。食べ終える前にこんな状況になってしまったからな、食べてないのも変わらないんだが……」
「そうですか……なんだかんだ言っても、お強いじゃないですか、真紅様」
「はぁ?」
言っている意味がいまいち理解できない。その感情が露骨に出ていたのか信介は肩をすくめ、口元を半月に歪めた。
「申し訳ありません。少し御用がありまして、わざとアルコール濃度を高くしました。真紅様なら大丈夫だろうと判断したしだいですが、こんな状況になってしまうとは。私の不注意です」
そういえばやけに早い対応だった。
客を帰すなどそうそうできることではない。飲食店としては簡単に許せるものでもないだろう。
考えられるのは、最初からこの状況を予想し、いつまでには帰ってくださいと客に言っておいたということ。
「……いつから、考えていた?」
――それも、真紅たちが来るよりも早くから。
「……御子柴様から、本日こちらに来ると聞いていましたから」
予想通りの答えに深々と溜め息を吐き出した。
「最初から、あいつの悪戯につき合わされてたってことか」
なら死にそうになってるその姿も、かわいそうだとは思わない。むしろその顔面めがけて踵落としをきめてやろうかと、どす黒い感情を抱きそうになってくる。
「本当に、申し訳ありません。覚悟はしていたつもりでしたが、感情を抑えられなくなるなど何年振りでしょうか……」
「いや、お前は気にしなくていい。とりあえずこいつらを帰らせるの、手伝ってくれないか」
「承知」
愛美と空を両肩に一人ずつ乗せる信介を見ると、どうにも犯罪者にしか思えなくて、真紅は少し苦笑をもらした。
「真紅様、この状況だからこそ、一つ質問させてください。その少女、高嶺 京様を利用すればあなたの目的はすぐに達成できるでしょう。なぜ、その手段を講じないのですか?」
信介の言葉は、状況を中途半端にしか知らないにしても真を捉えていた。
高嶺家の内部へ潜入を計れば、確かに企業の裏側を探ることもこちらから攻めることも可能になるだろう。そのために京を足場として使えば、当主は絶対に手を出さない。娘のためならば自分の命だろうと捨てられる男なのだ、高嶺家の当主、高嶺 荘介は。
しかし真紅は信介の大きな瞳を見据え、首を横に振った。
「……その手は使えない。高嶺家を巻き込むつもりはない。確かに高嶺の当主、荘介さんは親父たちの仇といってもいい人物だ。だが……」
「はぁ……まったく、あなたらしい。わかりました、これ以上は何も言いません」
呆れた、というよりは安心したという声音。信介も高嶺家に仕掛けるなどという考えは冗談だったということだろう。
腕をつかんでいる京は話の内容などまったくわかっていないように、くりくりと目を輝かせている。
酔ったら幼児帰りでもするのだろうか。彼女の瞳はかつての、真紅を信頼し、頼っていた頃の彼女のものに戻っているようだった。
少し前にも思ったことだったが、彼女の中には昔の彼女も残っているようだ。自分では何も決められず、親の言いなりになって人形のような少女。
子供の頃はかわいそうだと思って、たくさん話しかけ、笑わせて、彼女にとっても真紅にとっても充実した日常を送ることができていた。
だからこそ、幸せに過ごしてほしい。
血なまぐさい世界など知らず、聞かず、安穏と流れ行く日常の中で、友人と、恋人と、命尽きるその日まで幸せに。
それが真紅の”本音”だった。
なんだかんだと理由をつけてみたところで、意味などない。本当なら空や愛美にもこんな世界に足を突っ込んでほしくなどないのだ。
結局、真紅は非情になりきれなかった。目的を達成するために他の全てを犠牲に出来るナイトメアとは違うのだ。
「どうしました? 早く連れ帰ってあげなければ、その子、仕舞いには全身を使って抱きついてきますよ?」
「……あまり不吉なことを言わないでもらいたいんだがな」
一つ、思い出したことがあった。
今でこそ悪戯小僧、ムードメーカー的な位置にいる空だが、元からそんな性格だったわけではない。
この、目の前にいる巨漢が空の性格の一端を形作ったのだ。
さまざまな技術を与え、知識を与え、実践し、そうすることで今の空を作っていった。
ともすれば悪戯、策略などが異常に手の込んでいるものであってもおかしくはない。そして他人の不幸を楽しむ性格も変わっていない。
楽しそうに笑う信介に、また頭痛を覚え、けれど真紅は京を引きつれて立ち上がったのだった。
お久しぶりです、広瀬です。
どこが悪夢だよ! とお怒りの方もいらっしゃるかもしれません。しかし、回りみんなが酔っ払っているのに自分だけ酔えていないというのは本当に悲しくて……。
そんな話は端っこに振り払っておいて、次話です。
次話、いよいよ高嶺家に顔出し。
『お父さん、娘さんを僕にください!』
『貴様なんかにやれるわけがなかろうが!』
という会話が……。
――あるわけないっす。
ともかく、出来るだけ早く更新できるように精進していきますので、ご期待ください。