〔十一話〕 感情と罪の意識
少年は自身に悩み、男は罪に押しつぶされまいと抗う。
かつての友。そこにどれだけの意味があるのか、少年はまだ知らない。
自分自身の感情をコントロールできなくなったのは、真紅にとっては初めての体験だった。
昔から両親の忙しさを理解していたためか、子供らしい我が侭も言ったことがなく、空や愛美、京のお守りをする立場にあった。ませているといえば聞こえがいいかもしれないが、喜ばしくは無い。子供らしさもなく、他人ともほとんどコミュニケーションをとっていなかった。
人間として何かが欠落していてもおかしくない。
「おい……さっきから、何ボケェッとしてんだよ?」
真後ろの席からかけられた不機嫌な声に、現実へと引き戻される。授業中なので真紅の様子などほとんどわからないはずなのにどうしてわかったのかと真紅はかすかな疑問を抱いた。
「……授業中に呆けているのはお前も一緒だろうが」
「お、言うねぇ。否定できないけどな」
あの後、二人の喧嘩を何とか仲裁した真紅は、すぐさま教室へと戻り睡眠を開始した。空たちが何か言うのも聞かず、自分を落ち着けるために。
空たちを子供だと考えていたが、自分自身のことで悩むなど子供の証なのかもしれない。
「まぁた変なことで悩んでんだろ、お前は」
「どうして、そう思う?」
「そりゃ、今までの経験とカンから」
伊達に付き合いがながいわけではない、ということか。真紅が空のことをわかると同時に、空もまた真紅のことをよく理解している。それが嬉しいと思ってしまう自分に気づいて、真紅は空に背を向けたまま小さな笑みを漏らしていた。
空の言うとおり確かに真紅は意味の無いところで悩む癖があった。それら全てが無駄なものだとは思えないが確かに自分でも無駄だと自覚している。
平静を装って、後ろへと小さく声を投げる。
「変なこと、というのは心外だな」
「はは……しゃべってみろよ。誰も聞いてないからさ」
確かに、誰も聞いていないかもしれない。ちらりと覗くと愛美は爆睡しているし、京は教師の声を熱心に聴いている。
迷いはすぐに消え、自然と口を開いていた。
「……お前は、感情を抑えられなくなる時があるか?」
「はぁ? 当たり前じゃねえか、そんなの。人間なんだから」
人間なんだから。その言葉が酷く緩慢な響きとして鼓膜を揺さぶる。
人間とはいったい何なのだろうか。
感情を抑えられなくなるのが普通。誰かと一緒にいるのが普通。人が恋しくなるのが、普通。
それが人間だというのなら、叶や錬のほうがよほど人間と言えるのではなかろうか。
「感情なんて不確定なものを分析しようとしても無駄だろ。悪い癖通り越して病気だな、ほんと」
「……お前に説教されるとは、ほんとにヤキが回ったかな」
不服そうな表情が背中越しでもよくわかる。だが言葉とは裏腹に、真紅は空に少しだけ感謝していた。
言ってほしいことをズバッと言い放ってくれたおかげで、真紅の悩みは中和されていく。
他の誰が同じ言葉をかけてくれたところで真紅の中に影響を与えるとは思えない。空だからこそ、祖父と二人きりになったときに支えてくれた彼だからこそ真紅の心を大きく揺さぶることになったのだ。
「……ありがとう、空」
聞こえないほど小さく、独り言のような呟き。それでもしっかりと伝わっていたのか、背中で笑ったような気配があった。
考えたって仕方が無いことだという空の考え方には素直に敬意を払う。真紅のような考えなければやっていけない、細かいことにまで疑問を抱いてしまう人間にはその考えは羨ましかった。
その思いは真紅だけが抱えているものではないだろう。空だって、きっとそうだ。
考えなしに突っ込むところが空の悪い癖だ。暗殺者の奇襲を逃れるためには、あまりいいものだとは言えなかった。今まではそれではやってこれたようだが、これからは少し真紅の考え方を教えなければならないだろう。
弱点を補うには互いの存在が必要不可欠だと真紅は考えている。真紅の慎重さと空の大胆さ。二つがあってこそ、もっと多くのことをやり遂げることができる。
無論、愛美の存在も忘れたわけではない。愛美は―――
「マスコット、だな」
「ん? 愛美のことか?」
それだけで通じてしまうほど、なのか。
愛美の存在を少し哀れに思いながらも、真紅は窓の外へと視線をめぐらせる。
風になびく緑豊かな木々。まぶしく輝く日の本の世界は、平和で、安らかで。
真紅の悩みなどちっぽけなものだとでも言いたげに、緩やかな時を刻み続けているのだった。
――――――
怠惰が許される人間は、実はそれほど多くは無い。
自分の仕事を成し金を稼いでくる人間はもちろんのこと、子供でさえ飢餓によって自分で食物を捜しに行ったり、盗みを働いてでも生きようとするものもいる。
日本のように優しい時間が流れている世界でも、つらい現実が存在している。
「……ぐっ……がはっ! ごっ、げっ……」
中身を吐き出そうとしても肝心の中身すら底を付き、胃液のみを吐き出す。体が異常な痛みを訴えているであろうに、その男は苦痛の声こそ上げるものの屈服しうる気配をまったく見せてはいなかった。いや、もう感情そのものが死んでしまっているのかもしれない。
その姿を目にして、彼は下唇を噛み、耐える。
目の前で繰り広げられているのは、どう考えても人間が人間を拷問している光景でしかなかった。
肉に食い込むほど強く鞭を叩きつけ、すでに折れている足の指をもう一度、一本ずつへし折っていく。悲鳴が聞こえていないのか、それを行っているスーツの男は眉一つ動かすことなく、作業のように拷問を続けていく。
足の次はどこなのだろう。手か? 腕か? 耳か? 鼻か? いっそのこと苦しませずに殺してやることが、人間としての慈悲なのではなかろうか。
彼は、ガラスの向こう側で行われるその行為から、目を逸らした。
「おや、趣向に合わなかったようですね。大変失礼をしてしまいました」
恭しく頭をたれるスーツ姿の男に、彼は心の中だけで舌打ちをもらした。
拷問部屋の隣に設置されている監視室。そもそもの目的は拷問中にもらした言葉を聞き逃さないよう誰かが配置されるために作られている部屋だったが、今は目の前に立つ男の、一種の娯楽施設に変わっている。
他のメンバーと同じように黒のスーツを身にまとい、サングラスを胸のポケットに差し込み、右耳には獅子の顔を象ったピアスがつけられている。髪形はオールバック。身長は百七十後半といったところだろうか。一見して細く見えるものの、スーツの下にはがっちりとした筋肉が付いている。
目元に浮かんだ恍惚の笑みは、ガラスの向こうで繰り広げられている拷問へと向いていた。
フォースナンバー、烏丸 聡司。
彼らの中にある序列。その中で四番目に強いと言われているこの男は組織内でも大の拷問好きで有名だった。
「構わん。それよりも、私を呼び出した理由を述べてもらいたいのだが?」
不機嫌なのを隠そうともせずに、彼は聡司へと言葉を吐いた。機嫌を損ねようと別に問題ではない。聡司よりも彼のほうが立場は上なのだ。
聡司はくすりと笑い、口元を吊り上げる。
「申し訳ない、お忙しいのでしたね」
申し訳ないとは微塵も思っていない口調に気を悪くすることすら面倒で、彼は鼻を鳴らす。
「構わんといっている。早く用件を話せ」
「では……昨日、私の部下がある山脈の周辺で消息を絶ちました」
彼らの中で消息を絶つといった事例は、ここ数年では聞いたことが無かった。
「……朝凪 真紅および神坂 黒陽の捕縛、もしくは殺害が彼らの目的だったのですが……何かご存知ありませんか?」
「私が、か? なぜ知っているというのだ、暗殺は私の管轄ではない」
感情など一切見せず、彼は聡司を射すくめる。聡司は小さくため息をつき、左右に首を振った。
「いえ、あなたは朝凪 白羽殿の古い友人でしたので、何か知っているのではないかと思いまして」
「その名を口に出すな。あいつは、私たちを裏切ったのだぞ?」
その言葉に何を感じたのか、聡司は今度こそ諦めたように息を吐き、深々と頭をたれた。
「申し訳ありません、あなたを疑っておりました」
今度の言葉には本当に申し訳ないという響きが混じっている。だがそれもほんの少しだ。完全に警戒を解いたとはいえないだろう。
辟易して、彼は背を向ける。聡司も用が済んだのか、彼を止めようとしない。
狭い部屋を出て、細く薄暗い通路を通ってエレベーターに乗る。地下十階と表示されたプレートに目を向けた後、十個のボタンが電話のように配置されているプレートに手を添えて三十二と入力する。目の前のドアが閉じ、かすかな浮遊感と共に彼は目指す場所へと飛翔していく。
途中一回も止まることなく、彼は目的の階にたどり着いた。
当然のこと、このエレベーターはほとんどの人間が使うことを許されていない。あるIDを使用しなければ起動しないようになっているのだ。
すれ違う社員と軽く挨拶を交わし、昼の陽気の中、自分の部屋へと足を進める。『3201』と書かれたドアの前で立ち止まると、懐からカードを取り出して縦のコードリーダーに通す。すると軽快なメロディーと共に鍵の外れた金属音が鳴り、ドアをくぐった。
室内は一介の会社員には考えられないほど大きなもの。ドアから入った正面には座れば側面を見せる二つのソファーと、それに挟まれるようにガラス張りの小さなテーブルが設置されている。ソファーの向こう側には職無用に設置された木製の高価な机、何かの皮で作られた椅子が鎮座している。そこに座った場合、背後の壁はガラス張りで、立ち上がれば高所恐怖症の人間によくないものが見られることだろう。
彼はそれらに座ることなく、ドアに背を預け、深々と息を吐き出した。
「……朝凪 真紅、か」
かつて共に気高い志を抱いていた親友の苗字。自分の娘を、壊れかけた少女を優しさで癒してくれた少年の名前。
彼が襲撃を受けたことは、少し前に知った。まさか神坂の老人と一緒にいるとは思わなかったが、自分がかくまうよりはずっと安全だったことも確かである。
親友の置き土産を自分が助けてやりたかった。それが彼の本音だった。
確かに企業にとっては裏切りと同じことをしたかもしれないが、白羽のやったことは人間として全うな行動だった。裏で行われている悪事を告発し、平和な世界を。それが二人の希望だったのだ。
だが自分は汚れてしまった。いつの頃からか自分も悪事に手を染め、その味をしめていた。
白羽の死によって目が覚めたものの、とき既に遅し。白羽を、親友を殺したのは彼だと言われても何の反論も出来ないほど彼は深く、企業の闇に飲み込まれていた。
「いまさら……いまさらだ。許しをこうことすら、私には出来ない」
暗殺から七年。
彼は罪を背負い、死ぬその瞬間まで償いを続ける。
「失礼します。高嶺さま、いらっしゃいますか?」
背中に響くノックの音と共に、女の遠慮がちな声が聞こえてくる。
「……少し待て。今開ける」
そうして彼、高嶺 荘介は罪悪感に苛まれながらも通常の業務に戻っていくのだった。
お久しぶり(?)です、広瀬です。
今回初めて出てきました『高嶺 荘介』読み方は『そうすけ』です。書き漏らしたんでここで読み方を。あと烏丸は『からすま』と読むらしいです。名前のほうは『そうし』めっちゃ似てますね。
企業の内部に話を入れてみたわけですが、まだまだ学園偏は続きます。ええ、そりゃいつ終わるんだよってくらいまで続きます。
……がんばろう。






