〔九話〕 それぞれの意志
亡き人に誓った約束。
戦い続ける決意。
そして、少女の思い。
少年の知らぬ場所で、物語は回り続ける。
朝倉 叶にとって、工藤 錬はたった一人自分を理解してくれる人だった。
失敗作と罵られ、人一倍戦闘訓練を強いられ、暗殺ではなく自衛の手段を多く学ばされた。当時の幼かった頃の彼女はその扱い全てに劣等感を感じていた。
自分は誰にも必要とされていない。自分の存在など、あってもなくても変わりはしない。
その感情は、彼らには絶対に沸かないものだっただろう。戦うために作り出され、殺すために生き続ける。それが彼らの大半が強いられた、運命だった。
そう考えてみれば自分は幸せだったのではないか。現在の叶はそんな風に思っている。
自分に絶望し自殺を試みたとき、彼は現れた。
『むやみやたらに自分を棄てようとすんなよな』
支給されていた短剣を自分の胸に突き立てた。彼女は確かにその行動に及んでいた。しかし彼女の腕から短剣は姿を消し、代わりに目の前に現れた少年の手の中へとその身を委ねている。
少年は自分と同じくらいの年。当たり前か、と叶は考える。自分たちの大半は同時期に作られた。ならば年が近くてもなんら不思議はない。
腰ほどまで伸びる黒の髪と、利発そうな顔立ち。背は自分よりも少し上で、その瞳はうっすらと青みがかっている。
叶は少年の瞳を見上げ、睨んだ。
『あなたも、私を見下すの?』
声は震えていたかもしれない。怖いわけではない、ただ全身を取り巻く劣等感が気分を酷く沈ませていた。
『何で? 君を見下す理由が俺にはないよ』
不思議そうに首をかしげ、叶を見つめるその瞳には一切の偽りが感じられない。優しさに満ちたその蒼は、海のような安らぎを与え、叶の全てを包んでいた劣等感はいつの間にかどこかへ消えてしまっていた。
海なんて、叶は見たことがない。知識として知っている程度だった。それでも、彼の瞳は知らないはずの海を連想させ、包まれるような安らぎが彼女を暖める。
『君は強い。俺たちの定義が強さだというのなら、君はナイトメア以外の何者でもないよ。何か言うやつらなんて気にするなよ。君の強さに嫉妬しているだけなんだからさ』
『……でも』
『むぅ……じゃあさ、俺と友達にならないか?』
友達。そんなものここでは存在しない。彼らに個人の意思など必要とされず、個性など壊される。
けれど少年は叶の微笑み、右手を差し出す。左手に持っていた短剣は気づかぬうちに少年の後ろへと投げられていて、トスと軽い音が響いた後、何かが倒れたような重たい音がその場に響いた。
だが少年はそんなことは気にするなとでも言いたげに笑顔を浮かべている。
笑顔など、彼女は一度も見たことがない。その安らぎに導かれるように、叶は少年の右手をやさしく握っていた。
『よし! これで俺たちは友達だ。困ったことがあったら何でも言ってね。俺の手が届く範囲で、助けるから』
それが――
――それが、少女の初恋だったのかも知れない。
――――――
懐かしい夢を見た。
まだ錬が生きていたころ、初めて出会った場所の記憶。忘れられるはずがないし忘れるつもりも毛頭ないが、彼がいないという現実に向き合うとどうしても胸の奥が軋むような感覚に襲われてしかたがなかった。
「……大丈夫だよ、錬。あなたの願いは、私が引き受けたから」
自分にもしものことがあったら、真紅を頼む。それが錬の残した最初で最後の願いだった。
叶からはいくつもお願いをしたことがあった。些細なことから大きなことまで、本当に数え切れないほど。それでも彼は文句を言わず、むしろどこか楽しそうに叶の願い事を叶えてくれる。
だからせめて、たった一つの願いくらい叶えてあげたい。
恩返しといえなくもないが、叶にとっては彼女が生きる最後の理由でもあった。
心の支えを失った人間は、弱い。七年前、錬を失った頃の彼女は抜け殻のような状態だった。
上層部の人間にその姿を発見されていたなら、確実に処分されていた。その危機を救ってくれたのが、昔から彼女を教育していた男だった。
彼は自らの命と引き換えに、叶を施設の外へと逃がした。今思えば、彼が叶に厳しく当たったのは、叶が自分一人でも生きていけるように、未来を見越してのことだったのかもしれない。
「いくら考えたって、死んだ人は帰ってこない」
自分に言い聞かせる。
悲しんだところで、悔いたところで死人は蘇ったりしない。それを痛いほどわかっているから、叶は前を向いて進んでいく。
「朝倉先生。資料出来上がりましたので、明日、生徒たちに配布してください」
「あ、わかりました」
温和な笑顔を浮かべ同僚の教師をやり過ごす。
教師たちの間では、叶は優しく、とても面倒見がいい人で通っている。愛想を振りまいて善良な行動を心がけていたのだから当然かもしれないが、叶にとっては動きやすい環境が整っていた。
今の叶なら誰にも気づかれることなく、自由に行動することが出来る。組織に気づかれなければきっと、真紅の手助けも出来るはずだった。
「今、私に出来ること……それは、戦うことじゃない」
少なくとも今はまだ、武器を取り戦う時ではない。
実際に戦うのではなく、後ろから共に戦う。真紅の存在を敵側から隠し通す。それが真紅のために出来る、最高のアシスト。
職員室にある自分の机に向かい、ノートパソコンを立ち上げる。小気味よい起動音を響かせて、真っ青な海の壁紙が顔をのぞかせた。
澄んだ海の色は錬の瞳と同じ色。その色が大好きで、叶はずっとこの壁紙を使っている。
ソフトを起動させ、ネットに繋げる。
誰もいなくなった職員室で不気味な笑みを浮かべる。戦わなくなって六年ほどになるが、彼女の新しい娯楽がこれだった。
ハッキング。スリルももちろんだが、さまざまな情報を入手し、利益を得ることで彼女は生き残ってきた。
今、彼女がしようとしているのは情報操作だった。かつて彼女を苦しめていた企業の、裏情報。そこへ真紅の情報をあげていく。
もちろん根も葉もない嘘だ。そうすることで真紅の発見を遅らせ、こちらに有益となる情報を入手する。
彼女の戦いは、すでに始まっているのだった。
――――――
珍しいこともあるものだ。
我が目を疑いながらも、空は客間にある大きなソファーの元へと足を向けた。
ふかふかなソファーに身をゆだね、無防備な表情で眠りこけている真紅。人前で眠ることなでほぼありえない彼の、久々に見る寝顔は優しくてどこか幼さが残ったものだった。
昔、一度だけ見たことがあるそれとは、似ているけれどどこか違う。つらいことをたくさん抱えて、それでも前に進んだからボロボロになってしまった。心に刻まれたたくさんの傷が真紅の裏側にある。空はそれを改めて理解した。
空の場合、強くなりたくて自分を鍛え、立場上やってくる刺客を倒していくことで自分の力を理解していった。
けれど真紅の場合は違う。戦わなくてはならなかった、殺さなくてはならなかった。優しい彼には、本当に酷な運命だったと思う。
「……人の顔見て何してんだ、空」
半眼を開き、不機嫌そうに欠伸をもらし、真紅は目を覚ました。
「こんなとこで寝てたら風邪ひくんじゃないかな、と思ってよ」
「誰のせいでここまで疲れたのか、わかってるか?」
「まぁ……悪かったよ。寝起きだったし、俺も混乱してたんだ」
「……あれは、寝てたっていえるのか?」
笑ってごまかして、真紅に背を向ける。客間を抜けたその足で空はいつもの場所へと向かった。
敷地内にある、鍛錬場。十人くらいなら楽に鍛錬が行えるその部屋は、両親に頼み込んで作ってもらったもの。木造の床に裸足であがり、部屋の隅に置いてあった重しを両腕と両足に取り付ける。合計で、何キロだっただろうか。記憶にはないが、少なくとも一つ十キロはあるだろう。
それをつけた状態で自由に動けるようになる。当初の目的はそれだった。
だがそれだけでは、真紅に追いつけない。もっと強く、もっと上へ。
空の強さは学園の人間たちには最強とたたえられていたが、空自身は納得などしていない。真紅は、もっと強い。それは死線を潜り抜けてきた数だけではなく、意志の強さ、心の大きさが関係しているのだ。
身も心も、強く。
空に出来ることは、真紅の足手まといにならないこと。ただ、それだけだった。
――――――
「それでは、失礼します。お父様」
優雅に一礼して、京は父の部屋から退室する。
呼び出された用件は最近の学園生活について。何か変わったことや、困ったことはないかという質問だった。
転校生が来たこと以外はさして変わったこともなかったため、京は特にありませんと返答した。父もそれでよかったのか、一つ頷いただけで彼女に退室を促したものだ。
長い廊下を渡り、自室の扉をくぐって小さく息をつく。
京の自室は大きなベッドと姿見、机以外はほとんど何もない。床に敷かれた高級な絨毯のおかげで何もないという印象は薄れていくかもしれないが、彼女自身、自分の部屋は味気ないものだと思っている。
その中でも唯一愛着があるものへ、京は手を伸ばした。
いつ、どうやって手に入れたのかすら覚えていない小さなネックレス。四葉の形をして、緑色の石を中央にあしらったそれは、高価なものではない。
でもなぜだろうか。小さすぎて首に入らなくなってからもチェーンを取替え、手入れを怠らないよう心がけ、肌身離さず身につけている。唯一、父の前でだけはネックレスを部屋においていくのだ。父はどういうわけか、そのネックレスをつけていると悲しそうな、悔しそうな表情を見せることがある。その顔が見たくなくて、彼女はその一時だけネックレスと別れを告げる。
机の上からネックレスを取り上げ、胸に抱く。これが身近にあるだけで、京は言い知れぬ安らぎに包まれる。
「……何なんだろう?」
ふと転校生のことを思い出す。彼、朝凪 真紅はどこかこのネックレスと似た感情を京に与えていた。
彼はどこか、懐かしい。
懐かしいはずなどないはずなのに、彼と言葉を交わし、近くにいるだけで安らぎを覚えることが出来た。
これが一目惚れなのだろうか。恋愛には疎かった京には、そんな考えが浮かんでいた。
「お嬢様。お食事の用意が出来ましたので……」
「わかりました。すぐに向かいます」
扉の向こう側から投げかけられた声に、京は現実へと引き戻される。
彼のことを気にしてみても、詮無きことだ。京はまだ真紅のことを何も知らない。話してみて悪い人ではないことだけはわかったが、明日からはもっとたくさん話してみたい。
自分の中に珍しく湧き上がる好奇心。それがなぜなのか未だわからぬまま、京は自室を後にするのだった。
一週間ぶりくらいの投稿となりました、広瀬です。
前の話で悲鳴上げたままフェードアウトしたわけですが、気にしないでください。スキンシップです。
なんとなくですが京も真紅を覚えているみたいです。子供のころの記憶なんてあいまいですからね、忘れてたって仕方ありません。真紅の考えも杞憂に終わりましたし、もうしばらくは学園編が続きます。
それでは次話 〔坊っちゃんと嬢ちゃんの大喧嘩〕 でお会いしましょう。(嘘)