〔零話〕 始まりの夜
気づかなかった世界の広さ。
気づかなかった、仲間の心地よさ。
漆黒の闇の中、それに溶け込むほど真っ黒な髪を風になびかせて少年はただ目の前に広がる神秘へと意識を向けていた。
そこには今までの人生において一度として見ることがかなわなかったもの、海が広がっている。月明かりさえない水面は本来の海とはかけ離れたものに変わっていたが、海を知らない少年はこれが海なのかとただ感動に心を震わせるばかりで、別段違和感を抱かなかった。
「……何してるの、真紅。さっさと行くよ」
不意に背後から声をかけられ、少年は首だけを動かし、振り返る。
機嫌が悪そうに眉をしかめた少女。腰ほどまで伸びた長髪と闇の中でもよくわかる白い肌はその存在を認識していなければ幽霊であるかのような、不可思議な感覚を少年に与えていた。
「わかってる。そう急ぐなよ」
暗闇の慣れない砂浜に足をとられながら、それでも少年はしっかりと彼女に向かって歩き出した。
少年の瞳は少女を見据え、少女もまた少年を見つめたまま動かない。少年の緩慢な動きを見守っているのか、ただ彼を待っているのかは少年にはわからないが、彼は彼女の前にたどり着くとそっと右手を差し出した。
「……なんて言えばいいのかわからないけど、これから、よろしく頼む。愛美」
少女はさほど困っていないような、けれど心底面倒くさそうなため息をついて、けれどしっかりと彼の右手を握り締めたのだった。
――――――――――
肌に張り付く熱は、一言でいうと鬱陶しい。今まで夏というものは風が暑く日差しが強いだけだと思っていた真紅にとって、都会の夏、というものは実に憂鬱なものだった。
都会は彼が今まで住んでいた場所に比べ、圧倒的に緑が少ない。白く高いビル、ガラス張りの店。知識としては知っていたはずのものだが、実際に見てみるとすごく興味をそそられた。
しかし夏の鬱陶しさが彼の好奇心をどこか遠いところへと連れ去ってしまう。
「そんなに違和感あるもんか? お前だって七年前まではこっちに住んでたじゃねえか」
隣を歩く学生服の少年は同じ目線で片目をつぶり、思い出したようにあくびを漏らした。
線の細いその男は真紅にとって旧知の友だった。いつ頃からの付き合いなのかと問われれば、わからない、と答えてしまうほど古い付き合い。それゆえに互いのことはよく知っている。
「あっちでの生活が長かったからな。慣れの問題だと思う」
ふむ、と興味深そうに首をかしげ少年は片手に携えていた鞄に手を突っ込む。真紅がその行為を問おうと思うより先に、少年は手を突き出しその手に握ったものを差し出した。
「ほれ、団扇。二つあるから貸してやるよ」
奇抜なキャラクターが描かれた小さな団扇に真紅は一瞬、動きを止めてしまった。その前衛的なデザインもさることながら、それを差し出した少年の悪戯っ子のような表情も真紅の手を止めた原因になっていた。
つまりは暑いほうをとるか恥ずかしいほうを取るか選べ。そう言いたいのだろう。
気まぐれのようにやってくる茶髪の悪戯に小さく苦笑して、真紅は彼の差し出した団扇を受け取った。
「お、思った以上に簡単に取ったな」
「お前の思い通りに行動してやるのが、少しむかついただけだ」
正直な気持ちを告げると、少年は可笑しそうに笑い、自分も団扇を取り出した。
その団扇は太陽と向日葵が描かれた、いたって普通の団扇だった。
気まぐれな親友の背に苦笑を向けて真紅は歩き出す。普通の学生として学校に通えるなどとは夢にも思っていなかった彼にとって、この一時はとても重要なものでもあった。
真紅の望んだことでは、いや、誰一人として望んだことではないとしても、この学生生活はきっと、とてもすばらしいものになることだろう。
本当に見つめなくてはならない問題からは目をそむけ、今だけはただ普通の学生として歩こう。そう心に決める、深紅であった。
これだけではさっぱり内容がわからないと思います。実は作者自身、どういうお話にしようか迷っていたり……。
ですが持ちうる限りの力を出し切って、お話を作っていきたいと思いますのでこれからもご覧なっていただけると嬉しいです。