ラズベリイ・ジェラシー
今日は今年最後の日だから、向こうのTVは騒がしい。どこかで聞いたような歌が流れている。にぎやかな笑い声も時々聞こえる。
でも私はといえば一人ストーブに冷えた足先をかざしながらソファに腰を沈めてココアを飲んでいる。外は昼からずっと氷のような雨が降り続いていて、ときおり窓に乾いた音を響かせていた。
指先が冷たい。
私に起きたことは、たぶんありきたりなことだ。でも自分がとなると、茫然としてただ途方に暮れてしまう。まるで「もうおしまい」なんて親に言われて遊んでいたおもちゃを目の前であっという間にかたづけられてしまった子供みたいだ。
つまり私は何だったんだろう。
少し乱暴にため息をつきながら声に出さずに呟く。君にとって私とは?
ココアの甘ったるい香りの向こうにあの赤い果実の粒が微かに香ってくる気がした。
真夏のうだるような暑さの中、私は自転車を押して歩いていた。小さな橋の傍で桜の木が重なり合って緑を遊ばせていた。さんざめいてきらきらと笑っているみたい。君はその向かいの店先でラムネを鳴らしていた。あ、と見知った姿に気づいて私はほんのわずかの間だけ進む速度を落とす。君はこちらに気づいていないようでそのほんのわずかの間にラムネを呷った。
ラムネの小さな泡が上にのぼってゆく。
ワイシャツの白が呷った腕に透けて、黒い短い髪と緑が鮮やかに目に映る。
ビー玉の落ちる音が響いて、
はっと我に返った。
目が合う前にペダルをふんで遠ざかる。なぜか気づかれたくなかった。どうしてなのか、後から考え直してみてもわからない。アスファルトの地面が流れていく。
君がラムネを呷ったあの一瞬の映像がいつまでも頭に残っていて離れない。
変な感じだ。
クラスメイトという関係性でしか君と私はつながっていなかった。それでもう何年もそれで通してきたはずでこれまでなんにも感じなかったはずなのに。いくら考えてみてもわからない。
でももしかしたら、
もしかしたらそれはずっと私が心の底の扉の奥に感じていたもので、ただきっかけという掛けがねが外れるのを待っていたのかもしれない…
と、そんな事すら考えるようになってしまった私だった。
「最近ほんと嫌になるような暑さだよね、もう8月も終わりなのに」
「…でも部活あるんだよね君」
「そうなんだよ、ああやだなぁ」
そんなことを言っている割に友人は楽しそうに部活のことを話していた。私の目の前に座っているのにその日焼けした腕を最大限に振って話すのでテーブルの上のお冷やにぶつからないかはらはらする。
「ねえ、一緒に入ってよ。暇なんでしょ」
「やだよ。それに私だってそんなに暇人じゃないし。」
「お願い、もう来てくれないと死んじゃうよお、気力と体力がひからびて死にそう」
さらさらした栗色ショートボブの髪を存分にゆらしながら、その子はいたずらっぽい目で懇願するフリなんかしたので、一回試しにひからびてみてよなどとからかうと鈴を鳴らすように笑った。
彼女とは5年以上の長いつきあいでお互いすっかりうち解けている。落ち込んだときに話すと自分が何故落ち込んでいるのかさえ忘れてしまうような太陽のような子だとみんなは言う。多分この混じりけのない笑顔のせいだろう。
そんな明るさが羨ましい、なんて言葉が私のどこかでぽつりと浮いてくる。
「それは、確かに私の部活は比較的緩いけど」
「そっかあ、きっといつもは家でゴロゴロできるんだろうな。あっ、もしかしていつの間にか彼氏作ってデートでもしてるの」
「……はい?」
予想外の不意打ちにテーブル上で一瞬視線が止まる。
「するわけないじゃん」
「ということは彼氏はいるのか」
「いないから!」
出そうとしていた声よりも半音上擦って、さらに動揺する。
「そんなこと言ってまたあ」
私の動揺を知ってか知らずか、心なし相手の目が輝いてる気がする。こうなると話題から逃げるのは難しい、少し困ってしまった時に丁度注文したパフェと飲み物が届いてあっという間に友人は今までの話を忘れてくれたのでほっとした。
テーブルに頬杖をつきながら、ふと窓の外の緑に目を移す。
初めはこの感情はあの時の一時的なものかとも思ったけれど、日が経つにつれて、確かなものなのだと認めざるを得ないぐらい大きくなっていくばかりだった。
そんな漫画みたいなことある訳無いと思っていたのに。小さく笑おうとして、ため息に変わった。
ある日、誰もいないときあの橋の上で石の欄干に手をかけてみた。黒ずんだ石はひんやりとつめたくて、しばらくぼうっと欄干にもたれて川面を眺めていた。涼やかな水を眺めながら、君の好きな音楽のタイプはなんだろう、とかそういうことを取り留めもなくだらだらと考え続けていた。
「どしたの?」
いつの間にか友人が私の様子に気付いて不思議そうに顔を覗き込んでいる。私が苦笑でごまかして注文したアイスティーを飲むと、またパフェを食べることに没頭しはじめた。やれやれとストローでからからと氷をかき混ぜているとテーブルにもう一つグラスが置いてあることに気付いた。グラスの中は赤い飲み物で満たされている。何だろうと見ていると友人が私の視線に気づいて笑った。
「ああそれ、ラズベリージュース」
「ラズベリー?」
「そうこれ、結構癖になるよ」
「ふうん…」
私はグラスの中の赤に魅入る。
苺ともアセロラのそれとも微妙に異なる、透明な赤。
君はクラスの男子の中でも目立つ方ではなかったけれど、人当たりが良くて優しかった。私はできるだけ自然に話しかけることを心がけてみた。例えば、今日は挨拶の後に一言だけ付け加えてみよう、今日は通りすがりに話題を出せたらいいな、などと。もちろんそんなに上手くいく訳はなかったけれど、君はそんな私のまとまりのない話にちゃんと応えてくれた。私は君の優しさに随分助けられたと思う。
そうやって私が君の好きな音楽のタイプをどうにか知ることができた頃には、既に晩秋になっていた。私が君と前より話すようになると、君の瞳や視線が気になるようになった。夜空の黒い瞳、言葉と同じくらいに真っ直ぐな線。けれど、何故かその瞳は私の心を不安げにさざめかせるのだった。
不安は私を焦らせる。
君が優しいのは私にだけじゃない。それぐらいはもう分かっていた。それなら口に出して告げてしまえば、とも思った。けれど結局臆病な私はその視線の先で君の特別な人として笑えるのが来る日を、ただひたすらに祈っていただけだった。
私を覆う想いは、なんだか重い。
「あなたはいいよなあ」
「え、なにが」
「そういうとこだよ」
あの子はまた、紅い果実の入ったグラスを手にしながら、きょとんと首を傾げる。私は少し苛々して、同じ色に染まった自分のグラスをがぶ飲みした。シロップの甘さと冷たさのなかににじむ木の香りのする酸味と、わずかな渋み。そろそろ温かい飲み物が出回り始める季節だったが、この味は確かに癖になる。
そんな私の様子を不思議そうにみている友人。
「いつも、何か楽しいことでもあるみたいだよね」
「え、そう?」
「……褒めてる訳じゃないから」
呆れてため息しかでてこない。
12月の半ばにもなると木枯らしがその名の通り木を灰色に枯らしながら我がもの顔に奔る。吹く度に頬を切りつけられるような感覚に襲われながらも私は街を歩く。寒さで縮こまった街並みはしかし、クリスマスムードで何となく浮かれているような気がした。誰もが一度は聞いたことのある音楽のなかで、苺のタルトやブッシュ・ド・ノエルが整然とショーケースに並ぶ。華やかさを競うように至る所に飾られたイルミネーションのおかげで通りがいつもの倍ぐらい明るい。
しかし今まで私はというと、こんな空気にむしろ戸惑っていた。だって、所詮特定の人だけが盛り上がれるアンフェアなイベントだもの。例えばクリスマスだからってサラリーマン達は自由になれないし、ずっと独りだった人に急に恋人ができて、楽しく過ごせる訳でもない。
そして私も、この空気に溶け込めないまま終わっていくしかなかった。
……で、今はどうだろう。私はこの空気を楽しめてる?
「その、用も無いのにいきなり呼び出しちゃってごめんね、鬱陶しかったかな」
「そんなこと無いよ。ちょうど俺も外に出ようか迷ってたとこだった」
見たかったものがあって、と君は笑った。
「見たいものって?」
「そこのショッピングモールで……あ、そろそろ時間が来るから急ごう」
そういうと小さな子供のように石畳の上を小走りに駆け出す。ちょっと、と苦笑いしながら後を追う。
着くとそこはモールの中庭の噴水広場だった。子供連れが多く、にぎやかな声が響いている。そして何よりも私の目を引きつけたのはいつもはそこにあるはずの無かった、見上げるほど大きい樅の木だった。思わずすごいと声が漏れる。
「半日かかってセットしたらしいよ。今日これからこのツリーのイルミネーションが点く」
点灯式か。そんなこと全然知らなかった。
周りにだんだんと人が集まってきて、皆上を指さしたり、時々時計を気にしながらツリーを見上げて待ち始める。まるで辺りの温度が上がって行くようだ。君はそれきり喋らないので、何気なさを装って隣を見るとただじっと前を見つめていた。その表情は、周りにいる子供たちと変わらない。私はひとりマフラーに頬をうずめた。別に寒かった訳じゃない。
スタッフだろうか誰かがやってきて話し始める。その場にいた人達がわっと盛り上がった。
カウントダウン。
辺りが一瞬しんと静まりかえった後、金色の光が星屑を散らしたように広がった。
私の喉から微かな吐息が漏れる。
歓声が響いた。拍手をしている人もいる。幸せそうな声を聞きながら、徐々に金色から七色へと変化してゆく光を見つめた。まばたきすると霞んでしまうようだった。私は後ろを振り返る。
君の笑顔があった。
「どう?」
私も微笑んで、それから少しはにかんでみせる。
「いいね」
君の瞳にはライトが映りこんでいた。色が変化する度に瞳の中の世界が変わる。見上げる顔も照らされている。私はまたツリーに向き直って、ぼんやりと眺めた。目を細めて光をにじませると色はみんな溶けていく。
「いいよね、こういうの」君がまた呟く。
「何が?」
「光が灯るだけなんだけどさ、その瞬間を見ている人は誰もが幸せになれると思うんだ」
イルミネーションが私に紅く瞬いてみせた。
思わずちらりと横を見る。それはどういう意味? まさか……
「文化祭やパーティとは全然違うけどな。見ている人誰もが幸せになれる瞬間なんてそうそうないもんだよな。……ん、もしかして今俺が格好付けた事言ってるなーなんて思ってた?」
「そんなこと無いって」
密かに止めていた息をはき出して苦笑いに変える。
「なんだよもう…」
「うん? 何か言った?」
何でもないよと手をひらひら振る。全く呑気な奴。
君はツリーの方へ歩いて行った。私はツリーに魅入っているふりをする。
不意に、この思いや自分の行動全てが馬鹿馬鹿しくなった。いつまでも前に進めないまま一方通行なら、いっそのこと断ち切ってしまった方がいい。前から何度か頭をよぎっていた考えだった。
でも、とそんな声に小さく返す。
――もう絶対に後退したくないから。
そんな心の声に動揺を隠せない私の顔と視線は、幸いなことに君からは分からない。
スマホを取り出して掲げてみた。タップして一枚撮る。画面を覗き込んだら上手く撮れていなくて思わず舌打ちしたくなった。全然駄目だコレ、上手く撮る才能無いのかな、なんて愚痴りながら顔をあげると君が振り向いて私をすっと見ていた。逆光で表情が分かりにくかったが、なぜか一瞬別人に見えて、声が止まる。
「一緒に撮ろうか」君は言った。予想外のことに一瞬固まる。
「えっ……あ、……うん、いいよ」
いつものように笑えないのを無理矢理繕って元気に振る舞う。シャッターに触れる指先が微かに震えた。
チャッという小気味のいい音。
君にしてみればただ友人の女の子と一緒に撮っただけなのかもしれないけど、とにかくこの時の私は思い出して可笑しくなるほどあがってしまった。何かも分からないような感情がぐっと沸いて、ますます頭はなにも考えられなくなってゆく。口は喋り続けていたけれど、何を言っていたのかは全く思い出せない。
君はいつもの黒い瞳を瞬かせながら笑って私の話を聞いていたけど、なんだかあの振り向いた時の別人のような感じが残っていたような気がする。
傍からみたらまるでベタな恋愛ドラマのようなシチュエーション。君にはにかんでみせている私が信じられない。もしかして他の誰かが私の代わりに喋っているのかもしれない。
その時間は長かったようで短かったような気もする。
気がつくと二人また黙って並んでツリーを眺めていた。二人の間を風だけが水みたいに通り抜ける。
言いたいことを言うのは今かもしれないと急に気付いた。そう今だ。
「あの」
聞こえているかどうかも分からない大きさの声がこぼれ落ちる。
「もし……良かったら……嫌じゃなければ、だけど、その……」
言葉が、意志の追いつかないままただ流れ出ていく。
「その、付き……」
その時、示し合わせたように携帯の着信音が鳴った。
ごめん、と君は通話ボタンを押して私の左を離れていく。早口ぎみに携帯にささやくのを見送った。
中途半端に緩む緊張感。
「どうしたの」
「いや、……ごめん。用事があるの忘れてた」
「うん」そんな気はしていたよ。
君はあまりにあっさりとした私の態度にかえって戸惑ったように見えた。
「大丈夫? 何か言いたいことあったんじゃない?」
「ああ……」
目の前のツリーをもう一度眺めてみたけれど、もう私には何も訴えかけて来なかった。ただ美しい冬のシンボルというだけ。
何故あの時言い切らなかったんだろう。
今でもよくわからないけど、不思議と後悔はない。
でも、近いうちにまた言い直せるかな、と思っていたことは確かで、それは少し後悔しているかもしれない。
ぼんやりしながらグラスを揺らす。
その日は12月にしては温かい陽気で、窓からクリーム色の陽射しが差していた。
客も少なく、静かな午前11時。
窓の外にはクリスマスなんてなかったかのような普段通りの町があるだけだ。
あの夜は夢だったのかもしれない、あのツリーの輝きなんて正にそうだろう?
そんな自分に言い聞かせるため弄んでいたスマホの写真リストを何となく開く。
「ねえ、ねえ、聞いてる?」
私はけだるげに目線を上げる。
「部活のことでしょ? ちゃんと聞いてるって」
「うんまあね、って、そうじゃなくて。今日あーちゃん明らかに様子おかしいよ。何か楽しいことでもあったの?」
どこかで聞いた科白だな。
「ジュースも全く飲んでないし。寒いから? もしかしてもう飽きた? もったいないからうちが飲んでもいいよ」
黙って左手で今まで揺らしていたグラスを引き寄せて飲む。右手はスマホを持ったままだ。
「なにがあったんだよー」
「別になにも? 君が全然喋らないからちょっとぼんやりしてるだけ」
自分が撮ったツリーの写真のブレの酷さに笑いそうになりながら適当に言葉を返してしまった。
「そちらも何かあったんじゃないんですかー」
あの写真には2人とツリーが鮮明に写っていた。展覧会の絵のようにそれを眺める。
心なしか固い表情の私に微笑んだ後、ようやく不自然な沈黙に気付いてはっと顔をあげる。
彼女は半分ほどになったジュースの水面を見つめていた。
「ちょっと聞いてほしいことがあるんだよね」
「部活?」
「いや……」
また沈黙。私はただジュースを飲んで待つしかない。
なんだかいつもより甘いかもしれない。気のせいかな。
突然君の名前が出て、私はスマホを慌ててしまいながらも聞き返す。
「――あいつがどうした?」
「うんまあ、今まで全然そんな風なこと言わなかったけど、あーちゃんには言った方がいいかなって。
――付き合うことになった」
意味が一瞬分からず瞬く。
あまり私が見たことのない、はにかんだような笑顔。
あの瞳を急に思い出す。
それで私は、分かった。
沈んでないんだ二つとも。私みたいに。
君にとったら沈んでいる私なんて、――
「……そっか」
私は、ただ微笑んだ。
マグカップが空になった。向こうから歓声がまた聞こえる、多分妹の好きなアイドルグループでも出たんだろう。窓の向こうを見て、雨が雪に変わっていることに気付いた。電気を消してガラスに手をあててみる。景色が息で白く霞んだ。
積もるかな、もし積もったらその上を素足で走ってみたいな。そうして何処までも遠くへ、どこか知らないところまで走っていけたらいい。
私があの子みたいになれるように。
それで、この事実が1㎜でも違うものになるように。
私だって、私だってラズベリージュースのように甘酸っぱい恋ができたらいいななんて思ったことが一度はあるんだよ?
そう。この半年まさにそんな恋ができた。十分いい夢が見られて、
――楽しかったよ。
だけど、なぜこんなに苦いんだろう?
こんにちは、浅黄です。読んでくださりありがとうございます。
ちゃんとした小説出すのは久々です。
果たして「君」が主人公の気持ちに気づいていたのか、主人公が「君」のことをどう思っているのか、
それはご想像で。
おまけ
主人公の名前:綾州茜(だから呼び名が”あーちゃん”)
(それ以外の人達のは特に決めてない)
本当は2016の大晦日に投稿するつもりだった…余裕でできると思ってた…(小声)