5話
門を潜ると同時に、右側の門扉の陰から大きな影が飛び出してくる。
「ッ!?」
咄嗟に身をよじると同時に、目の前を巨体が突き抜けていく。
気配すら感じさせない完璧な隠形から死角への襲撃。
俺がその攻撃を避けることができたのは、僅かな足音と空気の流れを感じとれたからだった。
それでも間一髪。
着ていた制服の胸元はソイツの牙により浅く切られていた。
俺はすぐさま体勢を立て直すが、その時にはすでに反転したソイツが俺の目前まで迫ってきていた。
あまりにも迅く、そして近い。
突きや蹴りでは間に合わない。
超接近のショートレンジに対応するため、右の膝蹴りと左肘の打ち下ろしを同時に見舞う。
しかし、その攻撃を瞬時に察したのかソイツは四本の脚でもって強引に地を蹴り、右側へと逃れた。
そうして距離が空いたことでようやく正面から向かい合う。
数秒にも満たない時間での濃密な攻防。
それを行ったのはかなりの巨体。これがあの速度で動くことは、何度見ても悪夢としか思えない。
全長2メートルほどだろうか、まるで丸太のような太い体を短い4つの足が支えている。
尻尾は短く、反対に顔面は非常に大きい。下手をすれば胴体とそう変わらないかもしれない。
それに比例するようにその顎は巨大で、そこから除く牙は凶悪だ。
額には縦一文字の凄まじい傷跡がついており、歴戦の風格を醸し出す。
耳目は頭頂部に近い位置にあり、耳は小さくぴょこんと立ち、その瞳は円らで純粋さに溢れる。
そう――カバである。
彼こそウチで飼ってる武闘派カバの『師匠』である。
何度でも言おう――カバである。
このカバの『師匠』は、うちの爺さんこと鶴万玄武が数十年前にアフリカのとある部族と戦っていた時に拾ったらしい。
ケガをし、親からも見放された子カバの『師匠』を日本に連れて帰ってきた爺さんは、何を思ったのか鶴万流武闘術の手解きをした。
スポンジが水を吸うかの如く武術を習得した『師匠』は15年で免許皆伝を許され、師範の位を与えられた。
そう、このカバは名実ともに『師匠』なのである。
現在この鶴万流武闘術の序列は
最高師範『鶴万玄武』(爺さん)
師範『師匠』(カバ)
師範代『鶴万千亀』(俺)
となっている。
小さい頃より爺さんとともに俺を鍛えてくれたことから、俺は尊敬をもって彼を『師匠』と呼んでいる。
『師匠』は当然ながら俺よりも長いこと修行を積んでおり、その技のキレは俺なんか足元にも及ばない。
四足歩行というハンデをものともせず、体の構造的に不可能な技であっても自分に可能な様にすぐさまアレンジしてしまう応用力には目を見張るものがある。
また闘いにおける駆け引きなども時には慎重に、時には大胆に行う。相手の間を読むことにも長けており、まるで未来が見えてるかのような動きをすることさえある。
そして、そのフィジカルは”圧倒的”の一言に尽きる。
カバの分厚い肉はただでさえ強力な壁となるのに、『鶴万流武闘術』を極めた『師匠』の肉は内功と外功によってまさに鉄壁の要塞と化す。
俺も『師匠』が本気の防御形態をとった場合、自滅覚悟の一撃で破れるかどうかだ。
その肉と重量は攻撃にも遺憾なく発揮される。
3日前の時も、あそこにいたのが俺でなく『師匠』ならケガすら負わずにトラックを受け止めていただろう。
まさしく我が道場における紛れもないNo2である。
最後にもう一度言っておくが『師匠』は偶蹄目カバ科カバ属――カバ(♂)である。
そんな、最早カバ(?)とさえ言える『師匠』に突然襲われたわけだが、これは日常茶飯事である。
常住戦陣の精神は鶴万流武闘術の基礎の基礎だ。
いついかなる時にも戦いに備えていなければならないのであり、奇襲・闇討ちは稽古の一環に過ぎない。
「ヴォーヴォ(少し鈍ってるみたいだな)」
向かい合ったままの『師匠』が浅く切り裂かれた制服を見ながら低い鳴き声を上げる。
流石の『師匠』も言葉を喋ることはできないのだが、我が道場の門弟は高弟になる頃には鳴き声で何が言いたいかわかるようになる。
この17年間寝食を共にしてきた俺も当然の如く何を言っているのか理解できる。
「入院してたんすから勘弁してくださいよ『師匠』」
「ヴォヴォー(愚か者が、私が言っているのは心のことだ)」
「……心っすか」
「ヴォ―ヴォ― ヴォヴォ(大方、何かに巻き込まれたのだろう。貴様が鈍るということは女子か無辜の民が絡むことだな)」
「『師匠』には敵わないな」
「ヴォ―(手助けはせんぞ、これも修行と思い解決せよ)」
「……押忍!」
「ヴォ(では道場に行くぞ、玄武殿が待っている)」
「押忍!!」
そうして道場に向かう『師匠』の背後に続き――その尻に向かい蹴りを繰り出す。
だが――
「ヴォ!(甘いわ小僧!)」
「グハッ!」
俺の蹴りが当たるよりも早く『師匠』の尻尾が鞭のようにしなり、俺の軸足を払った。
そのせいで立っていられなくなった俺は地面へと打ち付けられる。
「ヴォ―(遊んでないで行くぞ)」
「押忍!」
俺はまだまだ背中の見えない『師匠』の実力を再確認し、超えるべき壁の高さに思わず笑みを浮かべた。