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青い魚と銀貨

作者: 麦畑あきつ

 天から湖に降り注いだ一群の光の粒が、湖底でしばらく舞うように広がったり集まったりしていると見るうちに、やがてそれはひとかたまりとなって、青い魚と化した。


「ここはどこだろう」


けれどその青い魚は自分が誰なのかさえ少しも思い出せなかった。ただ何か大事なものをなくしたんだという思いだけが夏の空の入道雲のように胸いっぱいに湧いて来るのだった。


「あれは何だろう」


しばらく波にもてあそばれるままに当てどなく湖水に漂っていた青い魚は、ふと見下ろした石ころと砂ばかりの湖底に何か光るものがあるのに気が付いた。


「ああ。 きっとあれは」


そこで青い魚は急いでそばへ泳ぎ寄った。するとそれは皇帝カエサルの肖像が刻印されたローマ銀貨に他ならなかった。


「そうだこれを拾いに来たんだ」


青い魚は何かを思い出しそうだった。


「袋一杯の銀貨。それを届けなければならないんだ」


あたりを見回すと、案の定見覚えのある皮袋がそばに埋もれていて紐の緩んだ口から四五枚の銀貨がまわりに散らばっている。


皇帝カエサルのものは皇帝カエサルに。神のものは神に返せばいいんだよ」


そのときふと誰かが言った言葉が頭に浮かんだ。


「そうだともこれを返さなければ」


青い魚は、ヒレを巧みに動かして皮袋の砂を払い、それからこぼれた銀貨を、持ち運べるかどうかためしに一枚口に含んだ。するとそれは口の中に実にうまい具合に収まるではないか。そこで青い魚は銀貨を一枚一枚器用に袋の中に戻し、それから最初に見つけた一枚のところに戻ると、それを口に含んで泳ぎだした。とにかく泳ぎ回っているうちに持ち主に巡り会えるかも知れない。



 ところが何としたことか。ふと見かけた小船に近付いた青い魚は、突然その小船からはなたれた網に掛かってしまったのである。それは漁師すなどりの小舟だったのだ。散々もがいて逃れようとした青い魚だったが、そのまま舟板に引き上げられてしまって苦しさの余り、思わず銀貨を吐き出した。


「こいつはすげぇ。本物だ」


銀貨をつまみあげた漁師すなどりはそういって小躍りした。そしてその銀貨を吐き出した見たこともなく美しい青い魚に向かって上機嫌でこう語りかけた。


「これは俺への贈り物かね。だったらあんたは神の使いってわけだ。それとも身代金だろうか。だったら金貨1枚といいたいところだが、人ならぬ魚一匹なら、これはもう十分過ぎる額だ。まあ。いづれにしたって、このまま命を取るってわけにはいかないな」


そして青い魚を丁寧に網から外してやると湖へ放してやった。


青い魚は一目散で皮袋のもとへ泳ぎ戻って、中から銀貨をまた一枚くわえ出すと口に含んだ。そしてふと我に返ると少し何かを思い出した気がした。


 それから幾度も青い魚はあたりの漁師すなどりたちの網に掛かっては銀貨を吐き出して放されることを繰り返した。やがて銀貨をもたらす不思議な青い魚の噂は広まって、それを目当てに出没する余所者と土地の漁師すなどりいさかいを起こすまでになった。


 そしてとうとう最後の一枚の銀貨を口に含んで青い魚は泳ぎ出した。もうすっかり何もかも思い出して自分が誰なのか、そしてこれから何をしなければならないのかを承知してのことだ。青い魚は巧みに他の漁師すなどりたちの網をよけながら目当ての漁師すなどりが操る小舟に近寄った。そして勢いよく跳ね上がるとその小舟に飛び込み銀貨を吐き出した。


「こいつは魂消た」


するとその漁師すなどりは目を白黒させて、それから嬉しそうに銀貨をつまみ上げた。


「それがお前の取り分だ。ペテロ」


それを見て青い魚はそう叫んだつもりだったが、ただ口をパクパクさせ身悶えること以外何もできはしなかった。



 とそのときのことである。その漁師すなどり、ペテロは我が目を疑った。湖面を歩いてくる人があるかと見れば、それは死んだはずのナザレのイエスに他ならなかったからである。


やがて軽やかに小船に上がったイエスはペテロに向かってこう語りかけた。


「怖がることは何もないんだよ。ペテロ。ただ迎えにに来ただけなんだ。イスカリオテのユダをね」


「ユダ?」怪訝そうにペテロは辺りを見回した。


「ユダは死んだはずです。首をくくったんです。そのユダが今ここにいるのですか」


「この魚が」と言って青い魚をイエスは指差した。「イスカリオテのユダなんだ。ではさあ。ユダよ」とそう言ってイエスは青い魚を促すようなしぐさをした。


「立ち上がるんだ」


すると何としたことだろう。青い魚はたちまちイスカリオテのユダにその姿を変えたのである。だがユダは立ち上がるどころか顔を覆っておいおいと泣き始めた。そして言葉を詰まらせながらイエスに向かってこう語った。


「私はあなたが許せなかったんです。善悪の区別なくすべてのひとを平等に愛する神なんてものがあるはずがないし、あってはならないのに。あるといい、あるかに振舞うあなたが許せなかった。私がほしかったのは悪を裁き罪びとを滅ぼす神でした」


ユダは顔を上げてイエスを見すえた。


「でもやはり私は正しかった。あなたは私を許せずに私を罰したのだから。確かにあなたをローマ兵に売って、私は銀貨を受け取った。でも勿論そんなものがほしかったからじゃない。その何よりの証拠に、全部この湖に捨てたじゃないか。だのにあなたはすっかり邪推して魚に身を変えてまで私にそれを拾わせようとした。しかもひとであったことさえ忘れさせておいて再び手にしたその銀貨を失うにしたがって何もかも思い出すように仕組んだのだ。そうまでして仕返しがしたかったなんて見下げ果てた人だ。償ったじゃないですか。あなただけを死なせたわけじゃない。私は悪い人間じゃないんだ。何よりまだこれからなすべきことが沢山あって病気一つせず長生きして面白おかしく人生を楽しむはずだったのに。あなたなんかに関ったのが運の尽きでこんなことになってしまった。まあいい。とにかくこの勝負に勝ったのはこの私だ。あなたは口先ばかりの薄っぺらなペテン師に過ぎなかたんだ」


これを聞いてイエスは困った顔をしてこう答えた。


「すべてはあなた自身が望んだことなんだよ。神の国へ行くのは御免だと言って、魚に生まれ変わらせてほしいとそう願ったのはあなたなんだ。私はそれを叶えてやっただけなんだ」


「あー」これを聞いてそうユダは驚きの声を上げた。

「そうだった。今思い出しました。私はあの時あなたに、頼んだんだった。もう人間なんて御免だから、湖の底で静かに暮らせるように魚にでもしてほしいと。でも思い出したのは魚になって思い出したのは、首をくくるまでのことばかりでした。何よりあの日、銀貨をペテロに渡そうとして、こんなガリラヤくんだりまで来たのに、こいつは俺を裏切り者呼ばわりして追い返しやがって、それが何より許せなかった。俺は俺がローマ兵を手引きして来たときの、お前のほっとした顔を見逃しはしなかった。わかっていたんだろう。俺がああすると。お前たちはそれがわかっていて、だからその人を見捨てて逃げ出したんだろう。だのにこの俺を裏切り者呼ばわりして、俺一人悪者にして、お前たちは何の罰も受けていない。そんなことが許されると思っているのか」


 するとペテロも困った顔をしてこう答えた。


「俺はこの人がこの俺を神の子だといってくれた時、ぱっと世界が開けたようで、本当に嬉しかった。運がまわってきたと思った。これで漁師すなどりの暮らしから抜け出せると思ったんだ。だのにこの人の言うことは」ペテロは少しためらってからイエスに向かって言葉を続けた。

「あなたの言うことは、あってはならないことだった。この世界はあまりに理不尽で、死後の正しい報いがないのであれば、私は神を許すことができない。だのにあなたはすべてのひとが平等に神の国に迎えられるというのだ。まず罪びとから神の国へ迎えられるというのだ。神は善悪の区別さえつかぬなんて。私にはユダが言うようにそんなことには同意できなかった。あなたは人はすべて罪を犯しているといいました。生きていること自体が奪うことであり盗むことだといいました。すべての人が平等に罪びとなんだと。だったらノアのときのように人間など洪水でいっそみんな滅ぼせばいいのだ。だからあなたが言うように、もしあなたが本当に神の子なら、そのあなたを私たちが殺せば、神はきっとお怒りになって、私たちを滅ぼしてくれるんじゃないかとそう思ったのです。何よりそれで怒らない神なんていらないとあなたに思い知らせたかった。こんなつまらない人間と世界とをいとおしんでいる神なんてものには、何の価値もないと、みんなそう思っているんだと」


ペテロは最後はほとんど泣き叫ぶようにこうわめいた。


「お前に思い知らせたかったんだ」


これにイエスは穏やかにこう答えた。


「ねえ。ペテロ。神はいつだって私たちに子どもが生まれるとその一人一人を胸に抱きにいらっしゃるのだ。そして天使たちと喜びのダンスをなさる。その喜びをあなたは何も損なってやしないんだよ」


そういうイエスにペテロは何か言い返そうとして言葉を飲み込んだ。そのとき不意に、イエスが嬉しそうに赤ん坊のペテロを胸に抱く姿が目に浮かんだのだ。そして嬉しさで胸が一杯になって涙がこみ上げてきた。


「さあ。ユダ。神の国へ行こう」


イエスがそう言ってユダに手を差し伸べると、ユダはうなづきながらその手を取った。すると何とユダの身はぱっと無数の光の粒になってたちまち四方に散らばったのである。


「ああ」イエスは慌てて、明滅しながら煙のように消えてゆくその光の粒を掻き集めようとしたが無駄だった。そして悔しそうに天を仰いだ。



「神の国なんて嘘なんだ」


しばらくしてイエスはそう言って肩を落とした。


「人は死ねばちりに帰るだけで、何も残らない。いや、私だって少しばかりちりを操れるだけで、寿命が尽きることに、変わりはないんだ。そして時が充ちようとしている。だからあなたがたにできる最後のこととしていろいろやってみたけれど、結局うまくいかなかった。私はただ手本を示して人々に伝えたかっただけなんだ。全ての人の命は平等の価値があって、神の目には何の優劣もない。みな等しくいとおしい神の子なんだと。だから殺しあうなんてやめてほしいと。お互いがどんなに理不尽に思え理解しがたくとも、それでも我慢し合って共に生きてほしかった。何より痛みを伴わない愛なんかないことをわかってほしかった。愛には鞭打たれ磔けられるほどの痛みがある。でもそれに耐える価値があることをわかってほしかった。そして敵を愛してほしかった。己をさげすさいなしいたげる者たちを愛してほしかった。神のように自分の子供として愛してほしかった。どれほどつらくても痛くても、自分の意思でそうすること。それに勝る幸福はないのだから」


ペテロは頭がひどく混乱して何も答えられなかった。そしてしばらくしてようやく途絶え途絶えイエスにこう答えた。


「伝えます。あなたの言った通りに。必ず」


 これを聞いてイエスは嬉しそうに微笑んだ。そして忽ち無数の光の粒となって四方に散らばったのである。ペテロは息を呑み。さっきイエスがそうしたように、煙のように消えてゆく光の粒を捕らえようと空しく宙を掻いた。


 それが神の子。いや。神が死んだ瞬間だった。



聖書の「ペテロの魚」が元ネタです。「お金がないと愚痴るペテロに、イエスが魚を釣って来なさい口にくわえているから」といったというお話です。実際に時おりガリラヤにはそんな魚がいるという話を聞いたことがあります。


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