落日の老中 ―幕府に殉じた男・板倉勝静―
⭐︎⭐︎ 第一部 婿養子の家督
⭐︎⭐︎⭐︎ 第一幕 白河の八男
文政六年一月。白河の城下に、雪が音を立てて降っていた。
「男子にございます」
産声が上がった時、乳母は驚いた。生まれたばかりの赤子が、拳を固く握りしめていたのである。指の間から、冬の光が漏れていた。
松平定永の八男。廊下を歩く家臣たちの足音には、長男誕生の折とは違う、どこか間延びした響きがあった。
「また、男子か」
「八人目とあれば……まあ、目出度いには違いないが」
誰も、その子の行く末を、深く語ろうとはしなかった。八男とは、そういう立場であった。
幼名を捨松という。六つの齢から、書見台の前に座らされた。
「捨松様、素読を」
朝の冷気を裂くように、幼い声が古典の一節を追う。墨と炭の匂いが、鼻の奥にしみた。手のひらに筆だこができる頃には、もう剣の稽古も始まっていた。木刀が空を切る音、道場の板張りに落ちる汗の粒。
「捨松、そなたは、将来何になりたい」
そう問う者は、誰もいなかった。
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⭐︎⭐︎⭐︎ 第二幕 備中への輿入れ
天保十三年。十九になった捨松のもとに、一つの話が舞い込んだ。
「備中松山へ、婿入りの儀、決まりましてございます」
家臣の言葉に、捨松――もはや勝静と名を改めていた青年は、静かに頷いた。
輿入れの朝、白河の空には雲ひとつなかった。見送りの中に、幼い頃から仕えた老僕がいた。老僕は何も言わず、ただ勝静の乗る駕籠の脇を、城門まで歩いた。
「爺、達者でな」
駕籠の簾越しに、勝静はそれだけ告げた。老僕は深く頭を下げるばかりで、声を発することはなかった。
駕籠の中から見た白河の甍は、光を弾いて、もう二度と同じ角度からは見えぬだろうと思われた。
国境を越えるごとに、山の稜線は険しさを増していった。江戸からも、生まれ故郷からも遠い、深い緑に閉ざされた盆地。
「これが……備中松山か」
到着した夜、勝静は寝所の障子を細く開けた。虫の声が、白河のそれとは違う調子で鳴いていた。低く、粘るような音であった。
嘉永二年閏四月。養父・勝職の隠居により、勝静は家督を継いだ。二十七であった。
城の大広間、居並ぶ家臣たちを前に、勝静は座についた。
「本日より、この身が松山藩を継ぐこととなった。皆、よろしく頼む」
その日から、勝静の草履の裏には、備中の赤土がこびりつくようになった。白河の雪の記憶は、その下に、薄く埋もれていった。
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⭐︎⭐︎⭐︎ 第三幕 油屋の倅
家督を継いで間もなく、一人の男の名が、勝静の耳に届くようになった。
「山田方谷、と申す者にございます。もとは西方村の農家に生まれ、菜種油を商う家に育ったとか」
「農家の出、か……して、その者、いかなる才があると申すのだ」
「学問を志し、京や江戸に遊学した末、故郷へ戻っておるとのこと。近隣では評判の学者にございます」
「会うてみよう」
初めて対面した日、方谷は平伏したまま、しばらく顔を上げなかった。その背中は、武家の子弟のそれとは違う厚みを持っていた。畑を耕し、天秤棒を担いだ肩であった。
「面を上げよ」
勝静が促すと、方谷はゆっくりと顔を上げた。その声は、武家のどの重臣よりも澄んでいた。
「藩の財、すでに底を突いております」
方谷はそう言った。それだけであった。数字も、言い訳も並べなかった。ただ、その一言の後の沈黙が、広間の空気を張り詰めさせた。
「……そなたに、藩校・有終館の学頭を任せたい」
勝静の決定に、周囲がざわめいた。
その夜、城下の重臣の屋敷では、幾つもの行灯が夜更けまで灯り続けたという。
「油屋の倅を、学問の頂に据えるとは」
「殿は、何をお考えか」
血筋を重んじる家中にとって、それは容易に呑み込める話ではなかった。だが勝静は、その決定を翻さなかった。
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⭐︎⭐︎⭐︎ 第四幕 藩札を焼く煙
方谷の改革は、まず藩札の刷新から始まった。旧い藩札を焼く煙が、城下の空に幾筋も立った。灰の匂いが、しばらく風に混じっていたという。
「殿、次いで、鉄と炭の産に、藩士たちを従事させたく存じます」
「刀しか握ったことのない者たちに、か」
「はい。それも、この藩を立て直す道の一つにございます」
それまで刀しか握らなかった手が、鉱石の重みを覚えていった。
数年を経て、藩の帳簿には、負債の文字に代わって、余剰の数字が並ぶようになった。
ある夜、方谷は勝静の前でそろばんを置き、指先で弾いた珠の音を止めた。
「殿、藩庫に、蓄えができましてございます」
勝静は、その珠の並びをしばらく見つめていた。窓の外では、改修された水路を流れる水の音が、絶え間なく続いていた。
「方谷……そなたを学頭に据えたこと、間違いではなかったようじゃな」
方谷は、深く頭を下げるのみであった。
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⭐︎⭐︎⭐︎ 第五幕 寺社奉行の沙汰
安政四年、勝静のもとに、奏者番兼寺社奉行を命じる沙汰が届いた。
国元からの便りが、続いて届いた。方谷の筆跡で、簡潔な一文だけが記されていた。
「今、江戸へ出づるは、時宜にあらず」
勝静は、その文を行灯の火にかざしたまま、長く動かなかった。灯心の爆ぜる音だけが、部屋に響いていた。
だが、譜代の家に生まれた者に、拝命を拒む道はなかった。
江戸城中の奉行所は、備中の水路の音とは違う音に満ちていた。衣擦れの音、遠くの襖が閉まる音、そして、大老・井伊直弼の名が囁かれるときの、微かに低くなる声の調子。
安政五年、安政の大獄が始まった。志士たちが次々と捕らえられ、詮議の場に引き出された。
国元から、方谷の献策が届いた。
「殿、処罰は、もっと寛やかであるべきかと存じます」
勝静はそれを読み、井伊の詮議の激しさに異を唱えた。
その進言が井伊の耳にどう届いたか、勝静の顔を見た者は誰も語っていない。だが安政六年、罷免の沙汰が下った。
その日、勝静は執務室の文机を、いつもより長く拭いていたという。硯の縁、筆架の木目、一つ一つを布で撫でるように。
城を辞す日、江戸の空には、白河でも備中でも見たことのない色の雲が浮かんでいた。灰と朱の混じった、夕刻の色であった。
駕籠に乗り込む前、勝静は一度だけ振り返り、寺社奉行の詰所であった建物の屋根瓦を見上げた。
備中へ戻る道すがら、彼は幾度も、懐にしまった方谷からの文を、指先で確かめていたという。紙の角は、すでに幾度も折り畳まれ、柔らかくなっていた。
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⭐︎⭐︎ 第二部 老中として
⭐︎⭐︎⭐︎ 第六幕 復帰
桜田門外の雪は、その年、いつもより早く汚れたという。井伊直弼が斃れた報せが備中に届いたとき、勝静は庭先で、霜の降りた蹲踞の水を、指先で割っていたと伝わる。氷の薄い膜が、音もなく崩れた。
文久元年、ふたたび奏者番兼寺社奉行を命じる沙汰が届いた。
「今度は……」
拝命状を受け取る勝静の指先は、以前よりも幾分か落ち着いて紙を扱った。
国元から方谷が呼び戻された。江戸の役宅で再会したとき、方谷の頬は、備中で見た頃よりも削げていた。
「方谷、息災であったか」
「殿……」
政務の合間、方谷はしばしば咳き込み、懐紙に赤い染みを残した。染みの色は、勝静が幼い頃、白河の雪の上に見た椿の落花に似ていた。
「殿は、御一人でも」
方谷はそう言いかけて、言葉を切った。
喀血ののち、方谷は暫時、国元での静養を余儀なくされた。勝静は見送りの馬車が城下の坂を下っていくのを、いつまでも見ていたという。轍の跡が、乾いた土の上に、二本の線を刻んでいた。
文久二年三月、勝静は老中の座に就いた。三十九であった。
その日、江戸城の廊下を歩く勝静の足音は、白河の雪道でも、備中の赤土でもない、城中特有の乾いた板の響きを立てていた。
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⭐︎⭐︎⭐︎ 第七幕 大原重徳の目
老中の職にある者の一日は、書状の山から始まる。
東禅寺での騒擾の後始末、将軍・家茂の上洛への随行。文久二年六月、勅使・大原重徳が江戸に下った日、城中の空気は、これまで勝静が知るどの空気とも違っていた。
大原との交渉の席で、勝静がどのような言葉を発したか、詳しい記録は多く残っていない。だが後年、京の岩倉具視に宛てた大原の手紙には、勝静を評してごく素っ気ない一文が記され、その傍らに侍る方谷の才を評する言葉が、より多くの紙幅を割いて記されていたという。
その手紙の写しが、いつか勝静自身の目に触れることがあったのかどうか。もし触れていたとして、彼がその一文をどう読んだか、想像するほかはない。ただ、この頃を境に、勝静が国元へ宛てる書状の中で、方谷への言葉遣いが、いっそう丁重になっていったという事実だけが残っている。
生麦事件の賠償をめぐる異国との折衝、朝廷から下された攘夷の勅命。守れという命と、守れば立ち行かぬ現実との間に、老中という職はあった。
「攘夷を実行せよとの、勅命が……」
「殿、いかがなさいます」
勝静は答えなかった。ただ、深く息を吐くのみであった。
勝静はやがて、その職を一度追われる。慶応元年、ふたたび任じられるまでの空白の日々、勝静が何をして過ごしたか、書き残したものはない。
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⭐︎⭐︎⭐︎ 第八幕 三策
慶応二年、第二次長州征討。勝静は長州への寛典を説いたというが、その声は幕閣の議場の中で、次第に小さくなっていったのであろう。
戦況は悪化の一途をたどった。勝静は、国元の方谷に早馬を送った。
「事の次第を知らせる。この後、いかに動くべきか」
国元から届いた返書には、病躯を押して考え抜いたという三策が記されていた。大挽回、小挽回、そして――みずから最大の愚策と断った――一時姑息。
勝静は、その文をひとり、幾度も読み返した。
「大挽回、か……果たして、これが叶う世であろうか」
事態は結局、方谷みずからが最も危ういと断じた道筋をなぞって収束した。勝静の手元には、方谷から届いた三策の文書が残っていたはずである。その紙を、彼が幾度読み返したか、誰も知らない。
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⭐︎⭐︎⭐︎ 第九幕 老中首座
家茂が世を去った報せは、大坂から早馬で届いたという。城中に立った線香の匂いは、幾日も、廊下の隅々に残り続けた。
新たに将軍位に就いた慶喜は、勝静に厚い信を置き続けた。
「勝静、そなたには、老中首座、そして会計総裁を務めてもらいたい」
二百数十年続いた幕府という船の、舵と財布の両方を、勝静は同時に握ることとなった。
慶応三年、前土佐藩主・山内豊信の建言による大政奉還の議が持ち上がった。勝静は国元の方谷に密書を送った。
「上奏文の文案を、考えてほしい」
早馬が備中と江戸の間を幾度も往復した。方谷が病床の傍らで筆を執り、書き上げた文案が、街道の土埃を浴びながら江戸へ運ばれ、慶喜みずからの手で清書される。
十月十四日、その文書は朝廷へ差し出された。
もっとも、この上奏文の実際の筆者については、幕臣・永井尚志によるとする説が、今日ではより有力とされている。方谷の関与を確かなものとする史料は、なお十分ではないという。真実がどちらにあったにせよ、勝静が遠く離れた国元の老臣を頼り、その言葉を通じて時代の切所に立ち会おうとしたこと――その姿勢だけは、疑いようもなく残っている。
その夜、勝静はいつもより長く、行灯の芯を切っていたという。切った芯の先が、闇の中で小さく赤く灯り、やがて消えた。
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⭐︎⭐︎ 第三部 朝敵となりて
⭐︎⭐︎⭐︎ 第十幕 大坂からの敗走
正月の大坂は、いつもなら初売りの声で賑わう頃であった。だが明治元年一月、城中に響いていたのは、遠く鳥羽の方角から届く砲声であった。
「殿! 旧幕府軍、敗色濃厚とのこと!」
戦況を告げる使者が、次々と城内へ駆け込んだ。その足音の乱れ方だけで、旗色は察せられた。
一月六日の深夜、慶喜は城をひそかに脱した。勝静もまた、この列に加わった。酒井忠惇、松平容保、松平定敬――昨日まで幕政の中枢にあった男たちが、闇に紛れ、裏門から抜け出す。
開陽丸へ向かう道すがら、勝静の草履の底には、大坂の砂が食い込んでいたであろう。数刻前まで老中首座として座していた城を、彼は一度も振り返らなかったと伝わる。
甲板の上、江戸へ向かう船足は、来た時よりも重く感じられたという。
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⭐︎⭐︎⭐︎ 第十一幕 松山の苦境
勝静の不在は、遠く備中の地に、静かな崩落をもたらした。
新政府は岡山藩に、松山討伐の命を下した。国元に残った方谷は、抗戦の覚悟を固めていたというが、朝敵の名を負った藩が兵を構えることは、城下の民の家々に火を放つことと同義であった。
「城を、明け渡す」
評定の座で交わされた言葉の多くは、記録に残っていない。ただ、その結論に至るまでの日数は、驚くほど短かったという。
勝静を、生きながらにして「亡き者」とする手続きが、国元で進められた。強制隠居、そして養子・勝弼への家督の付け替え。
「殿がまだ息をしておられるのに……」
筆を執った家老の手が、その一行を書き終えるまでに、幾度も止まったのではないか。想像するほかはない。
玉島に帰還した松山藩隊、その将であった熊田恰の首級を、岡山藩は求めたという。慶応四年一月二十二日、熊田はみずからの腹に刃を立てた。その日、玉島の港には、いつもと変わらぬ潮が満ちていたはずである。一人の家臣の血によって、松山の甍は焼けずに済んだ。
江戸にあった勝静は、一月二十九日、老中の職を辞した。二月十九日、逼塞。三月、下野日光山への屏居が命じられた。
山中の庵は、大坂城の広間とは、天と地ほど違う広さであった。障子の外では杉の梢が鳴り、その音は、かつて備中で聞いた水路の音とも、白河で聞いた雪の音とも似ていなかった。ただ、風が吹くたびに一様に鳴る、単調な音であった。
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⭐︎⭐︎⭐︎ 第十二幕 五稜郭まで
新政府は、なお勝静を宇都宮へと移し、英巌寺に軟禁した。寺の庫裏から見える空は、格子越しに切り取られ、いつも同じ大きさの四角形をしていたという。
宇都宮の地に戦火が及んだとき、大鳥圭介率いる旧幕府軍が、その格子を破った。
「殿、ご自由の身にございます」
自由の身となった勝静が向かった先は、恭順の道ではなかった。
小笠原長行、松平定敬とともに、勝静は奥羽越列藩同盟の参謀となった。老中首座として時代の扉を朝廷へ差し出した男が、いまやその扉の向こうにある新しい世へ、みずから抗おうとしていた。
国元では、勝静が同盟軍にあるとの報せが届くたびに、藩内の空気が張り詰めたという。明治二年二月、嫡男・万之進は宇都宮の官軍に引き渡された。父と子の間には、もはや書状一つ交わす術もなかった。
定敬、長行とともに、勝静はさらに北へ、東北の戦線を転々とし、ついには箱館の五稜郭にまで至ったという。同行した松山藩士の中には、新選組の隊列に加わり、土方歳三の下で戦った者もあったと伝わる。星形の城郭を吹き抜ける風は、備中の山風とも、江戸城中の廊下を渡る風とも、まるで違う冷たさを持っていたであろう。
国元の方谷は、この勝静の選択を、ついに好ましくは思わなかったという。国元へ届く風聞のたび、方谷がどのような顔をしていたか、書き残す者はいなかった。ただ、方谷が松山の廃城となった跡地を訪れ、崩れかけた石垣の前に、長く立ち尽くしていたという話だけが、後年まで語り継がれている。
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⭐︎⭐︎ 第四部 赦されて後
⭐︎⭐︎⭐︎ 第十三幕 プロシア船
箱館の海は、備中の水路とも、大坂の内海とも違う色をしていたという。灰を溶かしたような、重い青であった。
その海を渡って、一艘の異国船が箱館に近づいた。プロシア人の商船長に、方谷が話をつけたのだという。
「陣中見舞いにございます」
商船長の言葉に、勝静は疑う様子もなく、船へと招かれた。松山藩士を乗せたその船は、やがて出港した。
半ば連れ戻される形での帰還であった。縄目を受けたわけでも、刃を突きつけられたわけでもない。ただ、国元から遣わされた藩士たちの、静かに、しかし決して退かぬ物言いに、勝静はついに折れたのであろう。船室の丸窓から見える波頭は、行くたびに南へ向かって流れていった。
方谷は初め、勝静を外遊の名目で外国へ逃がし、ほとぼりを冷まさせるつもりであったという。だが藩の帳簿は、かつて方谷みずからが立て直した頃の余裕を、もはや持ち合わせていなかった。藩内からは、一日も早く自首すべきだという声が、幾つも重なって上がるようになった。
明治二年五月二十五日、勝静は江戸へ戻った。翌日、彼はみずから新政府の門を叩いた。
八月十五日、嫡男・勝全とともに上野安中藩へ預けられた勝静の身の回りには、老中であった頃の調度品は、もう何一つ残っていなかったという。
終身禁固。その一室の畳は、日を追うごとに、同じ場所ばかりが擦り切れていったであろう。
その翌月、松山藩は二万石の減封を受けながらも、再興を許された。
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⭐︎⭐︎⭐︎ 第十四幕 赦免
明治五年一月、特旨による赦免の報せが、安中の一室に届いた。
「勝静様、赦免にございます」
自由の身となった勝静が、まず口にしたのは、みずからの復権についてではなかったという。
「方谷は、息災であろうか」
方谷への労いの言葉を、まず口にした。そして、新藩主・勝弼への一つの指示を託した。
「わし自身や、旧臣への遠慮から、家督を勝全に譲るようなことがあってはならぬ。伝えてくれ」
すでに過ぎ去った己の時代を、若い当主の行く手に横たえるつもりは、なかったのであろう。
明治八年、勝静は高梁の地を踏んだ。五年ぶりの再会であった。
長瀬の旧方谷邸で、二人は向かい合った。
「方谷……息災であったか」
「勝静様こそ。よくぞ、ご無事で」
高梁川の水音は、かつて勝静が藩主として聞いていた頃と、変わらぬ調子で流れていたという。方谷の姿は、記憶にあるものより、幾分小さくなっていたかもしれない。
二人がその夜、どのような言葉を交わしたか、書き残す者はいなかった。ただ、燭台の火が、いつもより長く灯され続けていたとだけ、伝わっている。
老中として時代の頂に立ち、朝敵とされ、箱館の果てまで転戦し、幽閉の畳の目を数えて過ごした男。国元にあって藩を守り、家臣一人の命と引き換えに城下を戦火から救い、病躯を押して主君を海の向こうから連れ戻した男。二人の間に横たわる歳月の重みを、言葉にする必要は、もはやなかったのであろう。
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⭐︎⭐︎⭐︎ 第十五幕 方谷山田先生墓
明治九年、勝静は上野東照宮の祀官に任じられた。かつて徳川の宗家に老中として仕えた身が、いまその廟を守る役に就く。
勝弼、三島中洲、川田甕江らとともに、勝静は第八十六国立銀行の設立にも関わったという。かつて方谷とともに藩札を焼き、鉄と炭の産を興した手が、いまは紙幣と帳簿を扱う新しい仕組みに触れていた。
明治十年、方谷が小阪部で世を去った。その報せを受けた時、勝静は何も言わず、しばらく座したままであったという。
「方谷の墓に……この身が、筆を執ろう」
勝静は、その墓石に刻む「方谷山田先生墓」の七文字を、みずから筆を執って揮毫した。墨を磨る間、彼の手はどれほどの時をかけたであろうか。硯に落ちる水の音、筆先が紙に触れる瞬間のかすかな抵抗――そうした一つ一つの感触の中に、老中の座も、朝敵の名も、幽閉の日々も、静かに溶け込んでいったのかもしれない。碑文の文面は、勝静の命により三島中洲が起草した。
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⭐︎⭐︎⭐︎ 終幕 吉祥寺の苔
明治二十二年四月六日、勝静は東京の私邸で世を去った。享年六十六。
墓所は本駒込の吉祥寺に定められた。そのほど近くには、かつての側近・川田甕江の墓もあるという。境内の樹々は、白河の雪とも、備中の赤土とも、箱館の重い青の海とも無縁に、ただ東京の空の下で、四季の色を繰り返していく。
八男に生まれ、山国の小藩を継ぎ、農商の出の学者を重んじて藩の財を立て直し、幕政の頂にまで昇りながら、時代の激流の中で朝敵の名を負い、なお生き延びて、赦されたのちの日々を、静かに閉じた。
徳川の世の落日を、その身一つで浴び続けた男の生涯は、こうして、本駒込の一角の、苔むした石の下に収められている。
(了)
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*本作は板倉勝静の生涯にまつわる史実の骨子を踏まえた小説的構成であり、会話や心情の細部は創作を含みます。とりわけ大政奉還上奏文の起草をめぐる方谷の関与については、学術的に確証があるとまでは言えない伝承的要素を含むことを、あらためて申し添えます。*




