記憶リセット :約2000文字
「――つまり、頭に装着したパッドからごく微弱な電流を流すことで、消したい記憶だけを選択的に消去することができるのです」
とあるビルの一室。白衣を着た男はそう言うと、ゆっくりと振り返った。
白い壁と天井に囲まれた無機質な空間。機械の低い駆動音が絶え間なく響いている。
歯科治療用のイスを思わせるヘッドレスト付きの椅子に、患者は身を縮めるように座っていた。額には金属光沢を帯びたパッドが密着し、そこから何本もの細いケーブルが伸びている。
「正式名称は長期記憶領域再編成手術。まあ、わかりやすくメモリーフレッシュ……いや、記憶リセットと呼びましょうか」
白衣の男は薄く笑みを浮かべ、机の上に整然と並んだ機材とモニターへ向き直った。
「手順は単純です。まず、対象者に消したい記憶をできるだけ強く鮮明に思い出してもらいます。すると脳内活動が解析され、このモニターに可視化されます。内容を確認したうえでスイッチを入れ、電流を流す。それだけで、嫌な記憶とは永遠にお別れというわけです。ふふっ、実に画期的でしょう」
白衣の男は振り返り、患者の顔を覗き込むようにして問いかけた。患者はぼんやりとした表情のまま、わずかに喉を鳴らし、小さく頷いた。
「記憶を消すことで、幼少期の虐待、性的暴行、いじめ……そうしたトラウマに歪められた人生を、本来あるべき軌道へ戻すことが期待できます。さて、あなたはどんなトラウマを抱えているのですか?」
白衣の男は再びモニターに向き直った。
「よおく、思い出して」
男とモニターを交互に見やりながら、柔らかな声色で促す。
「そうです。思い出して……さあ……」
灰色の画面に微細なノイズが走った。次に、波形のような揺らぎが広がり、やがて古いブラウン管テレビのように色褪せた映像が滲むように浮かび上がってきた。
「ほう……これは性的虐待ですね……。加害者は実の父親ですか? ……違う? 継父ですか」
白衣の男は短く息を吸い、「ああ……」と悲嘆の声を漏らした。
「それで、あなたの人生は大きく狂ってしまった。学校に行かなくなり、素行の悪い仲間とつるみ、ドラッグと性行為に明け暮れるようになった」
白衣の男はモニターを見つめたまま、小さく何度か頷いた。
「性被害を受けた人間は、性に対して極端に閉鎖的になるか、あるいは過剰に開放的になるか、そのどちらかに振れやすい。あなたは後者だったわけだ」
患者の頬を、一筋の涙が静かに伝った。白衣の男は一瞬だけ目を見開き、すぐに閉じて深く息を吐いた。
「つらかったでしょう……ええ、わかります。実は……私の娘も暴行を受けたんです。だから、以前から研究していたこの装置の開発を急いで進めたんです」
そう言いながら、白衣の男はパソコンの操作を始めた。
「嫌な記憶を消し、人生を取り戻してもらうために……。娘が襲われたのは五年前、高校二年の夏でした。夜道で、自転車に乗った男に後ろから殴られ、空き家の塀の裏に引きずり込まれた……。犯人は捕まりました。ですが量刑は軽かった。まあ、判例どおりですがね。こちらとしては、一生刑務所に入れておいてほしかったですが……まあ、無理でしょう」
声が掠れ、白衣の男は咳払いをした。
「時が傷を癒す、なんて言いますよね。確かに一年、二年と経つうちに、娘にも少しずつ笑顔が戻りました。ですが三年、四年……犯人の刑期終了が近づくにつれ、娘の精神状態は悪化していった。私は装置の完成を急ぎました。ですが……間に合わなかった」
「あ、あう、う……」
「……娘は一年前に首を吊りました」
「う、う、うう……」
患者が喉の奥からくぐもった声を漏らし、大きく身をよじった。白衣の男は振り返り、小さく頷くと、再びモニターへ視線を戻した。
「そうです。その子ですよ。あなたが暴行した、私の娘です」
「う、う、あ、う……」
「楽しかったですか? 気持ちよかったですか? 他に何か、性的暴行以外に楽しいことはなかったんですか? ……ああ、仲間と海に行ったんですか。それはいい思い出ですね。バーベキューに、喧嘩、いや、カツアゲですか。ははは、あなたの人生には常に暴力がついて回っているんですね。……それはさておき、性犯罪者が再犯を繰り返す理由の一つは、『快感を忘れられない』からだと言われています。この記憶リセットが実用化されれば、きっと再犯抑止にも大いに役立つでしょう。……ほら、消しましたよ。気分はどうですか? それから、この記憶も消しましょう。それからこれも、これもこれも、これも、これも、これもこれもこれもこれも――」




