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帰郷

作者: 星賀勇一郎
掲載日:2026/01/21





こんなに足の重い里帰りがあるのだろうか。


私は開襟シャツの胸元のボタンを一つ外し、汗ばむ身体に使い込んだ扇子でパタパタと風を入れながら、汽車の窓から入って来る鉄の燃える臭いを吸い込んだ。

この臭いで具合が悪くなる人も多く居り、私はたまたまその臭いが平気なだけで、得意と言う訳では決して無い。

現に向かいに座る御婦人は具合が悪そうで、顔色が悪い。下関驛で買った弁当にも手を付けないまま、私はじっと窓の外を見る。

無駄に青い玄界灘が眼下に広がり、海鳥が飛んでいるのが見える。


普通の里帰りであればこんな景色も楽しめたのかもしれないが、この度の里帰りはそうはいかない。

そして博多驛が近付くにつれて、私の胸はどんどん重くなって行く。

昨日の朝、品川驛を出た時はこの旅を楽しもうという気持ちもあったのだが、それも深夜に神戸驛を出る頃には随分と気持ちも沈んでいた。


私の家は江戸の時代より博多で呉服問屋を営む、友人たちから見ると羨まれる程の裕福な暮らしだった。


兄貴の喜三郎はその呉服屋を継ぎ、今では筥崎の方に新しい店を建てたという。

私はその裕福さが悪かったのか、店の手伝いもせずに本ばかり読み、親父殿に頼み込んで、東京の帝大へと進学させてもらった。

その後は新聞社に就職したが、物書きになりたいという夢を捨て切れずに、一年程前に仕事を辞め、ある作家の門下生として小説を書く日々を送った。

最初は蓄えもあり、何とか暮らせていたのだが、今ではその蓄えも雀の涙程になってしまい、親父殿に借金のお願いする手紙を送った。

帝大時代にも何度かそんな手紙を送った事はあったが、その時は翌週に現金書留で金が送られて来た。

しかし、今回は様子が違い、「一度、帰って来い」と書かれた手紙と汽車の切符が同封されているだけで、私は思い腰を上げた。

勿論、親父殿の手紙に切符が同封されていなければ博多に帰る事も困難だったが、片道だが切符がある事で、とりあえず博多に帰る事にした。


借金をするための里帰り。

盆、正月に帰るのとは訳が違い、どうにも気が重い。

帝大を出る時に買った一張羅の背広と洗濯屋に出していた白い開襟シャツを押し入れから引っ張り出し、虫食いが無い事を確認して、それを着て汽車に飛び乗った。

土産を買う金も無く、友人の高濱に金を借りて、品川驛でユウロップのバウムクーヘンを買った。

私も何度も口にした事は無い。

先生の家で二度程薄く切ったモノを食べた事がある程度だ。

初めて食べた時は口の中にその甘味が無くなるまで珈琲で流し込む事も躊躇われた程だったのを覚えている。


窓から見える宗像の海は故郷に帰って来た気持ちにさせた。

その風景に微笑み、私は窓際に置いた弁当の包みを開く。

良く晴れたその海の向こうに沖ノ島が浮かぶ。

この島は島自体がご神体であると言われており、立ち入りが禁止されていると聞いた事があり、私も陸から見た事しかない。


そんな風景を見ながら私は下関驛で買った弁当を貪る様に口にした。

味等わからない、それ程に私の胸は重いモノに圧し潰されそうになっていた。







「生きて行くには金が必要だからな」


同門の岸谷が、カフェで麦酒を飲みながら私に言った一言は重く、先生がいつも持っておられるステッキの柄で鳩尾を突かれた様な気分になった。

先生のステッキは英国で購入されたモノで、絵の部分は真鍮製で二頭の獅子が彫刻されていた。

玄関に置かれたそのステッキが倒れると、甲高い金属音が響く。


カフェの飲み代さえ払えない私はその岸谷の言葉に微笑むしかなく、その私の顔は引き攣っていたに違いない。


「何で新聞社を辞めたんだ。新聞社で働きながらでも小説は書けただろうに」


岸谷はそう言った。

彼の言う事も一理あるのだが、私の覚悟は新聞社で仕事をしながら書く程度のモノでは無かったのだ。

それを岸谷に説明しても理解されないだろうと思い、私は口を噤んだ。


「俺がお前に貸せる金等たかが知れてる。親、兄弟にでも金を借りて、生活が出来る基盤を作るしかないな」


岸谷はそう言ってまた麦酒を飲み干し、冷えた瓶からまた麦酒をグラスに注いだ。


岸谷は裕福な家の末っ子で、私と歳は変わらないのだが、未だに脛を齧って生活している。

それが私は正直羨ましいとも思った。


先生の門下生は五十名程居たが、裕福な岸谷の様な者から、食う事にも困っている者も多く居た。


私はそのどちらにも属さない中途半端な人間なのかもしれない。


「物書きはそれなりのフングリヒ精神が無いと大成はしない」


先輩の武田修吾郎が先生のサロンでそう語っていたが、それを岸谷は鼻で笑っていた。

所謂、現状に満足せずに上を目指せという事なのだが、片言の独語を語りいけ好かない先輩に映ったのだろう。

確かに、暮らしに困らず、物書きにならずとも食っていける岸谷には、フングリヒ精神などはわからないのかもしれない。


そんな岸谷を馬鹿にしている私がいつも居て、岸谷とは違うという意識を拭い去る事は出来なかった。


私は必ず物書きになる。






博多驛。

この九州の中心となる驛で、私の実家のある天神へは北口から出る。

金のある人間なら馬車でも拾うのかもしれないが、私は天神まで歩く。

西へ半時程歩けば着いてしまう距離だ。

そう、着いてしまうのだ。


私は故郷である博多の空気を胸いっぱいに吸い込み、ゆっくりと息を吐いた。

何処と無く懐かしい気持ちになった。

しかし、そんなノスタルジックな気分を味わう事は出来ず、更に重くなった足を引き摺りながらゆっくりと西へと歩き始めた。

こんな気持ちで実家へ帰る日が来るなんで考えた事も無かった。

もっと実家が遠ければ良いのに。

そんな風に考えたのも初めてだった。


独国製の革靴はその底に鉛でも仕込んであるかの様だった。


どんな顔をして実家の敷居を跨げば良いのか。

そんな事を考えれば考える程に私の足は重くなる。

使い古した革製のトランクとユウロップのバウムクーヘンの入った紙袋が歩く度に揺れて擦れる音がする。

その音が、私を地獄へ一歩一歩近付けている様に聞こえて、不快だった。


東京から博多まで、何度も乗換えて、金を借りにやって来た。

そこまでしても生きて行くために親父殿に頭を下げなければいけない。

そんな自分が情けなく、親父殿や家族に合わせる顔がないと考えてしまう。


私は何をやっているのだろうか。

交差点で馬車が通り過ぎるのを待ちながら、私はじっと町並みを見た。

こんな思いで実家に帰る者がどれほどいるのだろうか。


私は無駄に晴れた空を見上げた。

このまま帰ってしまおうか。

私は来た道を振り返る。

いや、帰ろうにも帰りの路賃の持ち合わせも無い。

親父殿もそれを見越して片道分の切符を送って来たのだろう。

親父殿の策略に嵌ってしまったのだ。

そう、私は実家にこの情けない顔を見せに帰るしかないのだ。

それだけじゃない、親父殿に、「もう東京には帰るな。博多に残って呉服屋を兄貴と一緒に営め」と言われるとそれしか私が生きる道はないのだ。


私は再び立ち止まり、大きく溜息を吐いた。

それは東京で過ごした年月を全て吐き出してしまう様な溜息だった気がした。


舗装された道の脇に革製のトランクを置いて、私は腰かける。

そして背広のポケットから煙草を取り出し咥えた。

東京へ行き、覚えたモノの一つだ。

燐寸を擦って火をつけると空に向かって煙を吐く。

煙草は先生をはじめ、多くの門下生が吞んでいた。

それは先生を真似たモノで、今風に言うとファッションの一つなのかもしれない。

それだけじゃない。

この背広も革靴も髭もそう。

全てが小説家である先生の格好を真似たモノで、自分らしさを私は東京で失くしてしまったのかもしれない。

そんな私をモダンだと親父は思うのだろうか、それとも幻滅するのだろうか。

私は煙草を持つ手を小さく震わせながら、先に見える天神の商店街の入口を見た。

その入口が地獄の入口の様にも見えた。


「金を貸して欲しい」そう手紙に書く事もそれなりに重く感じた。

そしてそれを面と向かって親父殿に頭を下げる事はもっと重い。

胸の中に鉛が沈殿した様な気分で、私は俯いて石畳を見る。

その幾何学模様の様な石畳を目で追いながら、私は溜息で煙草を吸い、まだ長いその煙草を石畳の上に叩きつける様に捨て、革靴の爪先で踏みつけた。


よし、行こう。


私は重い腰を上げて歩き出した。


金を借りても命まで取られる訳じゃない。

それに、小説家になれば、親父殿にその金を耳を揃えて返せば良いだけの話じゃないか。

自分にそう言い聞かせながら私は実家へと歩を進めた。






古い看板が聳える様に掲げてある店の前に立った。

頭の先から両足の先まで、凍った様に私は固まってしまった。


この胸の痞えは結局最後まで解消されなかった。

品川から博多まで。

その距離を使っても解消できない、解消できないどころかその痞えは酷くなった。

それ程の事を私はやろうとしているのか。

親父殿に金を借りようという行為はそれ程の事なのか。


私は見上げた看板から視線を落とし、薄暗い店の中を見た。

使用人が忙しく走り回っているのが見える。


変わらないな。


私はそれを見て、家を出る前と何も変わらないその様子に微笑んだ。

此処で微笑む事が出来るのか。


私はゆっくりと店の中に入る。

その一歩が私には永遠の時間の様に感じた。

そしてこの世とあの世の境の様にも思えて、気を失ってしまうかと思った程だった。


此処まで来た。

この瞬間は永遠に訪れない。

そんな風に考えていたが、とうとう私は実家の敷居を跨いだ。


此処まで来たら、もう自分に出来る事は一つしかない。

素直に親父殿に頭を下げて、金を工面してもらう。

それしかないのだ。

駄目なら駄目で、金を稼げる仕事をしながら物書きになろう。


胸の中で、自分にそう言い聞かせる様にして、框に革製のトランクと紙袋を置き、腰を下ろして革靴を脱いだ。


「おう。帰ったか」


私はその声に顔を上げた。


「ただいま」


私はそう言うと顔をあげて親父殿に微笑んだ。








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