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静かな山の音

作者: 久遠 睦
掲載日:2025/11/06

すべてを背負って


佐藤水月、四十七歳。彼女の一日は、まだ薄暗い午前五時半、けたたましく鳴るアラームを叩き潰すことから始まる。まるで号砲だ。そこから先は、息継ぎも許されない全力疾走。夫の健司、高校生の息子・悠希、中学生の娘・花。三者三様の生活リズムを完璧に把握し、先回りして障害物をどけていく。それが彼女の役割だった。


火曜日の朝も、例外ではなかった。悠希のためのボリューム満点の肉弁当と、ダイエットを気にする花のための野菜中心の弁当。二つの弁当箱を寸分違わぬ手際で仕上げながら、水月の頭の中では無数のタスクが明滅していた。悠希の数学の宿題、ちゃんと終わらせたかしら。花に塾の時間をもう一度言っておかないと。洗濯機は二回回さなければ。ああ、そうだ、部長からの急ぎのメールに返信しないと。まだ一口もお茶を飲んでいないというのに、思考はすでに会社のデスクに飛んでいる。

彼女の人生は、高速で回転する独楽のようだった。仕事、子育て、家のこと。その三つの要素が絶妙なバランスを保ち、猛烈なスピードで回り続けることで、かろうじてその形を維持している。周囲からはよく「生き急いでいる」と言われた。その言葉が、水月にはいつもピンとこなかった。急いでいるのではない。走り続けなければ、この独楽はバランスを崩し、派手に倒れて粉々になってしまうのだ。その恐怖だけが、彼女を駆り立てる唯一の原動力だった 。


「いってきます」。家族を送り出し、最後に玄関のドアを閉める。その瞬間、どっと疲労が押し寄せる。まだ一日が始まったばかりだというのに、まるでフルマラソンを走り終えた後のような倦怠感。それでも彼女は、自分に鞭を打つ。完璧な妻、完璧な母、完璧な管理職。そのどれか一つでも欠けてしまえば、すべてが壊れてしまう。その強迫観念にも似た責任感が、彼女という人間そのものだった 。

水月は、マーケティング会社の課長として、周囲から厚い信頼を得ていた。その勤勉さと、どんな困難なプロジェクトでも必ずやり遂げる責任感は、誰もが認めるところだった 。しかしその実態は、彼女が一人で全てを背負い込んでいることに他ならなかった。「私がやった方が早いから」。その一言で、部下の仕事まで巻き取ってしまう。彼女の能力の高さは、いつしかチーム全体の思考停止を招いていた。誰もが、最後は佐藤課長が何とかしてくれる、と考えるようになっていたのだ 。


その日、事件は起きた。クライアントからの複雑な要求を、彼女は読み違えた。予算の修正が必要になる、小さな、しかし明確なミスだった。客観的に見れば、誰にでも起こりうる、修正可能な範囲の誤りだ。部長も「大丈夫、すぐに対応しよう」と理解を示してくれた。だが、水月の内面では、地響きが起きていた。失敗。それは彼女の世界において、存在を許されない言葉だった。百点か、零点か。そのどちらかしかない。九十九点という評価は、彼女にとって零点と同義だった 。

一日中、その失敗が頭から離れなかった。まるで自分という存在そのものに、取り返しのつかない傷がついたような感覚。仕事、家庭、育児、夫との関係。そのすべてを繋ぎとめている見えない糸が、一本、ぷつりと切れてしまったような気がした。彼女の完璧さは、すべてをコントロールできているという幻想の上に成り立っていた。その幻想が、今、目の前で崩れ去ろうとしている。予算の修正額など問題ではなかった。問題は、コントロールを失ったという、その耐え難い恐怖だった。


残業を終え、疲れ果てた体を引きずって家にたどり着いたのは、午後九時を過ぎていた。リビングのドアを開けると、雑然とした部屋が目に飛び込んできた。夕食の準備は、もちろん手つかずだ。ソファでテレビを見ていた夫の健司が、振り返って言った。「お疲れ。なんだか疲れた顔してるな。今日の晩飯、何?」

その何気ない一言が、水月の心の琴線に触れた。一日中、魂をすり減らすような思いで働き、自分の犯した「大罪」に打ちのめされているというのに。この人は、私の内面で起きている嵐になど、全く気づいていない。

「……見てわからない? 何もできてないわよ」 声が、自分でも驚くほど冷たく尖っていた。 「なんだよ、その言い方。こっちだって仕事で疲れてるんだ」 「疲れてる? 私だって疲れてるわよ! あなたはテレビを見てるだけでしょ!」 「いつもいつも、そうやってカリカリして。もう少し肩の力、抜けないのか?」

その言葉は、これまで何度も言われてきた言葉だった。だが、今日の水月には、鋭い刃のように突き刺さった。まるで、これまでの自分の人生すべてを否定されたような気がした。

ダムが決壊した。堰を切ったように、涙が溢れ出す。違う。違うの。肩の力を抜いたら、全部、壊れてしまうから。だから、必死で歯を食いしばって、走り続けてきたのに。その悲鳴は、しかし声にはならなかった。


彼女は寝室に逃げ込み、ドアを閉めた。ベッドに倒れ込むと、もう指一本動かす気力も残っていなかった。疲れた。心の底から、そう思った。その時、初めて、一つの明確な思考が、氷のように冷たく、そして鮮やかに頭に浮かんだ。

『もう、何もかも捨てたい』

それは怒りや絶望ではなかった。このままでは本当に心が壊れてしまうという、生存本能が発した、悲痛な叫びだった 。張り詰めていた糸が完全に切れたその瞬間は、崩壊であると同時に、再生への最初の扉が開かれた瞬間でもあったのだ 。

何者でもなく


翌日、水月はほとんど無意識のうちに行動していた。会社に電話をかけ、溜まりに溜まった有給休暇を一週間分申請する。小さなスーツケースに、最低限の着替えだけを詰め込む。夫と子供たちには、「少し一人になります」とだけ書いたメモを残した。

行き先は決めていなかった。ただ、静かな場所で、一人になりたかった。スマートフォンの検索窓に、「東北」「山奥」「静か」「温泉」「一人旅」という言葉を打ち込んでいく 。観光地ではない、華やかさとは無縁の場所。いくつかの候補の中から、彼女の指が止まったのは、青森県の八甲田山の麓に佇む「酸ヶ湯温泉」だった。江戸時代から続く湯治場としての歴史、そして何より「湯治棟」という、療養を目的としたシンプルな宿泊施設があることに惹かれた 。娯楽ではなく、癒しを求めている自分に、そこはふさわしい場所のように思えた。


新幹線に乗り込むと、窓の外の景色が猛スピードで後ろに流れていく。それはまるで、これまでの自分の人生のようだった。しかし今の彼女には、その景色がどこか遠い、自分とは関係のない映画の一場面のように感じられた。新青森駅でバスに乗り換える。バスが山道に差し掛かるにつれ、空気はひんやりと澄んでいき、車窓を流れる緑の色が深まっていく。九月下旬。山の木々は、ところどころが淡い黄色や赤に色づき始めており、本格的な紅葉の季節の序章を告げていた 。スーツケースから取り出した薄手のジャケットを、水月はそっと肩に羽織った 。

バスを降りると、硫黄の匂いが混じった湿った空気が、水月の肺を満たした。目の前には、長い年月を経て飴色になった木造の建物が、どっしりと構えている 。帳場で手続きを済ませ、案内された湯治棟の部屋は、飾り気のない畳の部屋だった。窓の外には、静かなブナの森が広がっているだけだ。荷物を置くと、彼女は吸い寄せられるように、この宿の象徴である「ヒバ千人風呂」へと向かった。

脱衣所を抜け、浴室に足を踏み入れた瞬間、水月は息をのんだ。そこは、想像を絶する空間だった。体育館のように広大な、百六十畳もあるという浴室。視界を遮る柱は一本もなく、高い天井まで全てが芳しい香りを放つヒバの木で造られている 。湯気で白く霞む空間に、乳白色の湯を湛えた巨大な湯船が横たわっていた。それはまるで、俗世から切り離された神聖な場所のようだった。

お湯に体を沈めると、ふぅ、と長い息が漏れた。何年もの間、無意識にこわばっていた肩の力が、じんわりと抜けていくのを感じる。ここでは、誰も彼女を「佐藤課長」とも「悠希くんのお母さん」とも呼ばない。彼女は、妻でも、母でも、管理職でもない。ただの、名もなき一人の人間だった。この広大な湯船の中では、社会的役割など何の意味も持たない。その匿名性が、水月の心を不思議なほど軽くした。ここは、日常の外にある特別な空間。自分を縛り付けていた全ての役割を脱ぎ捨て、「何者でもない自分」になるための場所だった 。


温泉に浸かり、眠る。ただそれだけの時間を二日ほど過ごした頃、宿の帳場の老人が、水月に声をかけた。「少し、歩いてみませんか。すぐそこに、面白い場所がありますよ」

言われるがままに、宿の裏手から続く「酸ヶ湯温泉自然観察路」と書かれた小道に入った 。ブナの木々に囲まれた、よく整備された歩きやすい道だ。しばらく行くと、視界が開け、不思議な光景が目に飛び込んできた。深い緑色の水を湛えた沼から、白い湯気がもうもうと立ち上っている。「地獄沼」と書かれた看板があった。硫黄の匂いが、一層強くなる。

水月は、沼のほとりに腰を下ろし、ただじっとその光景を眺めた。地球が生きている。その荒々しく、しかし抗いがたい生命のエネルギーが、足元から伝わってくるようだった。自分の悩み、焦り、絶望。この巨大な自然の営みの前では、なんとちっぽけなことだろう。彼女を押し潰していた重圧は、個人的な失敗や欠陥のせいではなかったのかもしれない。それは、ただ、限界を超えるほどの圧力がかかり続けた結果、必然的に起きた噴出だったのだ。地獄沼が善でも悪でもなく、ただそこにあるように、自分の心の噴火も、自然な現象だったのかもしれない。そう思うと、長年自分を責め続けてきた心から、ふっと力が抜けた 。


その夜の夕食は、宿の大広間でいただいた。膳の上には、山の幸を中心とした素朴な料理が並んでいた 。その中に、ひときわ滋味深い味わいの汁物があった。細かく刻まれた大根、人参、ごぼうといった根菜と、山菜、豆腐などが、味噌仕立ての汁で優しく煮込まれている。宿の人に尋ねると、それは「けの汁」という、この地方に古くから伝わる郷土料理なのだという 。

一口、また一口と、ゆっくりと味わいながら、水月は思った。この野菜を育てた人がいる。山で菜を摘んだ人がいる。そして、それを丁寧に刻み、煮込んでくれた人がいる。自分の知らない、たくさんの手と時間が、この一杯に込められている。その当たり前の事実に、胸が熱くなった。

完璧でなくてもいい。特別でなくてもいい。ただ、こうして温かいものを食べ、生きている。それだけで、十分ではないか。

『自分らしく、素直に、あるがままで』

その言葉が、祈りのように心に響いた。そのためには、何かを付け加えるのではなく、むしろ捨てることが大事なのだ。完璧でなければならないという思い込み。すべてを自分で背負わなければならないという傲慢さ。それらを、この静かな山に置いていこう。捨てることは、何かを諦めることではない。本当に大切なものだけを選び取り、身軽になって生きていくための、賢明な選択なのだ 。


帰り道

一週間後、水月は家に帰った。玄関で彼女を迎えた家族の表情には、安堵と、戸惑いが入り混じっていた。その週末、水月は健司と子供たちをリビングに集めた。

彼女は、誰かを責める言葉は一切使わなかった。ただ、静かに、自分の言葉で語り始めた。「私は、今までずっと張り詰めすぎていました。もう、心も体も限界です。だから、これからは、やり方を変えたいと思っています」。彼女は「私は」を主語にして、自分がいかに追い詰められていたか、そしてこれからは何ができて、何ができないのかを、率直に伝えた 。

健司は最初、戸惑い、少しだけ身構えるような表情を見せた。子供たちは、母親の静かだが、有無を言わせぬ真剣な様子に、ただ黙って耳を傾けていた。それは、解決策の提示ではなく、対話の始まりだった。その日から、佐藤家の食卓には、新しいルールが少しずつ生まれていった。家事の分担を見直し、共有のカレンダーアプリを導入した。完璧な清潔さは求めない。「まあ、このくらいでいいか」が、家族の新しい合言葉になった。それは決してスムーズな変化ではなかったが、長い間止まっていた家族という歯車が、ぎこちなくも、再び新しいリズムで回り始めた瞬間だった 。


週が明けて、水月は上司との面談に臨んだ。そこには、以前の彼女のような悲壮感はなかった。

「これまでの私の働き方は、持続可能ではありませんでした。結果として、心身のバランスを崩してしまいました」。彼女は冷静に事実を告げた後、具体的な提案をした。今後は、不必要な残業はせず、午後七時以降のメール対応もしないこと。部下の育成に時間をかけ、適切に業務を委譲していくこと。そのために、会社の研修制度を活用させてほしいこと。そして、可能であれば、管理職としての責任は少し軽くし、専門性を活かせる別の役割を担いたいこと 。

それは、会社にとっては意外な申し出だったかもしれない。しかし、経験豊富な社員を燃え尽きさせて失うよりも、彼女が長く健康に働き続けられる環境を整えることの方が、会社にとっても有益である。幸いにも、彼女の会社には、そうした現代的な視点があった 。彼女の提案は、前向きに検討されることになった。


数ヶ月が経った。水月の日常は、静かに、しかし確実に変わっていた。定時でオフィスを出る彼女の背中を、もう誰も咎めるような目では見ない。キッチンでは、健司が少し焦げた魚を皿に盛り付け、それを見て家族が笑っている。日曜日の朝、水月は一人で近所の公園を散歩する。誰のためでもない、ただ自分がそうしたいからという理由だけで。

家の中は以前より少しだけ散らかっているかもしれない。スケジュール帳の余白も増えた。でも、家を包む空気は、明らかに軽やかになっていた。

ある日の夜、水月はリビングのソファに座り、目を閉じた。夫が皿を洗う音。子供たちがそれぞれの部屋で過ごす気配。かつて彼女の頭の中で鳴り響いていた、タスクリストを読み上げるようなけたたましいノイズは、もうどこにもなかった。代わりに聞こえてくるのは、穏やかで、満ち足りた静けさ。それは、あの八甲田の山奥で出会った、静寂の音によく似ていた。

彼女は、あの旅から何かを持ち帰ったのだ。それはお土産でも、思い出の写真でもない。どんな場所にいても、自分の内に静かな山を保つことができるという、確信だった。独楽はもう回っていない。彼女の人生は、どっしりと大地に根を下ろした、一本の木のように、静かにそこに立っていた


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