第九話
深夜の冷え切った空気が肺を刺す。俺は、巨大な沈黙の塊のような病院を目の前にして、立ち尽くしていた。スマートフォンのホーム画面には、無機質な数字が「01:22」と表示されている。
「……馬鹿みたいだ」 踵を返し、この場を去ろうとした、その時だった。 ふと、言いようのない気配に引かれるように、俺は病院の壁を見上げた。無数にある窓の一つ、その中に、淡い光が灯っていた。そして、そこに立つ人影。
息が、止まった。 少し痩せたように見える。だが、見間違えるはずがない。黒子だった。 まるで運命の悪戯のように、彼女はこちらに顔を向けた。そして――目が、合った。彼女の瞳が驚きに見開かれるのが、手に取るように分かった。
もどかしさに唇を噛み締めながら、俺はポケットからスマートフォンを取り出した。 だが、指が動かない。この期に及んで、まだ体裁を気にしているのか。 『会わないで後悔する覚悟が、先生にないだけじゃないですか』 相澤さんの言葉が脳裏に蘇る。そうだ。俺に必要なのは、気の利いた言葉じゃない。覚悟だ。
俺は、震える指で文字を打ち込んだ。 『黒子さん、あの時は本当に申し訳なかった』 送信ボタンを押す。既読はつかない。それでも、と俺は続けた。あの日からずっと後悔していたこと。自分の弱さがどれだけ彼女を傷つけたか、今になってようやく分かったこと。そして、どうしても直接会って話がしたいこと。思いつく限りの、飾らない言葉を、祈るように送り続けた。
【黒子 view】
眠れない夜。 薬のせいか、それとも心がざわついているのか。静まり返った病室で、私はベッドから起き上がり、窓の外を眺めていた。ただ、ぼんやりと。 その時、病院の敷地の外れに、誰かが立っているのが見えた。こんな時間に、誰だろう。そう思った瞬間、その人影がふと顔を上げた。
「……え」
焦十さんでした。 なぜ、彼がここに?心臓が、大きく跳ねます。痩せた、と思いました。最後に見た時よりもずっと憔悴して見える。私と同じだ、とどこか冷静な自分がそう分析していました。目が合った。彼はひどく狼狽えているように見えました。
どうすればいいのか分からないまま、ただ彼を見つめていると、不意に枕元に置いていたスマートフォンが短く震えました。 画面に表示された名前に、息を呑みます。半年ぶりに見る、その名前。 震える指で通知を開くと、そこには、彼の不器用で、必死な言葉が並んでいました。
『黒子さん、あの時は本当に申し訳なかった』 『ずっと後悔してる』 『会って、話がしたい』
画面が、涙で滲んでいきます。 私が望んでいたのは、父が用意する最高の医療でも、何不自由ない環境でもなかった。 ただ、この一言が聞きたかったのです。そして、伝えなければならないことが、私にはありました。
「我ながら、ちょろい女ね……」 私は急いでコートを羽織ると、癌に蝕まれ痛む身体に鞭を打って、看護師の見回りを避けながら、そっと病室を抜け出しました。




