第八話
彼のアパートを出て実家に戻り、そう日も経たないうちに、私は屋敷の中で意識を失いました。
次に目を開けた時、そこは見慣れない白い天井でした。状況を把握するのに時間はかかりませんでした。自分が倒れたこと、ここが病院であること。全てが他人事のように、すんなりと頭に入ってきます。
医師が私の両親と共に病室を訪れ、二つの事実だけを簡潔に告げました。 一つは、私の身体がかなり進行の進んだ癌に侵されていること。 そしてもう一つは、私のこのお腹の中に、新しい命が宿っていること。
私はただ、静かにその言葉を聞いていました。 不思議なものでした。死の宣告と、生命の誕生。その二つを同時に突きつけられても、心は凪いだままでした。恐怖も、喜びも、何も感じない。ただ、思考の片隅で、彼と暮したあの日々だけが、この無菌室の白い壁よりもよほど現実味を帯びていることだけを、ぼんやりと考えていました。
そこから、私の入院生活が始まりました。 病院の時間は、単調に流れていきます。治療方針を決めるための検査が続き、その合間には、父や母、親戚たちが代わる代わる見舞いに来ました。彼らとの会話は当たり障りのない言葉の応酬に終始し、私の心に空いた穴を埋めるには至りません。
そんな静寂の中で、思い出すのは決まって、彼の顔でした。私が作ったハンバーグを、少し照れたように「うまい」と言ってくれたこと。そして最後に私に向けられた、苦痛に満ちたあの表情。
後悔している、というのとは少し違う。ただ、映画のワンシーンのように、それらの光景が繰り返し、繰り返し、頭の中で再生される。それだけの、日々。
ある日の午後、父が一人で病室を訪れました。 「最高の医者を集めた。金の心配はするな。お前とお腹の子のことは、私がなんとかする」 「……ありがとうございます」 「……あの男と別れて、本当によかった。結果的に、不幸中の幸いだったのかもしれんな」
不幸中の幸い。 父の言葉を、私はただ黙って聞いていました。反論も、肯定もしない。 ただその言葉が、水面に落ちた小石のように、静かだった私の心に、確かな波紋を広げていくのを感じていました。
父が帰り、一人になった病室に月の光が差し込みます。 私は、指輪のなくなった左手を、そっと自分のお腹の上に載せました。 彼が淹れてくれたコーヒーは、いつも少しだけ、ぬるかった。 そんな、どうでもいいことを思い出しながら、窓の外を眺めました。この子が、彼のことを知らずに生きていく。そのことだけが、唯一、現実として私の胸に突き刺さっていました。




