第二話
あれから、一年。俺の心に巣食う不安とは裏腹に、日々は穏やかに過ぎていった。だが、心の染みは消えるどころか、少しずつ広がっていく。財閥令嬢だった彼女を、こんな安アパートで、薄給の教師の帰りをただ待たせている。この罪の意識から、俺は逃れられない。
そんな不安を抱えながらも、俺は夜ごと、彼女の温もりに救われていた。月明かりだけが差し込む薄暗い部屋で、俺たちは互いの熱を確かめ合うように、ゆっくりと肌を重ねる。彼女の白い肌が、月の光を浴びて青白く浮かび上がる。その幻想的な美しさに、俺はまた、自分が場違いな場所にいるような感覚に陥った。
「……黒子」
思わず、彼女の名を呼ぶ。その声は、自分でも情けないほどに震えていた。俺の不安を感じ取ったのか、黒子はそっと指を俺の唇に当て、言葉を封じる。そして、何も言わずに、ただ深く、静かに俺を受け入れてくれた。
彼女の中にいると、俺の卑屈な心は浄化されていくようだった。財閥の令嬢でも、幸薄い教師でもない。ただの男と女として、魂が溶け合っていく。俺は彼女の髪の匂いを吸い込み、その温かい身体を力の限り抱きしめた。この幸せが、この瞬間が、永遠に続けばいい。祈るように、何度も、何度も、彼女の肌に唇を寄せた。
やがて訪れた静寂の中、腕の中で眠る彼女の穏やかな寝息を聞きながら、俺はぼんやりと考えていた。 この温もりと引き換えに、俺はどんな代償を払うことになるのだろうか。
その時の俺は、まだ知らなかった。
————
だがある日の夕方、アパートの前に、場違いな一台の黒塗りの高級車が停まっていた。それは、俺たちが捨ててきた世界の象徴。後部座席から降り立った初老の男、黒子の家で執事をしている水島が、俺に静かに歩み寄ってくる。
「お嬢様の母親ですが、心労がたたり、お倒れになりました」
その言葉は、予期していた罰がついに下されたという宣告のようだった。俺が黒子を奪ったせいだ。
そして、彼は内ポケットから封筒を取り出した。 「お嬢様と、別れていただきたい。これをお納めください」 「……ふざけるな」 絞り出した声は、怒りよりも恐怖で震えていた。
「あなたは、お嬢様を幸せにできますか?財産も、家柄も、何一つないあなたが」
――守り通せるのか? その問いは、水島のものではなく、俺自身の心の奥底から響いてくる声だった。この一年、片時も忘れることのなかった自己への問いだ。義父に侮蔑されたあの日から、ずっと俺を苛み続けている亡霊。
ぐらり、と足元の世界が揺らぐ。そうだ、俺には何もない。必死で働いても、彼女が本来いるべき世界には、指一本届かない。
「あなたがお嬢様を本当に愛しているのなら、何をすることがお嬢様の本当の幸せに繋がるのか」
水島の言葉が、俺の最後の砦を打ち砕いた。彼は封筒を俺の胸ポケットにねじ込む。鉛のようなその重みは、金の重さではない。俺の無力さの重みだ。
背後でドアが開く。買い物袋を提げた黒子が、いつものように微笑んでいた。 「あら、焦十さん、お帰りなさい」
その笑顔が、今はひどく痛い。俺は無理やり歪んだ笑みを浮かべ、彼女から買い物袋を受け取った。その日を境に、俺の中で何かが決定的に壊れ始めた。




