第十話
一向に「既読」のつかないスマートフォンの画面から、俺はゆっくりと顔を上げた。希望を託した光の窓は、今はただの黒い四角形に戻っている。さっきまでそこにいたはずの彼女の姿は、もう見えなかった。
まあ、当たり前か。 心のどこかで予期していた結末に、乾いた笑いがこみ上げる。彼女はもう、俺のいない人生を歩き始めている。それが、彼女の答えなのだ。
空虚な気持ちで、俺はアスファルトに踵を返した。もう、彼女の平穏を、二度と乱してはいけない。 そう、自分に言い聞かせた、その時だった。
「焦十さん!」
真夜中の静寂を突き破る、切実な声。俺の耳に、そして心臓に、直接突き刺すようなその響きに、弾かれたように振り返る。 そこに立っていたのは、コートを一枚羽いただけの、やつれた姿の黒子だった。
「く、ろこ……?」
なぜ、ここに。病院の入り口から必死に走ってきたのだろう。彼女は肩で大きく息をし、その体は痛みに耐えるように微かに震えていた。なにより、その美しい瞳からは、大粒の涙がとめどなく溢れていた。
「待って……!」 僕の目の前に駆け寄った彼女は、途切れ途切れの声で言った。 「私も、あなたに謝りたいこと……伝えたいことが、たくさんあるの」
彼女に非など、一つもないはずなのに。全ては俺の弱さが招いたことなのに。彼女は、俺に謝りたいというのだ。
「馬鹿、言うな……!謝るのは俺の方だ!それより、なんだその格好は!病気なんだろう?こんな時間にそんな格好で外に出て……!」 俺は、自分が何を言っているのかも分からなかった。ただ、目の前の彼女があまりに儚く、今にも消えてしまいそうで、恐怖で気が狂いそうだった。
「すぐ中に戻るんだ!体が冷え切ってる!」 俺が彼女の腕を掴もうとすると、彼女はそれを振り払うように、首を横に振った。 「嫌……!今、話さないと、もう二度と話せなくなる気がするの!」 その瞳は、鬼気迫るほどの真剣さで俺を射抜いていた。
俺たちは、病院の敷地内にある近くのベンチに腰を下ろした。冷たい鉄の感触が、現実感を際立たせる。隣に座る彼女の震えが、俺にも伝わってきた。
先に口を開いたのは、彼女だった。 「ごめんなさい。私、あなたの苦しみに、何も気づいてあげられなかった。完璧な妻を演じることに必死で、あなたの心をちゃんと見ていなかった。私が、あなたを追い詰めたのよ」
違う。そう言おうとしたが、言葉にならなかった。彼女の告白は、俺が目を逸らし続けてきた真実でもあったからだ。
「俺の方こそ、すまなかった」 やっとの思いで、声を絞り出す。 「君のせいにした。自分の弱さを棚に上げて、君の優しさから逃げた。君を傷つけることで、自分が傷つくことから逃げようとしたんだ。最低な男だよ、俺は」
お互いの懺悔が、冬の空気に溶けていく。 どちらか一方が悪いのではなかった。俺たちは二人とも、弱く、不器用で、そして互いを深く愛するが故に、すれ違ってしまったのだ。
沈黙が落ちる。半年という時間が、俺たちの間に横たわっていた。だが、その距離はもはや、絶望的なものではなかった。
「……寒くないか?」 俺が言うと、彼女は小さく頷いた。俺は自分の着ていたコートを脱ぐと、そっと彼女の肩にかけた。彼女は何も言わず、その温もりに身を寄せる。
「戻ろう、黒子」 俺は静かに立ち上がり、彼女に手を差し出した。 「話の続きは、また明日聞きにくるから」
彼女は涙に濡れた瞳で俺を見上げると、一瞬だけ躊躇い、そして、おそるおそるその小さな手を俺の手に重ねた。 半年の時を経て、俺たちはようやく、もう一度触れ合うことができた。
その手は、記憶の中よりもずっと冷たく、そして、ひどくか細かった。




