第一話
### 第一話
「行ってらっしゃい」 「ああ、行ってくるよ」
唇に、柔らかく温かい感触が触れる。見送りの軽いキスをして、僕は玄関のドアに手をかけた。
「今日の夕飯、アナタの好きなハンバーグにする予定よ」 「ありがとう。嬉しいよ、すごく」
振り返ると、妻の黒子が嬉しそうに微笑んでいた。その笑顔に後ろ髪を引かれながらも、僕は仕事へと向かう。ドアを開けると、そこにはどこまでも青い空が広がり、まるで新婚の僕らを祝福するかのように、太陽が燦々と光を降り注いでいた。
この幸福が、時々、怖い。俺のような男には分不相応な光だ。いつか罰が当たるのではないかと、心の隅で小さな影が囁く。
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幸薄そうな顔をした痩身の教師が、カツカツとチョークを黒板に滑らせる。 「ねぇ、日笠先生、雰囲気変わったよね」 「わかる。前はもっと根暗で、死んだ魚みたいな目をしてたのに」
生徒たちの囁き声が耳に入る。そうだ、俺は変わった。変えられたのだ、黒子という太陽に。だが、それは本当の俺なのだろうか。そんな、卑屈な疑心暗鬼が鎌首をもたげる。
生徒たちの視線が、教壇に立つ男の左手薬指に注がれる。そこに輝く真新しい指輪。その重さが、不意に俺の指に食い込むような気がした。
終業のベルが鳴り、生徒の一人がぽつりと呟く。 「やっぱり愛って、人を変えるのかしらねぇ」
少女たちの、祝福を含んだような自分を卑下するような言葉
しかし、その言葉は、祝福ではなく、まるで俺の化けの皮を暴く呪文のように聞こえた。
俺、日笠焦十は、駆け落ちに近い形で妻の黒子と結婚した。彼女は日本有数の財閥の令嬢。俺のような平凡な高校教師とは住む世界が違う、雲の上の女性だった。
きっかけは偶然だった。
まるで、漫画やアニメのごとく呆れるぐらい月並みな展開だ。繁華街で酔っ払いに絡まれている彼女を助けたことから、俺たちの交際は始まった。当然、彼女の両親は猛反対した。それでも黒子の意思は固く、半ば家を飛び出すような形で、二人は結ばれた。
クールに見える彼女だが、笑うと目尻が柔らかく下がり、とても可愛らしい。朝は誰よりも早く起きて弁当を作り、夜は俺の好きなものばかりを並べて「お疲れ様」と迎えてくれる。その完璧な献身が、俺の罪悪感を静かに締め付けた。
この幸せが永遠に続けばいい。心からそう思う一方で、この幸福は俺が盗んだものではないかという疑念が、常に胸の奥に渦巻いていた。
――そして、その疑念が現実の形を取る夜が来た。
午前0時。教頭に押し付けられた仕事を終え、疲れ切った体でアパートのドアを開ける。リビングから漏れる微かな光。ソファには、難しそうな経営に関するものであろう、本を読んで俺を待つ黒子の姿があった。
「お帰りなさい。こんな夜遅くまで、お疲れ様」
テーブルには、ラップのかけられたハンバーグ。その光景は、一日の疲れを溶かすと同時に、俺の心の負い目を鋭く抉った。
「……黒子、ありがとう。本当に、ありがとう」
やっとの思いで絞り出した声は、感謝と、そして同じくらいの申し訳なさで震えていた。彼女が優しく微笑むたび、俺は自分が取り返しのつかないものを彼女から奪ったような気がして、息が詰まるのだ。
深夜のキッチン、二人だけの食卓。世界で一番うまいはずのハンバーグを味わいながら、俺はこの日常を守りたいという願いと、いつか壊してしまうかもしれないという恐怖の間で、静かに揺れていた。




