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第25話 記憶の旅 後編

 母さんが包丁の切っ先を俺ではなく、ただ静かに母さんを見つめる女性に向けた。あの日、俺を優しく抱きしめてくれた女性だ。

 彼女は母さんを観察するように、何もせず見ていた。不気味なまでに。

 けれどそれを母さんが何もせずに許すはずもなく、両手で握りしめた包丁で刺そうと走り出した。はずだった。

 天井も高くない狭さの室内。母さんは女性に近づいた瞬間、見えないナニかに弾かれたかのように後ろにふき飛び、襖ごと奥の部屋に倒れ込んだ。当然、奥の部屋で寝ていた男を下敷きにした。

「あに一人で騒いでんだ! いてぇだろうが! さっさとどけ!」

 間髪入れずに男の怒声に母さんの怒声が返った。

「うるさいわね! あんたのせいよ! あんたのせいで頭おかしいのよ!」

 これが、俺の実の親。ちらりと横を見ると女性はいまだに微動だにしていない。瞬きすらしないその姿に不気味さを感じた。

「おい! タバコの火が布団に! 火事だ! 早く消せ!」

 男の焦る声の方を見ると、母さんがどかした襖の下で男が寝ている布団が燃えている。下半身が動かせないのか、男は両腕を忙しなく動かして大声で叫ぶだけ。それを母さんは慌てる様子もなく鼻で笑った。

「あんたが寝タバコなんかしてるからよ。火葬がわりになっていいんじゃないの」

「ふざけんな! てめぇが倒れこんでこなきゃこんな──熱っ! 熱い! 早くしろ!」

 和室のせいか火の手は布団のみならず周りの床やカーテンやたたんでいた洗濯物、異様な早さで天井にも燃え広がった。それを母さんたちは見ていない。いや、気づいていないのだ。

「か、ぁ──」

 教えないと。そう思って口を開けたのに、上手く声が出せない。脇腹の痛みのせいだろうか。急激な炎と黒煙が部屋中を飲み込もうとしているのに、まだあの二人は言い争っている。

 男は熱さと煙による苦しさから咳き込みながらも、それでも母さんを罵倒する。それに律儀に付き合って汚い言葉で返す母さん。周りの熱気を感じていないのか。

 脇腹の痛みと炎の熱風に耐えながら、俺はゆっくりと母さんに近づいた。なんとか腕を掴んで引っ張り、ここから逃げようと声にして叫んだ。

 だけど俺のことを母さんはわかってくれてなかった。

「触るんじゃないわよ! 化け物が!」

 血走った目で睨まれて、思わず口角が上がった。そうだ。母さんの目はこうだ。俺を見る目はいつも、怒っているか疲れていた。

 掴んだ腕を振り払われたけど、もう悲しくなんてなかった。

 俺は母さんを思いっきり突き飛ばした。


 反抗したかったのかもしれない。母さんは棚にぶつかりしりもちをついたが、それだけではなかった。母さんが飛ばされた時に持っていた包丁は棚に引っかかっていたらしい。ぶつかった衝撃で落ちた包丁が、母さんの耳を削ぐように肩に突き刺さった。

 悲鳴をあげて暴れる母さんに、俺はゆっくり近づいた。

「近寄るなぁ! あああ化け物が!」

 手が届く物をとにかく俺に投げつけたけど、俺は止まらない。燃える本が顔にあたろうが、熱で溶けたゴミ箱が腕にあたろうが気にせずに俺は母さんの目の前に座った。

「ごめん、母さん」

 そして暴れる母さんをどうにか抑えながら、肩に刺さった包丁を抜き、首を掻っ切った。


 どうしてこんなことをしたのだろう。産みの親なのに。

 多分、わずかに期待していた糸が切れたんだ。蜘蛛の糸のように、細くても頑丈な希望が。

 視界は炎で崩れだした物であふれている。もはや男が寝ていた場所は黒い塊が勢いよく燃えているだけ。

 その奥で、ずっと動かなかった女性が、両腕を広げて俺に微笑んだ。

 俺はふらつく足で燃える部屋の中を歩いた。俺の切れた糸を、彼女が拾ってくれるんだと。そう思っていた。

 けれどそれは叶わなかった。煙を吸いすぎたのか、頭が朦朧としながらも彼女の上の天井が焼け落ちるのに気づいた時、俺は無意識に走って彼女を全体重をかけて突き飛ばした。

 彼女が無事かを知ることはできなかった。焼け落ちた天井の下敷きになり、産みの親に刺された傷口に熾火おきび状態の木材が押し付けられ、逃げようにも足が他の木材に挟まって身もよじれない。必死に床に爪を立て、濁ったような醜い声で叫びながらもがいた。

 そして奇跡的に顔を上げられた時、燃える炎の中に彼女の姿はどこにもなかった。



「はい、お疲れ様でした」

 職員の声に俺の意識は勢いよく浮上した。爺ちゃんに胸ぐらを掴まれて引っ張られたみたいだ。燃える部屋の中にいた感覚が抜けず、荒い鼻息と汗が止まらない。

「脳みその全神経を刺激したばかりだから動かないで」

 慣れた手で俺からヘッドホンを外した職員は、さっきと違う笑顔で俺の体を起こしてタオルで拭いてくれた。

「こちらで録画などをしていたから普通の夢と違って、今の自分の思考も入ってより疲れたでしょう? 上層部に報告している間は医務室で休んでいてください。酸素マスクと鎮静剤を用意してますから」

 説明しながら俺のことなどおかまいなしに職員はさっさと俺に酸素マスクをつけて、腕を消毒して容赦なく注射した。

「今度はゆっくり眠れますよ」

 俺は職員に何か言うこともできずに再び意識を失った。

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