徹底的にウマが合わなかっただけ
デボラは言ってしまえば後妻である。
とある貴族と恋をして、しかし立場としては愛人のようなそれ。
商家に生まれそれなりに不自由なく育ってきたが、貴族階級ではない。
だが、その財を持てば貴族の家に嫁入りを果たす事は可能であった。けれども、デボラは貴族として生まれたわけではない故に。
政略で結ばれる縁よりも、情をとった。
その結果好きになった相手が貴族であった、というのもなんとも微妙な話ではあるけれど。
それでも若い頃はそれでよかったと思っていた。
いやいやいや、良いも何も……と思ったのは、愛していた男に政略で結ばれた妻がいて、挙句その妻が病死した後の事だ。
再婚であれば、由緒正しい家の相手を選ぶ必要もないと思ったのか、単純にデボラの生家でもある家からの資金が目当てだったかはわからない。
デボラが愛した男の家は別に困窮していたわけではないので。
デボラが愛した男――セルゲイには前妻との間に一人娘がいた。
そして、デボラもまた娘を一人産んでいた。
異母姉妹がかくして出会う形となってしまった。
なんて面倒な……と内心で思ったのは、今更のように前世の記憶が蘇ったからだ。
まだ性に疎い年齢であっても、父親が母とは別の女と子を作っていた、なんて知れば、そしてそれらが我が物顔で父の妻を名乗り、また見知らぬ子も自分の父を父と呼ぶ。そんな環境に突然と言っていい勢いで放り出された長女が、こちらに対して良い感情を持つとは思えない。
今はまだそこまで理解できていなかったとしても、成長してある程度の事がわかるようになれば間違いなく嫌悪感を抱くであろう。
幼い頃の自分の世界というのは狭いもので。
だからこそ、ある日突然やってきたものを異物と認識してしまう事もある。
そうでなくとも母が死に、悲しみを消化しきれていないうちから新しいお母さんだよ、とセルゲイはやらかしたのだ。挙句半分だけ血の繋がった妹と共に。
完全に悪手である。
せめて事前に顔を合わせて少しずつ距離を縮めていくとかできたでしょうに! とは思ったものの、完全に後の祭りである。
もっと早くに前世の記憶が蘇ってくれていたならば、そういった提案もできた。だが、思い出したのは本当につい先程、前妻の娘であるカレリアを見た瞬間である。
前世でたまたま目にした小説の、登場人物だ……と理解したもののそれを声に出さないようデボラは内心必死だった。
この子……悪役令嬢じゃん……えっ、そしたらうちの娘がヒロイン? 私その母親?
えっ?
カレリアの外見が、前世で見た挿絵とほぼ一致。
まだ幼いがこのまま成長すれば間違いなく前世で見たイラストと同じようになるだろうカレリア。
今目の前にいるカレリアはデボラも今しがたヒロインだと判明してしまった娘、ミィナに対して激しい憎悪を抱くようになる。
由緒正しい貴族の娘に、ある日平民の血が混じった妹ができる。
それだけならばまだ、許せたのかもしれない。
けれど父はそんな後妻と妹をこよなく愛しているという様を、カレリアの前でも見せていた。
母との時は決してそんな事はなかったのに……!!
お父様は、お母様を裏切っていたというの!?
そんな風にして、カレリアにとってデボラとミィナは家族などではなく、父すら奪おうとしている簒奪者という認識になってしまう。
その後も、令嬢としての教育を受けさせようとした際、カレリアは自分と同じような教育を受けるミィナが気に食わず密かに妨害をしたり、デボラとも打ち解けようとはしなかった。何故わたくしが、平民と仲良くしなければなりませんの!? 義母となったからといって、勘違いしないでいただきたいわ。そんな風に取り付く島もないのである。
そしてセルゲイは、そんなカレリアを見て苦言を呈す。
貴族としての誇りは確かに大事にしなければならないが、それは意味もなく平民を見下していい理由にはならないのだ。貴族と言うのは労働階級がいるからこそ成り立っているもので、平民たちを搾取していいだけの道具のように扱っていてはいずれ大きなしっぺ返しを食らう事になる、と。
けれどもカレリアは、父が自分の味方をしてくれないという部分にのみ意識が向いてますます頑なになっていくばかり。
家族の溝はどこまでも深まっていく一方。
それでもミィナは、折角家族になれたのだから、とカレリアへ歩み寄ろうとしていた。
カレリアはそんなミィナに馴れ馴れしくしないでと突き放し、こちらも仲良くなれる兆しはない。
カレリアの血筋は確かに由緒正しいものではあるけれど、成長して尚その精神はただの我儘な娘である。
カレリアはミィナから二つ程年上で、将来貴族が通う学園でミィナとの学年は当然異なる。ミィナが学園で出会った相手と運命の出会いをして、結ばれるまでの間、カレリアはミィナを幸せになどしてたまるものかと妨害するのだ。
結果として、カレリアの悪事は最終的に大々的に周知され、彼女は失脚する。
ミィナの想い人がカレリアの婚約者とかそういう事はない。
婚約者であったなら、自分の婚約者を奪われまいとするカレリアの行動も周囲には理解されただろう。
けれどもただひたすらにミィナ憎しで行われる嫌がらせの数々。
最初はそれでも周囲にバレず上手くやっていたかもしれないが、最後の方は最早なりふり構わずといったところで、それはもう醜いものだった。
常に清く正しくあれ、とは言わないがそれでも貴族には貴族なりの流儀というものが存在する。
気に食わない相手の足を引っ張る事だって日常茶飯事だ。
だが、嫌がらせを行うにしても、それにだってある程度の作法というものが存在するのだ。
そしてカレリアは最後の方でそれらの事を全て無視するかのような手段に出た事で。
貴族令嬢としてはみっともないとされ、挙句嫁にするのも……と多くの令息たちから距離を取られる。
作中でカレリアにはまだ婚約者がいなかったが、それでもそうなるだろうと思えた相手がいたのだが、そんな彼からも見損なったと言われるのだ。婚約を結ぶ前の段階であったため婚約破棄を宣言されるような事はなかったが、この一件でカレリアにマトモな結婚相手が見つかる事はないだろうとされ、彼女は修道院へと送られる事になる。
……と、まぁ、これがデボラが思い出せる範囲での原作である。
主人公目線で見ればカレリアは癇癪持ちの鼻持ちならない高慢ちきな相手であるけれど。
だがカレリア目線で見れば気持ちは多少わからなくもない。
母親が死んで悲しみに暮れているところに、間を置かず新しいお母さんと妹を連れてくる父親。
父はカレリアよりも二人を優先するせいで、カレリアは家の中の居場所がなくなると思った可能性もある。
このままだと母との思い出も何もかも家から消されてしまうのでは、と恐れたかもしれない。
そうならないよう、カレリアはカレリアなりに強くならなければいけなかった。とはいえ、家の中に味方はおらず、また外に助けを求めるにも虐待されているわけでもない。それに助けを求めるにしても、そういった相手がいないのであれば。
幼いカレリアは強さの意味を履き違えたとして、それでも戦い抜かなければならなかったのではないか?
まぁ、原作ではカレリアの心情はあまり描写されたりはしていなかったので、本当の所はどうだかわからないが。
前世基準で考えたとして、だとしてもセルゲイのやり方はマズイとしか思えない。
母親が死んだ後、数年経過しているとかであればいい。その間にちょっと仲良くなった女性ができて、再婚しようと思っているんだ、とか言われて娘とも顔を合わせてお互いある程度どんな人物かを把握した上で、納得したのであれば一切何の問題もないと思う。
だがカレリアの場合、そんな事前準備も何もないのだ。
気持ちの整理がつかなくとも無理はない。
そして新しい環境に慣れず戸惑うデボラとミィナを気に掛けるセルゲイは、そこだけ見ればいい人ではあるけれど、カレリアの事はそこまで配慮していないのだ。
父親をとられた、とカレリアがこちらに敵意を持ったとして考えすぎですよなんて使用人だって気休めを言える感じじゃない。むしろそう思うのも当然と言えた。
先住猫を無視して新しくお迎えした猫ばかり構っているような状態、と言えばセルゲイのやらかしがどれだけギルティかお分かりいただけるだろうか。
猫じゃなくても犬でもいい。
最初にいた方を蔑ろにして後から来た子をちやほやしていれば、最初にいた方は自分が捨てられるのでは? と思ったとしても、そう思われるだけの事をしているのだから。
後から来た方を甘やかすにしても、その分最初にいた方にだって目一杯愛情を注がなければいけないのだ。
セルゲイにそれとなく言ったとして、果たして彼がカレリアの心を安らかにしてくれるかはわからない。
何せ初手からやらかしている。デボラだってもっと早く原作の事を思い出していれば、愛人からの後妻コースは避けられたかもしれない。
貴族が愛人を囲うのなんてよくある話だったから、前世の事を思い出す前までは自分もそこをあまり気にしていなかったが思い出した今となっては最悪のスタートかましちゃったな……うわ、と自分にもドン引きである。
だがしかし、もうこうなってしまった以上そこを嘆いたところで過去は変えられない。変えられるのは未来だけ。せめてカレリアとの関係性を原作よりはマシにしたいところだが、カレリアがこちらを拒絶し続ければ結局原作展開になるだろう。
だが、諦めてしまうのはまだ早い。
何故ってまだ歩み寄ってすらいないのだから。
本当の母親ではないし、ましてやカレリアから見てデボラは平民で下に見る対象かもしれないけれど。
それでも、なるべくカレリアの心に寄り添おうと決めた。
――の、だが。
デボラのそんな覚悟と決意をあっさりと裏切るかのように、カレリアとの仲は良好だった。
貴族令嬢としての教育をする際の家庭教師で二人に差をつける事はなかったし、セルゲイは人の気持ちを慮るのが少しばかりアレだとしても教育の重要性は理解していたから、そこにお金はしっかりとかけてくれた。それは子にだけではなく、デボラに対してもである。
生家が商人をしていたのもあって、時折貴族と関わる事はあったけれど礼儀作法なんてその時に相手に失礼だと思われない程度の、本当にちょっとした事しかできていなかったのだとデボラも実感するほどに悪戦苦闘したけれど、お互いが勉強で大変な目に遭う事でむしろ連帯感が生まれたように思う。
今日はこんなことを学んだとかの話を勉強が終わった後お茶とお菓子と一緒に楽しむ。
デボラの知る原作のカレリアとはかすりもしないくらい、カレリアは良い子だった。
問題はミィナだ。
デボラは明かしていないがミィナは自分が転生者であるという事をデボラに悟らせてしまった。
あたしはヒロインなんだから、と言ってあれこれ我儘を言い出すようになったのだ。
その我儘がまだ可愛らしいものであれば、デボラもまぁそれなりに叶えられる範囲で叶えてあげたかもしれない。だが、ミィナはカレリアの持つドレスやアクセサリーを奪おうとしたり、勉強の一切をやりたくないとサボろうとしたり、そのくせ外に遊びに行く時だけは人一倍やる気を見せるのだ。
最低限の礼儀作法もできていない相手を連れていけるはずもないので、ミィナは留守番が決まっていても、お姉様ばかりずるいわ! と叫んで地団太を踏むのである。
生憎ドアマットになんてなってやりませんからね! とカレリアが言い返した事で、デボラは彼女も転生者なのだと知ってしまう。
嘘……まさかここに転生者三人も? 固まりすぎでは?
他にもいるのかしら? まさかセルゲイも? いやでもあの朴念仁っぷりは原作とそう変わらない気がするし……と悩んだのも束の間。
カレリアとミィナの争いはそこで一度止まるどころか逆に激しくなってしまったのだ。
とにかく一度その喧嘩――と言っていいものか――を仲裁したデボラだったが、ミィナはそれにも不服であるとばかりに叫んだ。
「お母さんはどっちの味方なのよ!? カレリアは本当の子じゃないのに!」
その言葉に、まぁ確かにそうなんだけど、という気持ちはあった。
実の子にしてみれば、実の親には味方してもらいたい気持ちはあるだろう。そこはデボラにもわかる。
だが、味方するにしても、明らかにミィナに非がある場合絶対的な味方にはなれない。
ミィナが生まれた時からカレリアに会うまでの間、デボラはミィナを愛情込めて育てたつもりだった。
良い事をすれば褒めたし、今までできなかったことができるようになった時も褒めた。風邪を引いて寝込んだ時は看病もしたし、怪我をするような危ない事をした時は叱った。
デボラが今まで親にされてきたような事を、自分もミィナにしてきたのだ。
親から受けた愛情を、同じように。デボラなりに。
少しばかり我儘な部分もあったけど、それでもこのくらいの年ならこんなものよね、と思えるもので。
カレリアと会った直後も、まだここまで酷くはなかった。
酷いな、と思うようになったのは、いつからだっただろう?
家庭教師に学ぶにしても、カレリアの方が二歳年上なのと、礼儀作法はやはり貴族として最初から育てられていた分カレリアの方が学ぶ事に関しても進んでいると言ってもいい。
ミィナは本当にゼロからのスタートだ。
二人が同じところからスタートしたのであれば、その差は大きく開いているという風に見えたかもしれないが、しかしミィナの年齢でこれなら特に問題もなく順調な方、と家庭教師からは言われていた。
ミィナも二年後には、今のカレリアよりは少し劣るかもしれないがそれでも近づく事はできるだろうとも。
カレリアも成長をするので、二年の差が簡単に埋まる事はないけれど。
「確かにカレリアと血は繋がっていないけれど、それでも家族になったのよ? どうしてミィナはそんな酷いことを言うの?」
そもそも血が繋がっていなければ家族になれないというのなら、夫婦はどうなる。
血の繋がりのない男女が結ばれて家族になっていくのに、そこから否定されましても……とデボラは突っ込みたい気持ちになってしまった。多分中身が転生者だから言ってもいいかな、と思わないでもないけれど、まだ幼い子ども相手には難しい話になりそうなので一応言わないでおいたけれど。
ミィナの言い分は下手したら近親相姦推奨してるみたいな話になりかねないが、流石にミィナもそんな事を考えているとは思いたくないというのもあった。
あとは、ミィナを転生者として扱おうとするのであれば、当然ミィナもデボラが転生者であると理解するだろう。その場合、どう転ぶかがわからなかった。
カレリアは幼さゆえの傲慢さが消えて普通のお嬢さんといった感じだった。あくまでもデボラの目から見て、ではあるが。貴族令嬢としてそうあろうとしている、というのがわかる程度にはちゃんとしていた。
ともあれ、一度は仲裁して血の繋がりがあろうとなかろうと家族になった以上はお互いを尊重していくつもりである、とデボラが説得したにも関わらず、お互いが転生者であると知った時点でミィナはカレリアに掴みかかろうとまでしたのである。
ヒロインは自分なのだと叫んで。
その様子はさながら瞬間湯沸かし器を彷彿とさせられた。
もしかして脳のどこかに異常があるんじゃないか、とデボラは思った。
デボラはこの世界によく似た原作を知っている。既に同じとはいかなくなってしまったのは、この場に三人も転生者がいる時点で察するしかない。
だが、ミィナとカレリアが果たしてデボラと同じ作品を知っているか……まではわからなかった。
確かにミィナの生い立ちを考えると、ヒロイン要素はある。
平民として生活していたが、ある日貴族の仲間入り。一連の流れに違いはあれど、よくある導入だ。
そうして貴族たちが通う学園が存在している時点で、原作を知らなくても似たような作品からありがちな展開を想像するくらいはできるだろう。結果としてミィナが自分がこの世界のヒロインだ、と思ったとしても、まぁ、不思議ではない。学園に通って恋愛ストーリーが始まれば、の話ではあるが。
だがしかし、今のミィナはヒロインと言うよりは姉の持ち物を羨ましがってお姉様ばかりずるいとのたまい奪うタイプのドアマットヒロインを虐げる悪役側である。
デボラが知る原作ではミィナはヒロインのはずなのに、中身が転生者となった時点でヒロインがログアウト状態なのだ。
知らないうちにミィナの人格が入れ替わった、とかではない。
多分デボラと同じように彼女もまた前世の記憶を思い出したのだろう。タイミングがデボラとは異なっただけで。
なので、死の淵から生還したら中身が別人だった、というような事ではない。いっそ別人だった方が良かったかもしれない、という気もしているけれど。
そしてカレリアも。
彼女がいつ前世の記憶を思い出したかはデボラにもわからない。
ミィナは大体予想がつくけれど、カレリアはデボラたちが屋敷にやって来た時からそこまで変化がなかったので。
ミィナがカレリアのドレスやアクセサリーを奪おうとした時点で、もしかしたら思い出した可能性もある。
確かにその流れだと自分が悪役令嬢ではなくドアマットヒロインだと思うのも当然だろう。むしろここからミィナに対して悪役令嬢になれ、と言われても無茶言うなよとしか言えない。仮にデボラがカレリアの立場だったとしてもそう言う。
片や平民からの貴族として最終的に王子様と知り合ってハッピーエンドを迎える系ヒロインだと思い込んでいるミィナ。
片や義妹にあらゆるものを奪われドアマットヒロインから返り咲く系ヒロインになりかけていると思っているカレリア。
デボラは自分が転生者だと言えばなんだか更に拗れそうな予感がしたので、転生に関しては何も言わず、とにかくおかしなことを言いだした娘に困りながらもどうにかしようとしている後妻として振る舞う事にした。
その結果、思い込みでとにかく何をしても自分はヒロインなのだから上手くいくと思い込んだミィナに関して、デボラは早々に匙を投げた。
自分が腹を痛めて産んだ子ではあるけれど、愛情は決して無限に湧き出てくるものではない。
まずヒロインとかわけのわからない事を言うのはやめなさい、と諭したところで聞く耳持たないし、勉強もやりたがらないし、そのくせ贅沢はしたがるとか、正直前世の記憶のせいでとんだロクデナシになりかけているのである。
お子様特有の我儘でお菓子いっぱい食べたーい! くらいの贅沢を望むくらいなら可愛げがあるが、ミィナが固執するのは明らかに金銭価値の高い物で、しかもそれだって目に見えてあからさまな物だけだったのだ。
一見地味に見えるが価値は高い、というような物には目もくれなかった。
審美眼がどうしようもなさすぎて、恐らく将来商人あたりに見た目は綺麗だけど実際大した価値のない装飾品とか高く売りつけられそうだな、とデボラですら察する程である。
平民でも文字が読めなかったり計算ができなければ、場合によっては物を買う時に商人にだまされぼったくられたりする事があるが、貴族であってもその可能性は常に存在する。読み書きができても物を見る目を養えなければ、見た目は立派そうに見えるガラクタに大枚はたいて家を傾けるなんて事もあるのだ。
平民でぼったくられるにしても、一度で夜逃げしないといけないレベルまでぼったくられるような事はないが、貴族の場合はスケールが違う。財産も爵位も何もかもを毟り取られる可能性があると言ってもいい。
それに、平民よりも良い暮らしをしている娘の方が見た目は綺麗な事も多いので、あえて没落させて娘を買い取り娼館へ……なんて悪質な者もいるのだ。
デボラの実家はそういった悪質な商売はしていないが、それでも噂は耳に入ってくる。
世間知らずの令嬢を騙すのなんて容易いと思っている悪党はいるし、貴族じゃなくてもそれなりに良い暮らしをしている家の人間だって場合によっては人買いに……という可能性は普通にある。
そう考えるとこの世界結構怖いわぁ……とデボラは思うし、昔からきっちり両親が教育をしてくれたから危険に巻き込まれる事もなかったんだなと思えるというのに。
ミィナはそういった危機感が死んでるのだ。
勉強なんてしなくたっていいと思っている。どうせ将来役に立たないと信じて疑っていない。
それはあくまでも前世であれば、まぁそういうのもあっただろうけれど。
確かに前世の教育であれば、え、これ将来何の役に立つの? と思うようなのはそれなりにあった。勉強する事に意味があるのか? と思った事はデボラにもあった。
けれども結局のところ、学んだ事が役立つかどうかはその人の人生次第だ。
だがこちらの世界では、マトモな教育を受けていなければ本当にマトモな生活を送れるかどうか疑わしくなってくる。
文字の読み書きもできない平民ができる仕事は限られているし、稼ぎだって少ない。下手をすれば上から更に搾取されて、生活するのも難しく最終的に犯罪に手を染めるしかなくなる、なんていう事だってあるのだ。
文字の読み書きができて計算もできれば、もう少しマシな仕事に就く事も可能だ。
だが、それを理解していても平民の場合、マトモな教育を受けられる機会が少なすぎた。学校に通わせるお金はないし、ましてやその時間を労働に費やしてもらわないと家の稼ぎがない、なんて家庭も平民の中には存在している。
そういう部分は前世と比べると完全に劣っているといってもいい。
ミィナは学校に行く年齢までは遊んでたっていいじゃん、という考えのようだが、貴族たちが通う学園は家庭教師たちから最低限の教育を受けている事が前提である。
つまり、学園に入った時点で読み書きができていなければ話にならないし、最低限の教養も身についていなければならない。最低ラインの教育を受けていなければ、学園での授業になんて何一つついていけやしないだろう。
原作のヒロインとしての立場だったミィナなら、幼い頃から学ぶ事を否定しなかったから問題はない。
しかし今のミィナは大問題である。
前世の記憶があるから、最低限の知識はある? この世界の常識と前世の常識が完全一致しているならその言い分は通るかもしれないが、そうではないのだ。
自分は賢いと思っている馬鹿ってこんなにも面倒なのか……とデボラは正直うんざりしていた。
そもそもの話、ミィナがミィナのままであったならまだデボラだって頑張ったと思う。
けれども前世の記憶を思い出して自分がヒロインなのだと信じて疑っていないミィナは、ミィナであるのはそうだけど中身は前世の人格が強めに出ているようにも見受けられた。
そうなると、デボラにとってミィナはミィナの姿をした別人に見えてしまってどうしようもなかったのである。
原作と異なって悪役令嬢になりそうにないカレリアも別人に見えてはいるけれど、こちらの方がまだマシだった。少なくともカレリアは将来を見据えて学ぶ事を拒否してはいないので。
デボラが教育をマトモに受けさせようとしても、ミィナは一切聞く耳を持ってはくれなくて。
それでいてカレリアに対して失礼な態度を改める様子もなかったので。
「それではミィナ、しっかりと励むのですよ」
「あたしにかかればヨユーヨユー」
デボラはセルゲイと相談して、ミィナを早々に修道院に送る事に決めた。
このままでは、ミィナはカレリア以外の令嬢や令息と揉め事を起こすだろうというのが目に見えて明らか過ぎたからだ。
仮に成長して学園に通う年齢になったとして、その時に見目麗しい令息と恋を健全にするだけならいいが、婚約者がいる相手にも言い寄ったりされてはたまったものではない。
家同士の婚約に他人が割り込んで台無しにしたとなれば、相応の贖罪が必要である。
それは最悪家が傾くかもしれない。デボラとて、セルゲイの家を傾けたいと思うわけはないのだ。デボラにとってセルゲイがどうしても破滅させたい敵であるのなら、その結果は望むところかもしれないが、そうではないので。愛する男の家を没落させるどころか、最悪処刑される可能性すら出すような事は避けたい。
けれどもミィナは聞く耳持たないので、淑女として問題がなければすぐに戻ってこれる施設でミィナがきちんとできるかを証明してきてほしい、と言って送り出したのである。
自分がヒロインだと疑っていない――確かに一応ヒロインではあるけれど――ミィナは、前世であふれていた悪役令嬢だとか乙女ゲームといった作品をいくつかは把握しているのだろう。行先が修道院と言えばバッドエンドにありがちなものを連想して暴れだす可能性も否めない。だからこそ行先はぼかして、そうして送り出したのだ。
実際、きちんとした礼儀作法や教養を身につければ帰ってこれるよう話はつけてある。
ミィナの言葉通り、余裕であるのならすぐに帰ってくるだろう。
……まぁ、デボラの見立てでは数年戻ってこれないと思っているが。
カレリアに絡んで手の付けられない状態を目の当たりにしたセルゲイは、このまま戻ってこれないんじゃないか? と言っていたが。
一応、我が子という認識が完全に消えたわけでもないので、数年でヒロインであるから何をしてもいいという思い上がりを捨てて戻ってきてほしい、とは思っているのだ。これでも。
ミィナが言うように、ミィナは確かにヒロインなのだから。
――ミィナと同じく転生者であったカレリアはというと。
こちらも原作を知らなかったが故に、初っ端から原作崩壊したのもあって、デボラは改めて二人きりで話をしてみようと思いそこで自らも転生者だと明かした。
既にミィナが転生者であると知っていたカレリアは、自分とミィナの他にもいると知って少しばかり驚きはしたようだけれど、すぐに何事もなかったかのような態度に戻る。
自分とミィナ、二人転生者がいるのだ。そこから更に一人や二人増えたとしても今更だと思ったのかもしれない。
デボラは自分が知る原作の話をカレリアに聞かせた。
貴女はドアマットヒロインでもなんでもない、というのと、そもそも悪役令嬢になろうにももうミィナが家にいないから、ここから先の未来は自分次第であるという事も。
むしろ突然見知らぬ女が子を連れて今日から新しい家族だよ、と言われた時に何とも思わなかったのか……と聞けばカレリアは少し考えてから口を開いた。
「思わなかったのか、も何も。
前世よりはマシだったので」
聞けばカレリアの前世の家庭環境は、これより更に悪かった。
ある日母親が家を出て行って帰ってこなくなり、その後父は母の事なんてなかったかのように知らない女を家に連れてきて、今日からこの人が新しいお母さんだよ、とやらかした。しかも新しい姉と弟ももれなくできた。
前世のカレリアは、その新しい姉に妹なんだから姉の言う事聞きなさいとお小遣いを奪われたり、弟には遊び相手と称して時として暴力を振るわれたり。
父に訴えようにも仕事で帰ってこないし、かといって義母に訴えても子供同士のじゃれ合いとしか思われず。
間違いなく前世のカレリアの家庭は、カレリアの犠牲の上に成り立っていた。
何故って、義母の家事能力は微妙だったから、カレリアが手伝いをする羽目になっていたのだ。
義姉? 彼女は自分では何もせずカレリアを顎で使っていた。
義弟? 創造より破壊しかしないあいつに何をさせろと?
ある程度成長した前世のカレリアは、さっさと見切りをつけて家を出ていったのである。
そしてその後、ドアマットヒロインというものが存在すると知ったのだ。
「前と同じように、ここでもそうなるのかと身構えてしまいましたが……新しく母親になった貴方はきちんと私の話に耳を傾けてくれて、あの子と分け隔てなく育ててくれようとした。
とても恵まれているなと思ったんです」
原作と異なりカレリアが随分と大人しく聞き分けが良いなと思った原因が明らかになってしまい、デボラは思わず遠い目をしてしまった。
そりゃ前世でそんなんだったら、今回の父の再婚相手がマトモそうならそりゃ素直に聞く耳持ちますわ……
前世の記憶が蘇った事で、カレリアは破滅ルートを回避する流れになった。
同じく前世の記憶を思い出したミィナはその逆の結果になってしまったけれど。
再婚相手の連れ子なんて、接し方に気を使わなきゃいけない相手だが前世の記憶持ちという共通点からデボラとカレリアは今までもそれなりに親しい関係を築いていたけれど、それ以上に親しくなっていった。
それこそ、傍からみれば本当の親子にみられたかもしれない。見た目が似ていなくとも。
原作ではギスギスしまくっていた家庭環境は穏やかそのものと言ってもいい。
ミィナに関しては、修道院でマナーや教養、礼儀作法も何もかも一般貴族令嬢として見れば足りないものだらけで、当分戻るのは無理そうだ。泣き言たっぷりの手紙が届いた。
そもそも修道院は淑女育成機関ではないが、ちょっと躾のなっていない令嬢たちを矯正する一風変わった修道院があったので。
前世で実際お目にかかった事はないけれど、お寺に預けるみたいなものだとデボラは解釈している。
神を信じるかどうかはさておき、お祈りは瞑想の一種みたいなものだし修道院の中での活動は精神と肉体を鍛えるにはうってつけだろう。甘やかされて育ってきた我儘娘には厳しい環境かもしれないが。
ちなみに我儘な令息たちを矯正する修道院もあるがどちらかといえば令息の場合は騎士団で鍛錬を積まされる方がメジャーらしい。
修道院の院長からのミィナに関する近況と、迎えにきて家に帰りたいというミィナの泣き言たっぷりな手紙が定期的に届けられる事になるのだが、そもそも淑女として文句なしと判定されれば帰る事ができるのだ。
それができていないうちは、デボラもセルゲイも甘やかすつもりはなかった。
厳しい環境で反省しているとは思うけれど、ここで連れ戻せばミィナが泣き付けばどうにかなると思ってしまうかもしれない。とりあえず励ましの手紙は出しておいた。
修道院に行く前、自ら余裕とのたまったのだ。是非有言実行してほしい。
傍から見れば、まだ幼いとも言える娘に対して厳しいと思われるかもしれないが。
転生者で前世の記憶と人格が割と強めに表に出ている時点で、幼子扱いする義理もない。
直接聞いたわけではないが、乙女ゲームかそれに近い話のどれかだとミィナは思っていただろうし、それらを嗜む程度には年齢がいってたはずだ。
最低限の義務教育は受けていたと思われるし、前世のミィナが早死にしたとしても最低でも中学生くらいまでにはなっていたはずだ。もしかしたら高校生あたりで死んだ可能性もあるけれど、どのみち思春期だとか反抗期があったであろう年齢だとデボラは推測する。
ここで甘やかしてやっぱりあたしヒロインだから何とかなったんじゃ~ん、とか思われても困るのだ。
手紙ではしおらしく反省してそうな雰囲気を出しているけれど、院長の手紙からはその場しのぎで謝るだけで何が悪いか理解できていないという旨が記されていたので。
世間から子ども相手に厳しすぎるのでは? などと思われてもデボラはミィナを今すぐ戻すつもりはないのだ。ミィナがやらかした結果家が潰れるような事になったらと考えると、なおの事。
そもそもまだ外に連れ出してお披露目するような事もなかったので、社交界でミィナの存在が知られているかと言われると全く知られていないのだが。
そうこうしているうちに月日は流れ、カレリアは学園に入学し、婚約者も無事に決まり、原作のような悪役令嬢になるような出来事も何もなく卒業し婚約者とも結婚した。
カレリアと結婚した相手は婿として家に入り、流石にデボラはそろそろ自分は邪魔になりそうだから……とセルゲイと共に家を出て別宅で生活を始め。
距離はそこまでないので、お互いなんだかんだそれなりに交流が続いている。
ちなみにミィナが修道院に預けられたのは十二歳の時だったが、彼女が二十歳になっても未だ淑女としての合格ラインには届いていないようなので。
原作で通うはずだった学園には当然行ってすらいないし、そこで出会うはずだった相手とも勿論会う事なんてなく。というか既に成人年齢を迎えても出られていないという時点で、この先修道院から出たとしてももう貴族令嬢として社交界になど出せるはずもない、とセルゲイは判断してしまったらしく。
最早ミィナが貴族の娘として社交界に姿を現す道も完全に潰えてしまったようだ。
そういった手続きをしたという事を、手続きが終わった後になってデボラも聞かされた。
事後報告ではあるが、デボラも流石に文句は言えない。
前世の記憶を思い出さないままでいたなら、カレリアと共に学び、きちんとした淑女に育ってくれたかもしれないけれど。
いや、前世の記憶を思い出したとしても、ヒロインになるために相応の研鑽を重ねてくれてさえいれば。
「やっぱりヒロインになるのって、相当なハードルがあるわよね……」
久しぶりにカレリアと顔を突き合わせて、そんな事を言えば。
「それはそうでしょう。そうでなくとも前世と違ってここじゃ身分が物をいう世界みたいですし、尊きお方を前に万が一やらかすような事になれば一家どころか一族連座での処分だって有り得るのだから。
お義母様から教えてもらった原作だと私は悪役令嬢になるはずだったけれど。
仮に私がヒロインだったとしても、私だってヒロインは荷が重すぎます」
ドアマットヒロインになんてなるものか、と言っていたカレリアは、ドアマットではなく普通のヒロインであったとしてもなるつもりはなかったらしい。
それはデボラにとっても同じ事が言える。
前世の記憶を思い出す前の自分は若干頭の中がお花畑だったから、思い出せて何よりである。
前世の記憶を思い出したとして、原作の部分がまるっと抜け落ちていたらきっとデボラもうっかり勘違いしていた可能性だってあったのだから。
吉と出るか凶と出るかは人それぞれね……とデボラとカレリアは全く同時に呟いて、そうして苦笑するしかなかったのである。
――こんなはずじゃなかった、とミィナは思っていた。
なんとなく前世でたくさん読んだ異世界転生系の話のどれかに似た世界に転生したのだろうと思っていたし、生い立ちからして自分はヒロインだと信じて疑っていなかった。
一体どこで間違えたのだろう。
勉強なんてしなくても、前世で学校に通っていたのだからそれなりに賢いという思いはあった。
一応前世で通っていた学校での成績はそこそこ上だったのだから、前の世界より文明レベルが低いここでなら、自分は天才扱いされると信じてすらいた。
しかし実際はどうだ。
親の口車に乗せられて行った先の修道院で、淑女に必要な知識や教養、礼儀作法といったものを一通り確認されたが、どれもこれも全部駄目。今まで何を学んできたのですか、と院長に呆れられたのは今でも記憶に残っている。
ミィナは思い違いをしていた。
前世で確かに学校での成績は上だったが、それは単純に学校の偏差値が低いところだった。家が近いからという理由で受験したそこは、前世のミィナにとっては自分のレベルより低いところだっただけ。もし進学校などを選んでいたら彼女の成績は上どころか底辺にいたかもしれない。
前世ではあまり物事を深く考えず、ただ楽な方に流されて、面白い事に飛びついて、飽きたら次の流行に乗っかる。そんな生活をしていた。それでも人生どうにかなったのだ。更に生まれ変わってみれば、いかにもな世界でいかにもヒロイン的なポジション。
だから今回もどうにかなるものだと信じて疑っていなかった。
前世では別に勉強できなくたって死ななかったし、前世よりも可愛らしい容姿で生まれたのだから、どうにかなるでしょ。なんて。
とんでもなく甘く思っていた結果、修道院で地獄を見た。
下手に身分が上の相手に失礼な事をしでかしたら、場合によってはその場で殺されても文句は言えないなんて、思ってもみなかった。
確かに前世でも昔はそういう事があったとは何か授業でやった気がするけれど、自分には関係のない事だと思っていたから。
無関係だと思って、ここでもそうだと思い込んで。
結果として、こんな考えのまま社交界に出るような事になればとんでもない事になりかねない、と院長やシスターたちはビシバシとミィナを鍛え上げた。
だがしかし、今までマトモに勉強しようとしてこなかったミィナにとってそれは苦痛でしかなかったのだ。
使用人がやってくれていた家事だって、ここでは皆でやらなければならない。
家事や修繕、更には勉強。遊ぶ余裕なんてこれっぽっちもなくて、ミィナにとって修道院は不満しかない場所だった。
これなら家で家庭教師から勉強を教わる方がマシとさえ思えてきた。
家庭教師が男性なら、ちょっと甘えたら少しくらい楽をさせてくれるんじゃないか、なんて甘い考えがあったのは否定できない。
実際デボラやセルゲイが手配するのなら、家庭教師は女性なのだがミィナはそんな事に気づきもしなかった。
院長やシスターは女性だから、ミィナが甘えたところでデレデレしたりもしないし、ちょっとくらい甘やかしてくれるという事もない。
どうにか家で学び直したいと、反省したから一度帰りたいと切々と手紙に書いて送ったけれど、母からの手紙はあれだけ自信たっぷりにできるって言ってたんだから頑張って! というもので。
突き放されているのか、それともミィナに期待しているのか。
どちらにも受け取れる内容で、ミィナに理解できたのは迎えはこないという事だけだった。
それでも諦めずに何度も手紙を送ったけれど、結局迎えが来た事はない。
そうこうしていくうちに、ミィナの年齢はすっかり成人を迎えてしまった。
ここらでようやく思ったのだ。
もしかして……あたし、ヒロインじゃないんじゃないか……? と。
その場にデボラがいたならば、いや本当はヒロインだったはずなんだけどねぇ……と言ってくれたかもしれないが、いないので誰もそんな事は言ってくれない。
この頃になってようやくミィナは貴族社会の常識を理解するようになっていたし、そうなれば嫌でも気付くしかない。
そもそも八年も修道院暮らしのヒロインって、どうなんだろう……? と。
その間にイケメンとの出会いがあったかと言われれば皆無。
イケメンと知り合いの、ミィナにイケメンを紹介してくれそうな相手との出会いも皆無。
この八年顔を合わせてきたのは女性ばかりで、しかもシスターたちは厳しいし、自分と同じようにここに連れてこられた令嬢は気位の高い扱いの難しい面倒な令嬢。
正直に言うと、女の嫌な部分ばかりを詰め合わせて煮詰めたような場所だった。
こんな場所で下手にイケメンと接点を持てば、他の令嬢たちも目の色変えて関わり合いになろうとするだろうな、とミィナでも察してしまったのだ。
たまに見かける異性はといえば、この修道院に食料や生活用品を届けてくれる、中年男性だ。多分ミィナの父と同じくらいの年か、それより上か。少なくともロマンスが生まれる気配はない。それ以前にその中年男性には妻もいて子供もいるとシスターたちとの話で知っている。
成人してなおここから出られていないミィナにある日父から手紙が届いた。
学園に通う事もできていないまま成人したので、ミィナは貴族令嬢として扱うことができないと。
それでも愛した人との間に生まれた子なので、情がないわけではない。
もしそこを出られるようになったら、仕事を紹介するから一生懸命働いて独り立ちするように、と。
多少の援助はするけれど、あくまでも少し手助けするだけで今後の人生に関して何もかもをというわけではないという事も。
そこでようやく。
本当にようやく。
ミィナは自分がヒロインだから何もかもうまくいくなんて幻想から抜け出す事になったのだ。
気付くには遅すぎたが。
前世ならばまだ何も問題のない若い娘扱いされているミィナだが、しかしこの世界では既に行き遅れとされつつある。
行き遅れヒロインとかあるはずないし、えっ、じゃああたしやっぱりヒロインなんかじゃなかった……!?
と、改めて現実を自ら突きつけて。
与えられた自分の部屋はとても狭くて、最低限の物しかない。
けれどミィナにとってはすっかり慣れてしまった部屋だ。かつての屋敷での部屋が懐かしい。
さておき、ミィナは父からの手紙をそっと机の上に置くと。
おもむろにベッドに倒れ顔を枕にうずめて、とにかく足をバタバタさせた。
まるで中二病だった過去の自分を突きつけられたかのような反応だった。ヒロインだと思ってたのに、全然ヒロインじゃなかった、という事実は完全に黒歴史と化したのである。
ミィナが修道院を出る事が許されたのは、その翌年。
今までの年月はなんだったのかと言わんばかりに意欲的に学び、修道院を出たミィナは父が紹介してくれた仕事をしてその後の人生を慎ましやかに過ごした。
自分はヒロインなのよ! と啖呵を切った事が今でも脳裏にあるせいか、同じ転生者であるカレリアと直接対面は恥ずかしすぎてできなかったけれど。
それでも、手紙でのやりとりは少しではあるもののするようになった。同時に母親とも手紙だけではあるがやりとりをするようにもなった。
思い描いていた一般的な家族の在り方とは異なってしまったけれど、独りぼっちではない、というのはミィナにとって良かったのだろう。
父が紹介してくれた職場が母の実家の商会であったのも、ミィナにとっては良かったのかもしれない。
まじめに働いて暮らすミィナは貴族令嬢としてはもう認められなくなってしまったけれど。
それでも、それなりに人に囲まれて穏やかな暮らしができたと言われている。
次回短編予告
なろうによくあるダメな女神様が作った世界であれこれやらかす転生者たちのネーミングセンスに問題しかない感じの話。