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僕の一日は元気な歌声と共に始まる。
名前も知らない親子の歌声。
彼女達は通勤の道で、歩く僕を自転車で追い抜く。
毎朝、彼女達は歌を歌っている。
そのほとんどは多分、童謡で、僕が知らないものばかり。
でも、遠くから歌声が近づいてきて、横を通り抜けていくその歌声に、毎朝元気をもらっていた。
顔は知らないが、ピンと背を伸ばし自転車に乗る彼女達の後ろ姿は美しかった。
ある朝。
僕が信号待ちで立ち止まっている隣に、かの自転車の親子が止まった。
後ろから歌声が聞こえていたのでまだ遠いのだろう、と思っていたが、小声で歌っていただけだった。
信号に引っかかりそうになると、声を小さくするようにしているのかもしれない。
僕の斜め前で片足を地面に着けている母親は、予想よりも若く見えた。
横顔しか見れないが、顔はまっすぐに前を向いており、続きを歌っているのか口元が動いている。
可愛らしい人らしかった。
「さぁ、発車するわよ!」
「しゅっぱつしんこ~~!!」
信号が変わると母親は後ろに座る子どもに声をかけ、ペダルを踏んだ。
子どもの掛け声に促され、彼女たちを見ながら僕も歩き出す。
ほほえましいなぁ。
口元が緩んでしまいそうになるのを引き締める。
傍から見たら、思い出し笑いしてるヘンタイだ。
自転車が僕から2メートルほど行った所で、後ろの子供がくるっと振り返った。
へ?
彼女たちに気付いて1カ月。
こんな事は初めてだ。
思わず足を止め、見詰めてしまう。
子どもは僕をじっと見て、べぇっと舌を出し、指で片目を引き下げた。
………いきなり”あかんべぇ”ってどういう事だ?
自転車が道を渡りきった所で子どもは前を向いた。
プッとクラクションが鳴らされる。
僕は立ち止ったままだったのに気付き、小走りで道を渡った。
あの日から僕を追い越して行く時、子どもがべぇっと舌を出している事が増えた。
初めはびっくりしたし、失礼な、と腹立たしくも思ったが、子どもがする事だ。
振り向かれた時、思い切って小さく手を振る様にした。
彼女もびっくりしたようだったが、その所為か舌を出すのを忘れていて面白かった。
そのうち彼女も手を振る様になり、小さな友人が出来た様な気がした。
お互いの名前を知る事なく、笑顔で手を振るようになってから半月も過ぎた頃、変化が。
遠くから聞こえて来るはずの歌声がないまま自転車で追い越された。
「………だめよ。その話はもう……」
母親が子供を窘める声が耳に入り、驚く。
すぐに赤信号で止まった彼女たちの会話に耳を澄ませる。
母親は顔を前に向けたまま、子どもに話しかけた。
「……だから行けないの。あなたの気持ちは分かるけど…「分かってないっ!クロエのバカっ!!」……お願い、ライラ。困らせないで」
どんな我ままを言ってるんだろう?
ライラ、と呼ばれた子はふんっと顔を背け、少し離れた所に立ち止っている僕に気付いた。
彼女はニヤッと笑い、おいで、と手招きする。
目が合ってるから、僕の事?
何が何だか分からないまま、彼女に近づく。
「さぁ、出発するわよ」
「だめっ!クロエ、ちょっと待って!」
母親のペダルに載せた足が止まった。
「何なの?ライラ、いい加減に………」
母親が後ろを向いた。
自転車のすぐそばに立つ僕に気付き、言葉を失ったようだ。
一応笑顔を見せ、不審者じゃない事をアピールする。
「おはよう、ミスター。私はライラ。今日もいい天気ね」
ライラは母親に構わず、僕の前に手を差し出した。
僕は差し出された手と握手して、自己紹介をした。
「おはよう、ライラ。僕はドミニク。いつも素敵な歌声をありがとう」
「どうってことないわ。我がコーラス部の練習時間なの」
部長は私、とライラは肩を竦めた。
部員は二人って事かな?
そうか、と返事していると、あのぉ、と声がかかる。
母親が僕を訝しげに見ていた。
「クロエ、彼はドミニクよ。ドミニク、彼女はクロエ。二人とも仲良くしてね」
………まるで学校の先生だ。
握手は?とライラに言われ、慌てて手を出す。
僕達が握手するのを満足げに見たライラは、これで決まりね、と僕を見た。
「ドミニク、あなた今度の週末、用事ある?」
「いや、ないけど」
「じゃぁ、私をプールに連れてって!」
「はぁ?」
「ライラっ!!だめよ!ドミニクさん、ごめんなさい。子どもの言う事なんか信じないで」
クロエは慌てたよううに自転車を降り、スタンドを立てた。
ライラを後ろの椅子から下ろし、自転車の横に立たせる。
クロエはライラの前に膝をつき、手をとった。
「ライラ、いい加減になさい。あなたの我ままで他の人にまで迷惑かけないで。週末は映画に連れて行ってあげるから」
「いやだ!絶対、ぜぇったいプールに行きたいっ!!」
ライラは今にも泣きそうだ。
ここは………僕の出番じゃないだろうか?
「あ~~、僕でよければいいですよ?特にする事もないし、泳ぐの好きですから」
仕事にするくらいには、得意でもある。
ライラが僕を見上げる。
「ホントに?!やったっっ!!」
「ダメよ!ドミニクさん、お申し出はありがたいんですが、構わないでください。この子の為にもなりませんから」
クロエは立ちあがり、僕を見上げて話す。
へぇ、思った以上に小柄。
で、可愛い。
はぁ………
可愛い子やきれいな子は人のものだって、良く言ったもんだな。
「本当にいいんです。何なら僕、水泳教えますよ」
僕は内心のため息を隠し、ポケットに手を入れる。
「僕、こういう者です。怪しくなんかないですから」
ポケットから会社のカードを取り出し、クロエに渡す。
「これ………インストラクター?」
「えぇ、水泳教えてるんです。あぁ、勿論、ライラにはサービスです。泳ぐの好きな子が増えるのは大歓迎なんで」
クロエは僕をじっと見た。
そんなに見つめられたら勘違いしてしまいそうだ。
バカな考えを振りはらう。
「明後日の朝10時。この場所に来て下さい。一緒にプール行きましょう」
彼女たちに手を振って、丁度変わった信号を渡る。
「ドミニク、いってらっしゃぁいっ!」
ライラの大声に振り向いて手を上げ、小走りで会社に向かった。
その日の昼、僕は来客だ、と呼び出されプールから出た。
ざっと体を拭いてパーカーを羽織り、短パンを履く。
ロビーに行くと、予想通り、クロエがいた。
「ご連絡もなしに来てしまって申し訳ありません」
「いえ、もう昼休みでしたから。食事に出る前で却って良かったです」
クロエは明らかにホッとしたような表情を見せた。
「クロエさんはお昼はもう済みました?」
「いえ。あ、でも、そんなにお時間頂こうと思っていませんから」
「すぐそこに美味しいランチ出す店があるんです。行きましょう」
クロエの言葉を半分以上無視して外に出た。
クロエは慌てたように付いてくる。
ちらっと見ると、困ったような表情で僕の少し後ろを歩いている。
ほんの1分で目的の店に着く。
店のドアを開けて彼女が入るのを待つ。
クロエは困った表情のまま中に入り、僕がマスターに手を上げるのを見て、僕が案内した席に座った。
「ここ、何でも美味しいんですけど………お勧めはこれです!」
僕はメニューを見ているクロエに指差して教える。
「ぁ、じゃぁ、これを頂きます。………大盛りじゃないのをお願いします」
僕はマスターに同じランチプレートの普通と大盛りを頼んだ。
「すみません。いつも大盛りなのもだから、指差す場所間違えました」
「いえ、大丈夫です」
クロエは少し笑顔になって僕を見た。
「あの、早速ですが…「はい、お待たせ」……」
ここの売りは、味とオーダーしてから出て来るのが早い事。
「ありがと、マスター。今日も美味そうだね」
「あぁ、ドミニクが女性を連れて来るなんて初めてだから張り切っちゃったよ」
マスターは笑顔でクロエの前にもプレートを置いた。
「お嬢さん、ドミニクはいい奴だから、安心なさい。私が保証するよ」
クロエはまた困ったような顔になった。
「マスター!彼女は友人なんだ。ごめんなさい、クロエさん。悪気はないんだよ」
「おぉ、こりゃいかん。私の早とちりを許しておくれ」
クロエは慌てて手を振った。
「いえ、大丈夫です。何とも思ってませんから。これ、美味しそうですね。頂いてもいいですか?」
その場を取り繕うようにナイフとフォークに手を伸ばす。
チキンを切り、口に運んだ。
「うんっ?!美味しい………これ、本当に美味しいわ。マスター、これ、作り方教えて下さいませんか?」
マスターはニヤッと笑って人差し指を立て、ちっちっち、と振った。
「お嬢さん、これは企業秘密の一つでね。教える訳にゃぁいかん」
「そうですよねぇ。………何でこんなにジューシーに焼き上がるんでしょう?お肉が違うのかしら?」
「さて、それも企業秘密さ」
マスターは笑顔のままカウンターに戻っていった。
「いっつもライラに怒られるんです。家事の手を抜きすぎだって」
僕も食事をとりながらクロエの話を聞く。
「一人だった頃は十分だったんですが、扶養家族が増えるって結構大変で………」
ん?
何かヘン。
「クロエさん、誰を扶養してるんですか?」
「ライラです。急にあんなに大きい子のお母さんになっちゃって、びっくりです」
………どういう事だ?
「あぁ、そうか。お話してませんでしたね。ライラは私の姪です。去年の春に事故で両親を亡くしてしまったものですから、引き取ったんです」
僕の質問が聞こえたように、クロエは話し始めた。
クロエの兄夫婦は列車事故で還らぬ人となった。
一緒に乗っていたライラは、奇跡的にかすり傷程度で済んだ。
ライラはその時5歳だった。
幼いのに過酷な経験をし、半年ほどは声を出す事も出来なかったようだ。
そんな彼女を引き取ったクロエは極めて普通に接した。
「私たち兄弟も両親と死に分かれました。私達は孤児院で育ち、今、普通に生活しています。同じ事がライラも出来るはずですから」
共に暮らし、話しかけ、手伝いをさせる。
約束を守らない時は壁に向かって反省させる。
そういう日常の繰り返しの中で、ライラは言葉を取り戻し、口うるさい小姑が出来上がった、とクロエは笑う。
「それでも、いつもは聞きわけのいい子なんです。出来ない、と私が理由を付けて話せば納得してくれるほどには」
「でも、今回は違った?」
「えぇ。小学校のお友達が家族で行った事を自慢したらしくて………他の所なら連れて行けるんですが、プールはダメなんです」
「それは何故か聞いても?」
クロエは少しだけ悲しそうな顔になった。
「私達の両親が水の事故で亡くなったんです。溺れた私を助けに行こうとして………たくさんの水はちょっと恐くて」
だから、あなたが連れて行ってくれる事は本当は嬉しい、とクロエは笑顔になる。
「お言葉に甘える形になって、本当に申し訳ないんですが、水泳のインストラクターの方なら安心してお願いできます」
「安心してて下さい。こう見えてもライフセーバーの資格もあります!」
パーカーの袖をまくり、力瘤を見せる。
クロエは頼もしいですね、と笑った。
食事を終え、休憩時間も残りわずかになった。
チェックをする事なく店を出た僕にクロエが慌てて付いてくる。
「あのっ!無銭飲食ですか?」
いやいや、ないから。
「マスターに手を振って出たでしょ?月末に一括して払う事にしてるんです。こんな恰好で出るからね」
「ぁ、私の分払います」
クロエはバッグの中から財布を出そうとする。
「いえ、今日は奢らせて下さい。ライラにナンパされた記念です。おかげで楽しい食事が出来ました」
それでも納得いってなさそうだ。
「今からまたプール入るんで、お金、邪魔になっちゃうんです。ホント、気にしないでください」
クロエはやっとバッグから手を出した。
「では、明後日、私がご馳走します」
クロエの言葉にガッツポーズを取りたくなるのを堪え、笑顔を返し、会社に戻った。
そして約束の日。
僕は浮き立つ心を押さえつつ、約束の交差点に向かった。
本来なら彼女たちの家に迎えに行くべきなんだろうが、あの時点では………今でも、家を尋ねるのは、失礼だろう、と思った。
交差点の隅っこに彼女達はいた。
5分前に着くように出たのに………
「お待たせしてすみません」
「おはよう、ドミニク!行こう!!早くっ!!」
声を掛けながら近づくと、ライラが駆け寄ってきた。
「おはよう、ライラ。いつから来てた?」
「う~~ん……15分前位?」
ライラはクロエを見る。
クロエは、おはようございます、と自転車を押しながら近寄ってきて困ったような顔をした。
「そうね………そのくらいかしら。あなたが早くって急かすから、ドミニクさんに気を遣わせちゃったわ」
「荷物が多いから自転車に乗れないって言ったの、クロエでしょ?歩いて行くなら早く出ないと」
見るといつもライラが乗っている椅子にバスケットが乗っている。
水着とタオルだけでいいって言ったはず。
僕がバスケットをじっと見てるのに気付いたんだろう。
「あ~~お弁当を作ってきたんです。この前の………「あぁ、そうか。嬉しいな」……いえ、期待しないでください」
ご馳走するって、こういう事だったんだ。
初めての………デートだ。
家に招待されて食事を、なんて考えていた自分が恥ずかしい。
それに、考えようによっては………手料理には違いない。
ライラにズボンを引っ張られる。
「何?ライラ」
屈んでアイと目の高さを合わせる。
「この前のって何?」
「あぁ、持ってくる物を聞かれたんだ。その時、昼は任せて下さいって言われてたの、忘れてた」
ライラは訝しげな視線で僕を見ていたが、肩を竦めた。
「ま、いいわ。言っとくけど、クロエは家事が下手なの。余り期待しない方がいいわよ」
途中から声を落とし、囁くように僕に教えてくれる。
………ずいぶん大人びた口調だな。
「ライラ、また私の悪口ね?人には向き不向きがあるって何度も言ったでしょう?」
何度もこういう会話をしてきたんだ。
面白くて、口元が緩む。
「ドミニク、笑い事じゃないのよ?クロエ、一日中家にいるのに、全く、全然、家事しないの」
「もういいから!ドミニクさん、行きましょう。ライラのお小言に付き合ってたら日が暮れてしまうわ」
「だって。さ、行こうか?」
僕はライラと手を繋いで信号を渡った。
クロエは僕達の後ろから自転車を押して付いてくる。
彼女は誰かの隣を歩く事があるんだろうか?
そんな事を考えながらライラの歌声にハミングした。
プールは公共の室内プールに行く事にした。
バスケットを見るまではホテルのプールの方がゆっくりしていいだろう、と思っていたが、アレの中身を早く見たい。
混んでるプールなら休憩も取りやすいし、ロビーでバスケットを広げる事も出来る。
歩いて行けるのも魅力的。
クロエが駐輪場に自転車を止めるのを待ってロビーに入る。
………あれ?
思ったより人が少ない。
フロントで使用料を払い、理由を聞く。
フロント係は苦笑しながら暇な理由を教えてくれた。
あ~~今週だったんだ。
忘れてた。
入口の所できょろきょろとして立っているクロエとライラを呼ぶ。
「二人とも、着替えないと」
二人は慌てたように近寄ってきた。
「更衣室は、あそこ。プールキャップ、ある?」
「うんっ!ゴーグルも持って来た!!」
ライラは背負っているリュックを指した。
「クロエさんは………ライラが着替えたらシャワーをさせて下さい。プール入口に僕がいますからライラを出して。その後はあっちの見学室に」
「はい、お願いします」
クロエはアイを連れて更衣室へ。
僕も急いで着替えてシャワーして、ライラが出て来るのを待った。
「ドミニク!入ろう!!」
シャワーをしたライラは更衣室から飛び出して来た。
「ライラ!ここは滑りやすい。絶対に走っちゃだめだ。約束できるかい?」
転んで頭を打ったりしたら大変だ。
「ごめんなさい。クロエにも言われてたのに、忘れてた」
ライラが失敗したって顔で見学室を見る。
ガラスの向こうにクロエがいた。
心配そうにこっちを見ている。
「そうか。じゃ、安心させる為に手を振っとこうか?」
「うん。クロエ、すっごい心配性なの」
僕達が笑顔でクロエに手を振ると、手を振り返し、置いてあったソファに腰掛けた。
「さ、準備体操してから入るよ?腕に着けてる浮き輪はそのままでいいからね」
ライラと一緒に体を伸ばし、関節を廻す。
子ども用に浅くなったプールに入り、僕のレッスンが始まった。
何とかバタ足が出来るようになった頃、休憩でプールサイドに上がる。
クロエはどうしてるかな?と見学室に目をやれば何か書き物をしているらしかった。
眼鏡をかけ、ペンを唇に当て、何か考え込んでいる。
「クロエ、小説家なの」
ベンチの隣でライラが教えてくれる。
「だから一日中何か考えてる。家事してる時も上の空の事が多いってわけ。散らかってはないけど………ママみたいに家中磨いたりしない」
ライラはクロエを見ながら淡々と話す。
「ママはきれい好きで、家中ピカピカだった。料理だって上手。チキンを焼き過ぎたりしないし、オムレツだってふわふわだった」
「そう。………ライラはクロエの事好き?」
ライラはびっくりしたように目を見開き、僕を見た。
「好きに決まってるわ。私がクロエに厳しいのは、クロエに幸せになってもらいたいからよ。家事が出来なくちゃママみたいにはなれないから」
なるほどね。
ライラは”ママの幸せ”をクロエにも当てはめようと懸命らしい。
「ライラ、人の幸せはそれぞれだよ。家族の為に生きる事も、仕事に生きる事も、どちらも素晴らしい事だと思う」
「でも、男の人は奥さんに家の事をして欲しいものなんじゃないの?」
「………ライラ、幾つだっけ?」
「体は小さいけど7歳になったわ。もうすぐteenよ。質問に応えて」
………10代の壁はまだまだ先だよ?
最後にyを付けた方がしっくりくる。(teeny=ちっちゃい)
「僕は………どっちでもいいよ。家事なんて分担すればいいし、出来る方がやれば済む事だろう?彼女が幸せなら、構わないよ」
ライラは肩をすくめる。
「ドミニク、あなた、甘いわ。出来ないより出来る方が絶対にモテるんだから」
いっぱしの事を言うライラに苦笑しながらプールへ入った。




