死にたくない
愚かで身勝手な、自尊心ばかりを膨らませてしまった男。努力を惜しんで、すべてを他人のせいにして。
「おや?まだ一人いらしたんですね」
しまった。
先ほどまで話をしていた女官が、テーブルの陰に隠れていたのは知っていた。魔物の注意が私だけに向いていたので、じっとしてれば気づかれずにすむと思い、わざと視線を動かさずにいたのに……。
自分の考えの甘さに、ほぞを噛む思いだった。
「生きているのは辛いでしょうから、楽にして差し上げます。感謝して下さい」
言うと同時に、あの黒い球を無造作に彼女に投げた。
凍りついたように動かない彼女をかばおうと飛びついた。とっさのことで受け身も取れず、床に体を打ちつけて、部屋の端まで転がって止まる。
完全にかばいきれなくて、彼女の左足はずたずたに切り裂かれていた。まだ意識はあるが、かなり危険な状態なのは間違いない。
私の着ていた服も、あちこちがぼろぼろになっている。左腕は骨が折れたのか、肩から下の感覚が無い。腰まであった髪は、肩の上でばっさり切り落とされていた。彼女に飛びついた時、ほんの少し頭を下げるのが遅れていたら、髪ではなく首を落とされていただろう。
逃げ切れない・・。
半ば以上、覚悟を決めていた。
悔しさのあまり噛みしめた唇が痛い。
あきらめたくない。でも、怪我人を抱え、反撃するすべも持っていない。立ち上がることすら、できそうにない。
魔物は再び黒い球を手のひらに作り出していた。
私は死ぬんだろうか?
黒い球を見ながら思った。
魔物の動きがやけにゆっくりに見える。
死にたいと思った事もあった。死のうとした事もある。だけど、死に直面した事はなかった。
死にたくない。生きていたい。やりたい事がある。助けて!
恐怖などと言う生やさしい言葉では表現できない何かが、心の奥底からわき上がってきた。
魔物が赤い目をぎらぎらさせながら、球を投げる。
「いゃあぁ!」
ずっと押さえていた悲鳴が喉から滑り出た。
同時にラディアンが虚空からにじみ出るように目の前に現れ、黒い球がかき消すように消滅する。
「結界なんか張らなきゃ見つからなかったのに。用心したつもりが、あだになったな、セイラム」
傍若無人なラディアンの声に、意外にも、魔物は身を翻して廊下へ駆け出していく。
「逃がすか!」
追いかけようとしたラディアンの足に、右手だけで、ひしとしがみついた。
「行かないで!」
引き止めてはいけない。ここで魔物を逃したら、新たな犠牲者が出る。頭ではわかっていたが、側にいてほしかった。
「お願い、一人にしないで。恐い、恐いよ! 助けて! ……いや! 殺される! 死にたくない! 殺さないで! 助けて!」
一瞬躊躇したラディアンだったが、すぐに向き直り、血の海に座り込んで恐怖に震える私を、膝をついて抱きしめた。
「大丈夫か、レジェ。魔物は逃げたから、もう心配ない」
彼の胸に顔を埋めて泣きじゃくった。しがみつきたいのに腕が上がらない。体中が激しく痛む。
「すまなかった。俺がレジェから目を離したから。まさか、こんなことに……」
ラディアンの声が、遠くから聞こえるような気がした。
騒ぎを聞きつけて衛兵が集まってきたのか、あたりが騒がしい。
「なにがあったんじゃ! これは、いったい、……レジェ?」
誰が話しているのかよく聞き取れない。
「説明は後だ! 早く手当てを!」
ラディアンに抱き上げられた私は、
「待って、私より彼女を……先に」
かろうじて動く右手で、横たわったままの女官を差した。
「大丈夫だから、しゃべるな」
返事は出来なかった。
呼吸を止めたくなるほど胸が痛い。肋骨も折れたんだろうか?
喉の奥に、熱い固まりが込み上げてきて、嘔吐感のままに吐き出した。
体のどこにこれほど残っていたのか、と思うほどの大量の赤黒い血が、口からあふれだした。
規則正しい呼吸も、もう出来ない。
だめかもしれない……。
「レジェ! しっかりしろ。死ぬな! レイジェラーン!」
瞼を閉じる直前に見えたラディアンの泣き出しそうな顔に、奇妙な安心感を覚えながら、ゆっくりと、意識が薄れていった。




