夕立
地下鉄から地上に出た途端、ズン……と遠雷が響いた。
ぎょっとして空を仰ぎ見る。ぎらぎらと青い空であるはずが、不穏な黒雲が今しも頭上に差しかかろうとしているところだった。
几帳面に折りたたみ傘など持っていなくとも、雨に濡れることに了承さえすれば、アパートまで歩いて帰ればいい。けれど今日に限っては、しおらしく鞄を抱えて小走りにならざるを得なかった。
ーー興味があるなら貸すよ。
そう言ってはにかむように笑った先輩が、今さっき貸してくれたばかりの古い詩集が入っているのだから。
しかし真夏の気象は無情である。生卵を落とせば焼き目がつきそうなアスファルトに、最初の大粒な一滴が突き刺さり、加速度的に数を増やしていく。雨宿りをしても通報されず、夕立が長引いても滞在していられるところはないか、ただしこのあたりにカラオケはない。焦る頭で見回して反射的にくぐった軒先は、今まで入ったことのない場所のものだった。
いよいよ雨音が聞こえはじめるのを背中に感じながら、間口からの自然光だけに任された薄闇に、一瞬、目が戸惑って立ち止まる。番台で新聞を読んでいた男性が、眼鏡をずり下げてこちらを見た。
「いらっしゃい」
「あの……どうも」
貼り出された料金表を上目遣いに見て、小銭を男性の前へ置く。タオルを借りて、男、と白く染め抜かれた紺のれんをくぐると、無人の脱衣所に扇風機だけが回っていた。
アパートから最寄り駅への道すがら、銭湯があるな、とは思っていた。そうはいっても、風呂付きのワンルームに暮らしているとわざわざ銭湯に来ることもない。はじめてが貸し切り状態である。
服を脱ぐには広すぎる場所にひとりきりであることにむしろ気後れがして、雨に濡れた服をもそもそと剥ぎ取り、そそくさと浴場の引き戸を開ける。
湿った暖気が身体を包む。夏の印象に誤魔化されて気がつかないうちに、地下鉄の冷房や通り雨で身体は冷えていたらしかった。思いがけずほっとしながら、乾いたタイルの床を二、三歩進んで、頭上を仰ぐ。女湯のある方とは逆側の、壁の上部が窓になっていて、積乱雲でも覆い尽くすことのできない真昼の明るさを浴場へ通していた。
その明るさの中で頭を濡らすのは何だか妙な気分だった。シャワーを思い切りかけてしまってから、そういえば雨宿りなのだから別に風呂に入らなくても、と遅まきながら気づく。気づきながらも、手は無意識にシャンプーを出し、髪に泡立てている。習慣は容易に止まってはくれない。
脱衣所に入ったときに気づくべきだったことを、今さら蒸し返しても仕方ない。もう忘れることにして、習慣に両手を明け渡す。無心に全身をすすいで、黄色い桶を蛇口に引っかけ、浴場を真っ直ぐ横切って湯船に沈む。
ため息のまま声が漏れて、天井に響いた。広々とした湯に手足を伸ばす。水面の波立ちが収まるとともに、シャワーの音に追いやられていた雨音が戻ってきた。
建物のかたちを際立てるように、強弱をつけて夕立が降り注ぐ。さっきよりも近くなった雷がまた、長く尾を引いた。
SNSの履歴をさかのぼることも、ランダム再生の音楽を聞くこともなく、ただ髪の先から雫が滴っているのを感じていると思考は散漫になっていく。
ーー詩っていつ読めばいいのかわからなくないですか、先輩。
ーー喫茶店でも電車でもトイレでも……食事中は向かないかな、頭に入らないし、味噌汁も冷めるし。
骨が太く、筋肉が少なく角張った身体は、昼日中の光に照らされて、ふやけたようにほの白い。輪郭は湯を通して歪み、あらためて明るい中にまじまじとさらしてみると、図体ばかりが大きくなった頼りない容れ物に見える。
ーーお好み焼きが焼ける間は?
ホットプレートの向こうで、缶ビールを傾けながら、先輩は幸せそうに笑みをこぼす。
汗が目に染みて我に返る。のぼせて目眩がしはじめる前にと湯船を立ち上がると、運動不足のインドアと自認する身体も血のめぐりが随分よくなっていた。
汗をあらかた洗い流しても、脱衣所に出て身体を拭く傍から肌が濡れていく。エアコンが効いているわけでもなく、夏場に風呂に浸かるものでもない、と後悔しかけたところで、何を守って銭湯に入ったのかふと思い出した。
申し訳程度に下着一枚で、タオルを首にぶら下げて、鞄から文庫本を取り出す。検分した限り無事なようで、ほっとしながらぱらぱらとページをめくる。しばらく棒立ちで目を通してから、片手に文庫を開いたまま籐椅子を引いてきて、腰を下ろす。
それから、雨音の代わりに蝉の声が戻ってきて、汗がすっかり引いてしまったことに気がつくまで、黄ばんだ紙に刷られた小さな活字に見入っていた。