009 文系男子と理系女子の公演前夜
ある週末の放課後。稲穂は買い物に来ていた。
より具体的に言うと、蒼葉が所属する演劇部の公演がある休日の前である。
土日の二日間、計二回公演があるので日曜日に観に行くつもりだったのだが、やむにやまれぬ事情ができたので、稲穂は急遽放課後に買い出しに来ているのだ。
「気が向いたら……じゃなかったの?」
「ついでよついで、そろそろ秋物も欲しかったし」
事情を話し、一緒に買いに行く約束をしていた指原達と合流してから、今回は商店街にある個人商店へと来ていた。本当は数駅先のショッピングモールまで行くつもりだったのだが、放課後ではあまり時間も取れないので、近場で済ませることになったのだ。
「でもイナホ、いまみているのなつものだよ?」
その様子を長袖パーカーとスパッツ姿の中学生位の娘が指摘してきた。茶色の長髪と黒めの肌を持つ痩せ気味の少女、立華クラは顔見知りの店主との会話を終えて、稲穂達の元へと歩み寄ってくる。
「余計なツッコミはいらないわよ、クラ」
「でも今の時期、夏物が安いのはたしかよね」
「在庫一掃セールやるのに、店の大小とかは関係ないのね……」
個人経営のため、量産体制がないのでデザインごとにサイズも違い、単価も安い方ではない。しかし、ブランドとしては無名な方だが、固有のファンは多いのか稲穂達以外にも世代を問わず、客足が途絶えていない。
それもあって量販店よりかはいいかと寄ってみたのだが、予想以上にデザインの良いものも多く、指原も何か買おうかといくつか物色している。
「というか、観劇ったってしょせんは学校の劇でしょう。いちいち洒落込む意味あんの?」
「洒落込む、というより服がないから買いに来た、ってのが正しいわね」
適当に気に入ったワイドパンツをかごに入れ、トップスをどうしようかと迷っている稲穂。その様子を眺めていた指原は、手に持っていたTシャツを棚に戻した。
「……スカートとか嫌いなの? あんた」
「デートじゃないのに穿いてってどうするのよ?」
「でもイナホ、まえにアオバが『せっかくのデートなのに露出がほとんどなかった……』ってぼやいてたよ?」
「あいつ年下相手に何ぼやいているのよ……後あんたもなんでこういう時だけ流暢なのよ」
変なところで日本語がうまくなるタイ人とのハーフ、クラに呆れる稲穂だが、その手が隣に陳列してあるスカートに伸びることはない。
「別に穿けばいいのに……」
「こればっかりはどうもね……」
指原に言われるも、稲穂の気が変わることはなかった。
いつも通りのパンツスタイルで行くことに決めた稲穂は、そのまま会計に持っていき、清算を済ませた。
今日は元々、いつもの空き地でパルクール活動があったのだが、ある話を聞いて予定を変更したのだ。指原とクラはそれに付き合っただけに過ぎない。
「……で、紗季先生が日曜日に観に行くとかいう話を聞いて買い物に来たわけだけど」
「もう気づいているんでしょう?」
買い物袋片手に店を出た稲穂は、並んで出てきた指原にそう返した。
「その紗季先生ってのが、多分私の母親よ。今はどんな人生を送っているのかは知らないけど……子供を捨てた過去は変わらない」
時間があれば、今もパルクール活動をしている蒼葉達に合流してもいいのだが、今からだと大して身体を動かせないだろう。クラを実家である喫茶店『珈琲手製』に届けてから帰ろうとする途中だった。稲穂と指原がある人物について話していたのは。
「指原にとって、その紗季先生って何者なの?」
「かかりつけの診療所の所長」
実にシンプルな回答だった。
「……兼、子供達の遊び相手ね。休憩中はよく隣の公園をぶらついていたから、近所の子供達に懐かれていたのよ。転んだ子供の手当てをしたりね」
「そう……」
その公園は、ここから歩いていける距離にある。その気になれば、先にある診療所にも足を伸ばせる。
だが、今の稲穂がそこに行くことはない。
「……私はその公園で捨てられた、と思う」
「探してたんじゃない?」
「生死を気にしていたかは知らないけどね……」
もうすぐ、稲穂は十七歳になる。つまり、下手をすれば十七年近くも、紗季は自らが産み捨てた赤子を探していたことになる。
稲穂が穂積の元で育つ間も、紗季にもまた同じ時間が流れていた。その間何をしていたのか、それを互いに知る術はないのだ。
……それぞれが向き合う以外には。
「……で、あんたはどうしたいの?」
「それがさっぱり……」
稲穂はどうしたものかと顔を顰めて、肩を竦めた。
「どう考えてもデメリットしか出てこないから、こうやって相手を避ける以外にできることが思いつかないのよ」
「そりゃ、捨てられた仕返しでしょう」
指原は稲穂の答えを否定した。
いや、求めていた返答ではないと否定してきた。
「私が言っているのは……『母親』という存在そのものに、何かを求めていないのか、ってことよ」
「ぇぇ……いまさら母乳とか要らないわよ」
「誰もそこまで言ってないわよ」
要するに、稲穂にとって母親とはどういうものなのか。
そして、母親に何かして欲しいことはないのか。
指原は稲穂にそう問いかけていたのだ。
「いっそ我儘放題でもいいんじゃない、って言いたいのよ私は」
「我儘ったって、あの女が近くにいるだけで体調不良起こすのに……ああ、金だけ振り込んでもらうとか?」
「慰謝料代わりに?」
「……やっぱり止めておく。金は金だけど、あの女の金ってだけで気分悪くなりそうだし」
その時ふと、稲穂の脳裏にある疑問が浮かんだ。
「というか……診療所、ってそんなに儲かるの? 高収入って大病院とかの話だと思っていたけど」
「私も詳しく聞いたことはないんだけど……」
一呼吸置いてから、指原は記憶を呼び起こそうと顎に指を当てて、考え込んだ。
「……大病院に知り合いがいて、難易度の高い手術を代行する対価に、とんでもない金額を請求しているって話よ」
「何の医療ドラマよ、それ?」
「それも本当かどうか、怪しいけどね。もし本当なら、勧誘されていてもおかしくないでしょう」
医者のなり手は少ないので、どこであろうとも人材不足は否めない。
特に腕の立つ名医等、引く手数多だろう。それを最も人手を欲している大病院が求めないはずがない。
「あんたの話を聞いて、最初は公園近くに張り込もうと断っているのかと思ってたわ。でも、実際は知らないけど、思い出す限りそんな様子が全然ないのよ。ずっと断られてて勧誘するだけ無駄と思われたのか、別の理由があるのかは知らないけどね」
「そう……」
話し込んでいる内に、喫茶店『珈琲手製』の看板が見えてきた。クラの父、由が以前、仲間を引き連れて暴れていた痕跡はすでになく、もうすぐ閉店するのか、祖父であり店長でもある縁が調理器具を片付けているのが店外からでも伺えた。
もうすぐ家に着くとあってか、ようやく帰れると今まで黙っていたクラがとてとてと歩き出していた。しかし数歩歩いてから、立ち止まって稲穂達の方へと振り返ってくる。
「……イナホ」
「何?」
何かと思い、クラのそばに寄ってしゃがみ込む稲穂。その瞳を覗き込みながら、少女は首を傾げながら問いかけてくる。
「サキせんせいと、あいたくないの?」
「……どうかしらね」
「おかあさんかもしれないのに……?」
稲穂は立ち上がり、クラの頭を軽く撫でてから背を向けた。
「わたしのおかあさんより、やさしいのに?」
「…………どうかしらね」
人の心が分かれば、誰も苦労しない。
しかし、分かり過ぎても相手の嫌な部分ばかり目についてしまう。
「結局さ、何が正しいのかなんて、誰にも分からないんだよ」
「それが金子さんを誘ったことと、何か関係があるの?」
空き地の端でペットボトル片手にしゃがみ込んでいる蒼葉に、黒髪の長髪を首元でまとめている長身の定時制高校生、八角遼が壁にもたれながら問いかけてきた。
今はしゃがんでいる分、立ったままの八角とはかなりの身長差が生まれている。なので蒼葉が見上げると若干首筋に痛みが走り、長くもたないからと早々に目を合わせるのを諦めていた。
「……正直に言っていい?」
「内緒話?」
「内緒話」
他に聞いている人間はいないかと見渡し、納得して一度頷いてから、蒼葉は語り始めた。
「自分の実力がどれくらいのものなのか、って知りたくなること、ないか?」
「まあ……バイトしていると、もっと時給高くてもいいんじゃないかな、と思う時はあるね」
「俺は脚本で、だ」
ペットボトルの中身が空になり、蒼葉は蓋を閉めてから横に置く。
「今度の劇でさ、そういう、『過去を乗り越える』的な話を考えていてな。それでうまいこと、二人に良い影響を与えられないかなって企みついでに実力試しを、な……失敗したら思いっきりこじれそうだけどさ」
「ふ~ん……」
少し考えてから、八角は蒼葉に問いかけた。
「ちなみにどんなお話?」
「そうだな……」
蒼葉は自分の劇のあらすじを、簡潔にまとめて答えた。
「勇者や魔王という役割に逆らう話、かな」