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008 文系男子と理系女子の洗濯事情?

 放課後、稲穂は実家へ帰宅してから、洗濯物を荷物にまとめていた。

 実家に洗濯機がないわけではないのだが、物干しが庭にあるので、父親とはいえ男の目があると干すのを躊躇(ためら)ってしまう。だからある程度溜まると、稲穂は洗濯物をまとめてから、近くのコインランドリーに運んで洗濯と乾燥をひとまとめに行っていた。

 近年のコインランドリーでは数が少ないとはいえ、洗濯と乾燥をひとまとめに行う機体も存在する。量によっては一時間以上掛かることもあるが、他に用事があるならばその間に済ませればいい。

「思ったより上がっていない……」

 最近では盗難防止用の監視カメラの他に、Wi-Fi等の設備が充実した待合室が用意されていることも多い。

 稲穂はその待合室にてタブレットPCを操作し、株価の推移を確認していた。しかし今日の取引は納得のいくものではなく、若干苛立たしげに片付け、今度は行き掛けに購入した雑誌を広げ始めた。

「ろくなことがない……はぁ、生まれてからずっとね…………」

 自嘲気味にぼやく稲穂だが、それを聞く者はいない。

 穂積の手回しで部活動はしばらく休みとなってしまい、稲穂がコインランドリーを訪れたのは夕方前。主婦が家事を片付ける昼間や、社会人の仕事が終わる夜更けでもないので、人の気配が他にないのだ。

 だが、今の稲穂には、この時間はとても重要だった。

 過去と向き合うか、それとも目を背けるか。

 どちらが正しいとは言わない。けれども、正誤の判別がつかない回答ほど、自分自身で選ばなければ先へ進めないのもまた、人生だ。

 向き合うか、(そむ)けるか、それとも…………

「…………母親、か」

 稲穂の目は雑誌から離れ、いつの間にか頭上を見上げていた。

 無機質な天井を視界に入れながらも、稲穂はもっと、別のものを見つめている。

「…………」

 母親に憧れたことはない、と言えば嘘になる。しかしその憧れを持った途端、何故か心が拒絶していた。

 無意識に母親を拒絶している自覚はなかった。自らの出生を聞かされるまで、稲穂にはその理由が理解できなかった。そして聞かされた途端、無自覚だった感情を理解するに至ったのだ。

 おそらく、いや間違いなく、稲穂は恐れていた。




 嫌悪以上の…………恐怖を。




「また、捨てられるとでも思ってるのかしら……?」

 もう少し端的に言えば、否定。

 産んでくれた人間には自らの命を否定され、逆に血もつながらない人間達に不器用な愛情を注がれる。だが、それだってまだ運がいい方だ。

 実際の捨て子なんて、生き方は二種類しかない。周囲に見捨てられた中生きるか、どこぞの路肩で命を落とすか。そんな悲惨な人生は、稲穂とは今のところ無縁だった。

 自らの衣服、まともな教育、上流寄りで多少の贅沢が許される家庭。

 そして……やさぐれ(あまえ)ていても受け入れてくれる父と祖父母達。

「……ああ、だから拒絶していたんだ」

 産みの親に壊されたくなかったのだ。せっかく手に入れた、幸せを。

「ゃ…………」

 精神(こころ)が身体を支配することもある。

 最大の精神的外傷(トラウマ)精神(こころ)が拒絶して、結果産みの親とは話せなくなる。会えなくなる。

 ……近づけなくなる。

「もう、いや…………」

 何故、自分だけこんな理不尽を味あわなければならないのか?

「どうしたら、いいのよ…………」

 稲穂は頭を抱え、腰掛けていた待合室のベンチに寝転がってしまった。

 膝から広げていた雑誌が落ちているのも気にせず、嫌なことを忘れようと目を閉じる。

 その間、目尻に何か、光に反射するものがこびりついていたかもしれない。けれども、当の稲穂には知る由もなかった。




「……ん?」

 気がつけば、視界から光がなくなっていた。

 いや、光は見える。(まぶた)が閉じているわけではない。視界を何かが(おお)っているからだ。

 その証拠に、(おお)いは視界を完全に封じているわけではなく、隙間からかすかな光が差し込んできている。目隠しや、布の類じゃない。顔の上にかぶさる感覚が正しければ、それは紙だった。

「雑誌……?」

 目が暗闇に慣れてくると、その中身が見えてくる。書かれている内容は、先程稲穂も(なが)めていた経済雑誌のものだ。全部を真面目に読んだわけではないが、このコインランドリーには漫画の週刊誌しか置いていないので、すぐに自分のものだと分かる。

 横になった途端、少し眠っていたのかもしれない。ただ……

「雑誌は落としたと思っていたけど……」

「ああ、俺が拾って(かぶ)せた」

 独り言を呟いたはずが、その声に返事が来た。顔の上から雑誌を取り上げ、上半身を起こして振り返った稲穂の前には、見慣れた人物が漫画の週刊誌から目を離さないまま、パラパラとページをめくっていた。

「……黒桐? 何で?」

「寝顔を見られたくないかと思ってな。雑誌は拾った時に軽く(はた)いたから、ごみはないと思うが」

「いや、そうじゃなくてっ」

 立ち上がった稲穂に対して、蒼葉は週刊誌を閉じて脇に置いてから後ろを指差した。

「部活帰りにここを通ったら金子を見かけてな。ついでに俺も洗濯に来たんだよ」

「……それで私の寝顔が見苦しくて、雑誌(かぶ)せたってこと?」

「いや。じろじろ見ていたら、後でブッ飛ばされそうな気がして……」

 そこはかとなく弱気な蒼葉に気を削がれてしまい、稲穂は腰に手を当てて息を漏らした。

「それに……泣いていた気がしてな」

「どうかしらね……」

 蒼葉の横に腰掛けて足を組む稲穂。

 ランドリーをみると、洗濯が終わるまでまだ少しかかりそうだと判断して、稲穂はそのまま蒼葉と話すことにした。

「……正直、もう泣き腫らしたと思っているから、もう枯れている気がしていたんだけど」

「そう簡単には枯れないよ。人間には感情があるんだから」

 生理現象で涙が流れる、という話ではない。

 精神(こころ)が泣き(つく)して、感情を殺していくという話だ。

 しかし、稲穂の精神(こころ)はまだ、死んでいない。

「感情が完全に死んでいないから、今こうしていられるんだろう?」

「そう……」

 稲穂は、天井を見上げて、そのまま首を固定した。

 何を考えているのかは、蒼葉には分からない。しかし、これだけは分かっていた。

 稲穂の悩みは……簡単には晴れないことを。

「気晴らしに、どこか出掛けないか? 急いで解決しなきゃならない悩みでもないだろ」

「親父の許可が下りるかもわからないし、何より……こうやって悩んでいること自体が『You can't() buy() a second() with() money().』なのよ。だからといって適当に片付けたくないし……面倒よね。私って」

面倒臭(めんど)さなら俺も負けていないぞ。そんなもんだよ、人間なんて」

 恵まれているのに、恵まれていないようにみえる家庭環境。そんなどっちつかずの内情が普通だというのなら、この世界はどこまで矛盾に満ちているのだろうか。

「……というか、」

 稲穂は雑誌を片付けながら、蒼葉の方を向かずに呟いた。

「女なんて他にもいるでしょうが。いちいち私に関わっても面倒臭いだけよ?」

「もう少し人を信じろよ。言ったろ、結構(かたむ)いてるって」

「……私はもう、あんたのこと。なんとも想ってないけど?」

「知ってるけど酷くね!? 先に告ったのお前なのにっ!」

 その時、ランドリーの一台がアラームを鳴らした。稲穂が洗濯物を入れた機体だ。ようやく洗濯が終わったのだろう。

「……じゃあいいや、金子!」

「張り上げなくても聞こえているわよ、何?」

 立ち上がって洗濯物を回収している稲穂に声を掛ける蒼葉だが、相手は振り向くことなく荷物をまとめている。本当は近づいた方がいいのだろうが、下着類とかも洗っているのならかえって嫌がられてしまう。というか殺されてしまう。

「演劇部の次の公演、よかったら観に来ないか?」

「公演? ……ああ、もうすぐだっけ?」

 蒼葉が夏休み中も演劇部の仕事をしているのは知っていた。

 一緒に食事を摂った後、稲穂が(勝手に)DVDを見ている横で、よくノートPCのキーボードを(たた)いていたからだ。

「なんなら親父さん同伴でもいいしさ。それに、少しは気晴らしになるだろう?」

「気晴らし、ね……」

 鞄を閉じ、少し悩む素振りをする稲穂。しかし蒼葉は、なんとなく確信していた。

「まあ、……気が向いたら」

 なんだかんだ言いつつも、来てくれるとどこかで思っているから。

 そして稲穂は、まとめ終えた荷物を持って、コインランドリーを後にしていた。すぐに歩いていくのかと思えば、ガラス越しに電話を入れているのが見える。

 時間になれば穂積が迎えに来る算段だったのだろう。その証拠に、電話して数分も経たない内に、車が停まるのが見えた。

「……少しは振り返ってくれてもいいのに」

 さっさと車に乗り、そのまま走り去る車を(なが)めながら、蒼葉は溜息を吐いた。

「あ~、面倒臭いのに()れちまったな……」

 稲穂ほどはっきりしているわけではないが、稲穂とは違って憧れではないことは理解している。蒼葉は再び漫画の週刊誌を開いて、そしてページを数枚捲ってから、直ぐに閉じた。

 稲穂がいなくなって若干憂鬱になっているわけではない。

単行本(コミックス)読んでないから、話が読めない……」

 ……単にストーリーが理解できないだけだった。

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