023 文系男子と理系女子の今後の関係
二人が友人になったのか、それとも友人に戻ったのかは、当人達にも分からない。しかしその翌日から、稲穂は実家へと通うようになった。一人暮らしを止めるとかではなく、今後のことを父親に当たる穂積と話し合うためだ。
元々稲穂の祖父母が戸籍上の両親になっていたのは、当時の穂積には法的に養子を取れる資格がなかっただけに過ぎない。
しかし稲穂にとっての父親は、後にも先にも穂積だけだ、とは本人の談である。産みの母親が判明した以上、父親も分かるのかと思えば、その話は保留にされたらしい。詳細は分からないが、おそらくはろくでもない話になるのだろう。
クラの父親こと由は再び、警察に逮捕された。実父である縁からも被害届が出た以上、出所するのは当分先になるのは間違いない。クラは稲穂にも会いたがっていたので、落ち着いたらまた連れて行こうと、蒼葉は心に決めていた。
船本は結局、パルクールの活動には戻らないらしい。しかしその原因が圷会の娘に言い寄られているから、と知った指原が、そのうち口を利くと言っていた。
『指原豆腐店のケツ持ち、圷会なのよ』
その関係で圷とも顔見知りらしく、機会があれば話しておくとのことだ。世間は狭いな、と蒼葉は内心呆れたが。
「本当……世間って狭いわよね」
「まったく……麦茶とコーヒー、どっちがいい?」
「コーヒー、ちょっと冷えてきたから」
そして落ち着いた頃に、稲穂から夕食に誘われた蒼葉は、再び自宅へと招待することにしたのだ。夏真っ盛りと言うこともあり、そうめんと買ってきた惣菜の天ぷらを食べ終えた二人は、ベランダを開けて風通しの良くなった部屋で、静かにコーヒーを飲んでいる。
「まさかあんたが下着泥棒しようとした相手が、私の母親とか……熟女趣味?」
「違うっ! ……いや、見た目若いんだよ。実年齢も、今はたしか三十半ばくらいだったと思うし」
「……成人前に孕んだの?」
「俺に聞かないでくれ」
やはりそうめんや買ってきた天ぷらだけでは身体が冷えてくる。汁物でも作れば良かったと、蒼葉が若干後悔していると、肩に何かが圧し掛かっているのを感じた。
「……デレ期? え、何、デレた?」
「いや、枕代わり」
これが恥ずかしがりながらの発言ならば、蒼葉も興奮しただろう。だがしかし残念なことに、もたれかかってきた稲穂の声音は淡々とした説明口調だった。
「なんかいろいろあって疲れてるのよ……ねえ、」
「うん?」
もう少し色っぽい関係になれないものかと考えていると、稲穂がある提案をしてきた。
「……殺しかけたお詫び、何がいい?」
そう言われた蒼葉には、何も思いつかなかった。いや、稲穂を含めた周りが何をするか分からないので、何も思いくことができなかったのだが。
「特に思いつかないな……」
「……私の下着は?」
「脱ぎたてならなんとなく欲しいけど、そこで提案に乗るほど変態じゃねぇよ!」
声を張り上げたからか、稲穂は蒼葉の肩から頭を離した。ポリポリ、と頬を掻いてから、改めて振り向いている。
「ところで……暴行罪と痴漢罪って、示談金の相場が大体同じくらいだって知ってた?」
「いや初耳。……えっ?」
蒼葉の頭の中が疑問符で埋め尽くされる間に、稲穂は座卓をずらしてその対面に座り直した。
「いや、お金払うのも嫌だし、いちいち悩むのも『You can't buy a second with money.』だから、適当に身体触らせて終わらせようかと。幸い怪我もしていないから傷害罪じゃないし」
「もう少し節操持っても罰は……金子?」
蒼葉は一度言い淀むと、そっと、稲穂の手を握った。
「……もう怒ってないから、というか最初から怒ってないから、な?」
普段見せるツリ目気味の美人が台無しになるくらい、今の稲穂は何かにおびえているように見えた。多分、一人でも味方が欲しいのだろうという蒼葉の考えは間違っていないはずだ。
稲穂の母親が判明してしばらく経つも、いまだに面会はしていないらしい。おまけに相手は蒼葉の初恋の相手。今では何とも思ってないと言っても、相手のことが分からない以上、それだけで信用できるかは別問題だ。
だから稲穂は、不安なのだろう。いざという時、蒼葉が向こうの味方につかないかと、心配になっているのだ。
「俺こそごめん。独り善がりかもしれないけど、それでも……過去に向き合った上で現在を生きるのが幸せにつながると俺は思って、いや……そう信じて行動しただけだから、さ」
「まあ、心情的にはそれでいいんだけど……それとは関係なく訴えたりしない?」
「『Trust myself a little』っ!」
建前か本音かは蒼葉には分からないが、少なくとも稲穂にとっては、貸し借り無しの関係になりたくての提案だということは理解できた。
「それ言い出したら、クラの親父ぶちのめしてくれた件でチャラでもいいぞ?」
「いや、それはあんたを振った詫びみたいなものだから、別に気にしなくていいわよ」
「あの……振った本人が思い出させないで下さい」
埒が明かない、と悟った蒼葉は、仕方なしに稲穂の手を放し、そのまま肩の上に置いた。
「というかもうすでに、事故とはいえ下着も見たり、下着越しに胸も揉んだりと色々前科があるから、いまさらとやかく言える筋合いはないぞ?」
「ああ、それもそうね……と言っても、さすがにあんたばっかり理不尽な目に遭ってるし、一回くらいなら見逃すわよ」
「理不尽の権化が何を言うか、と言いたいところだがここはお言葉に甘えさせてください。個人的にはお尻がいい」
そして肩から手が降りると、膝立ちになった稲穂が前のめりになって、蒼葉に近づいてきた。
「触った瞬間、私を訴えることはできないわよ?」
「だから訴える気はないって……まあ、これで納得できるなら俺としてはありがたすぎるんだけどな」
服装こそパンツスタイルだが、今の時期は夏。さすがの稲穂とて、そこまで厚い生地のものは着ていないだろう。そして下着を合わせても薄布二枚、これはもうほぼ生尻を触っていると言っても過言ではない。と蒼葉は信じていたかった。
「……ゴクン」
「いや、生唾飲まずに適当に触りなさいよ。変な気分になるからさっさと終わらせてくれない、この変態」
「すみません……では」
稲穂の臀部に手が伸びる。当人が目を瞑ったので蒼葉の心に変な気分が生まれてくるが、これも相手からの信用を得るため、ついでにラッキースケベを味わうため!
もしかしたら逆に痴漢で訴えられるかもしれないが、そんな面倒臭いことをするなら最初から触らせようとはしないだろうと信じられる。というかもっと別の手段を取るはずだ。
さあ、その手を伸ばせ。ようやく訪れた幸運を享受しよう!
意を決した蒼葉は、ゆっくりと稲穂のお尻を触ろうと……
「おい、蒼葉。お隣の金子の娘さん知らな、い……か…………」
……した瞬間、鍵をかけ忘れた玄関からノックもないまま、蒼葉の父こと黒桐蒼士が入ってきた。黒の短髪で眼鏡を掛けた若く見える容貌だが、たしか穂積よりも年上のはずだ。
けれども、この時点においてはまったくもって関係ない話である。
「お、親父……どうして?」
重要なのは、痴漢行為に及ぼうとしている自分自身のこれからだからだ。
「いや、金子と飯食う話になったんだが、せっかくだからお前らにも声掛けようかと、したんだが……電話もつながらないし…………様子見に、来てみれば」
しかし蒼葉のアップルフォンはゆっくり話をしようとするついでにOSの手動更新を掛けて、現在連続再起動中で通話受信不能状態。稲穂は隣室だからと部屋に置きっぱなしになっており、どちらも出ようにも出られなかったのだ。
「先輩、どうかしましたか?」
廊下の方から、穂積の声が聞こえてくる。
おそらくいないと思って、穂積を待たせた蒼士が、蒼葉の部屋に様子見に入ってきたのだろうが、タイミングが最悪過ぎた。
「金子、こっちに来い! そして黙って茹で卵を作れっ!」
「おいこらクソ親父! せめて話を聴けっ!?」
しかし入ってきた穂積は、視覚情報だけで事態を把握してしまったので、蒼士に言われたとおりに冷蔵庫から生卵を取り出している。
「いや、親父違うからねっ!」
稲穂も慌てて否定しようとするも、体勢が悪すぎた。
「示談金払わないために痴漢で相殺することで話がッ!?」
「うわごっ!?」
慌てて体勢を崩した稲穂の顔が蒼葉の腹に当たり、あごも急所に衝撃を与えていた。それが止めになったのだろう。
「先輩っ!? オリーブオイルとゴマ油がありますけど、サラダ油でいいですよねっ!?」
「そこは任せる」
「息子のピンチを任せるなよ! おい金子っ! 起きて止めてくれ頼むからっ!」
どうにか稲穂を退けることに成功するも、今度は蒼士が蒼葉に伸し掛かってきた。
「蒼葉。お前は姉と違ってまともな部類かと思っていたが……やはり同じ変態か」
「姉ちゃんと一緒にするなよっ! 違うからっ! 俺はまともだからっ!?」
「……でも今回の一件、あんたが下着泥棒しようとしたのが始まりじゃなかった?」
「お前はその前に自分から示談の提案したことを親父さんに伝えろっ!」
言っている間にも、卵が茹であがってしまう。茹で卵とサラダ油でどうなるのか怯える蒼葉だったが、
「……フッ、フフッ! ハハハハハ…………!」
突然笑い出した稲穂のおかげかは知らないが、興を削がれたために改めて事情を聴かれて、ことなきを得た蒼葉であった。
しかし、下着泥棒の一件は蒼士と共に後日、正式に謝罪に行きましたとさ。
第一巻、完
第一巻分完結のあとがき『約五千字も差がある』
小説投稿サイト様々方には、それぞれの特色があればルールも違います。特に大きいのが、文字カウントのルールが異なる点だと思います。細かく言い出したらきりがないので今回の反省点として、要点だけあげると……ルビ振りすぎました。それだけで多分五千文字超えてます。
本来、文庫本とは十万文字前後らしいですが、第一巻分、というより第一章分ではちょっと足りません。具体的にはルビ抜きで八割五分に一歩届かないくらいになりました。
小説家を目指すのであれば最低でも十万文字を越えなくてはならないのですが、第一章だけでここまでかけたのは、今回が初めてです。いつもは十万文字に到達しないまま物語が完結していましたので、目標にまた一歩近付いたと信じ、第二巻の執筆を……しようと思いますが、少し時間を下さい。引っ越しの片付けが落ち着くまでに構想を練り、執筆に入りますので。
……と、長々と書きましたが、この話はまだ完結していません。
蒼葉と稲穂がくっつくのかどうか微妙な距離感を続けたまま、周囲の人間と付き合っていく道中をコミカルに描く予定なので、もう少しお付き合い頂ければと思います。
では第二巻分で合計二十万文字を目指して頑張りますので、どうかよろしくお願いいたします。
桐生彩音
P.S.
あらすじは第二巻開始時に更新する予定です。第一巻に沿ったものをネタバレしない程度に掲載しようと思いますのでよろしくお願いします。あと、先に新作を掲載するかもしれませんが、その時はどうか生暖かい目で見て頂けると幸いです。