親父の履歴書
親父の軌跡(奇跡)を息子である私が辿る物語。
養子に出された親父が建設会社の社長にまで登り詰めることとなったが、それは数々の奇跡に彩られた人生だった。
デレンデレンに酔った親父の口から語られる物語ははたして真実なのか虚実なのか…。
養子に出された親父が小規模ながらも建設会社の社長にまで登り詰めた軌跡(奇跡)を振り返る。ノンフィクションでありながらデレンデレンに酔った口から語られた史実であり、極めて疑い深いことは否めない。もはやフィクションであると言っても過言ではないだろう。
筆者としての私は、語られた事実を聞き手として淡々と記述するのみであり、心の中で浮かぶ所々の矛盾は敢えて話し手にはぶつけない。息子として信じてみようと思う。アルコールの力で多少過大に美化された口述でも信じてみようと思うのである。
あとどれくらい親父と会話が出来るのか。あと何年生きていてもらえるのか。
親孝行のリミットも刻々と迫っている。そんなとき、ふと思った。
「親父のこと全然知らない」
親父の人生の記録を始めた。最終目的は親父の口からその出生を追うことである。
養子に出された親父はたまたま中流の家庭に引き取られそこで幼少期を過ごし、たまたま大学にも行かせてもらえた。私にとって祖父母にあたる親父の養親は、実の息子のように親父を立派に育てあげた。
ただ、どうなのだろう。親父が実は養子に出されたという事実を告げられてからの今までの半生。精神的に孤独だったのではないか。実の、実際の父親の背中というものを知らない。いや、今まで見てきた背中は実の父親のそれではなかったという方が正しいのか。いずれにしても、親父の心の奥に秘められた一種の寂しさは私には計り知れないものがある。
私の母がよく冗談で言うように「お父さんっていつまでも大学生のままよね」という言葉の裏にはそんな事実が何か関係しているのかもしれない。
親父の若き頃から現在までの生き様を知りたい、知らなければならない。焦燥に駆られた。最近親父の背中が小さくなっていくことが焦燥を掻き立てたのである。
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16歳。茨城県立K高等学校入学。
K高等学校野球部初代キャプテン、自称。雑草が生い茂る荒れ地の野原をグラウンドとして作り上げたのは俺だと豪語する。「俺」ひとりでグラウンドを作り上げることは物理的にそもそも不可能だし、仲間とともに作り上げたとしても、それはおそらくガキ大将格の本命キャプテンに顎で使われ、草刈り・球ひろいに終始したことは想像に難くない。
「おれ人を使うの苦手なんだよ」。口癖のようにいつも言っている。口述から生じる矛盾を話し手である彼にぶつけないことは先ほども述べた。「俺」がK高のグラウンドを作ったということは疑ってはならない史実である。彼は立派である。
しかし、現在の社会的な地位は別として、将来成り上がってやるという「雑草魂」が、目の前に座る呑んだくれに一切垣間見れないことは、この時代に雑草刈りをやり過ぎて根こそぎその根性、つまり自身の雑草の魂まで刈り取ってしまったことによるものだろう。
これは将来にも影響を及ぼした。社会人生活で大変苦労することになる。
ただ、彼は人に恵まれた。生涯、人に恵まれたのだ。
19歳。東大入学。
彼は自身が入学した東京にあるTとKのイニシャルの付く大学をいつも「東大」と略す。むろん東京大学でないことは述べておきたい。彼の意図は明確であるから敢えて述べない。
下宿生活を淡々と送る日々だった。安定した職業に就きたいと公務員を志し勉強を始めたものの、フォークギターとウィスキーにハマり敢えなく断念。
ゼミの合宿で行った西表島の猫がデカかったと語ることが大学生活を振り返っての唯一の自慢。浮いた話は一切なく、そもそも女性と会話をすることが何より苦手だった。合気道が好きだった。どうでもいい。
23歳。
何の変哲もないこの男がのち、バブル期も重なって大躍進を遂げる。
その後、運命の女性との出会いを果たし結婚に至る。
彼は一大決心をした。
妻を連れて、否、付いてきてもらい、実の生母に会いにゆくことを決めたのだ。
生まれ故郷は北海道だと養母に知らされていた。
気の小さい彼が北方の大地へ母を訪ねて足を向けたのだ。
ただ、そこには思いもよらない結末が待っていた。
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彼が養母に教えられた住所をもとに生母を訪ねる決心を固めたことは先に述べた。
母アンナとの再会を期して3000里もの距離を船旅で回ったマルコに比べ、彼については茨城県から北海道は雨竜郡、直線にしておよそ200里の距離を、旅客機で、しかもアルコールを片時も離さず母を訪ねるという呑んだくれの旅であった。
ただ、距離は15分の1であるものの自分を産んでくれた母に会いたいという強い気持ちはマルコも彼も変わらない。
マルコの旅は途中、何度も危機に陥り、そこで出会った多くの人に助けられ、その優しさに触れながら成長していくというなんともハートウォーミングな話に終始するのは周知の事実でありここでは詳細を割愛する。
呑んだくれの親父については旅の途中で成長を見せるどころか前後不覚のヨチヨチ歩き、幼児退行をすら始めたのだ。良いマルコと酔いマルコの差は歴然としており、ここまでくると筆者でありながら息子でもある私は恥ずかしさをすら通り越して情けない。
ただ一点弁明を加えるとするならば、旅の途中で奇跡的な出会いを遂げるという意味においては両者の物語は心暖まるものになることには違いない。
こちらの酔いマルコ。依然として前後不覚、旅客機を降りたのち妻の運転するレンタカーに乗り込んで数分と経たないうちにいびきを掻きはじめ、土田舎の道とも言えない道のりのナビゲーションの一切を妻に託したのである。幸せな男である。
養母に教えられた住所をたずねてみたのだが、そこには畑が一面に広がり家らしい家は見当たらない。
たまたま付近を歩いていた中年夫婦に養母より教えられた地図とここまで来たいきさつを親父が、否、ろれつの回らない夫に代わり妻が伝えた。
彼ら中年の夫婦は驚いた顔を赤ら顔の男とその妻に交互に向けたあと、「さぁ、こちらへお上がりなさい」と少し離れた彼らの自宅の庭の縁側へと通した。
数分そこで待っていると、二つの湯飲み茶碗とともに一枚の写真を彼らに手渡し、さらに驚くべき事実を伝えた。
親父の酔いは一気に醒めた。その手はアルコールのせいではなく、驚愕で震えていた。
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親父の人生に関して、少し脱線をしたいと思う。
13歳。茨城県立K中学校入学。
人見知りで口下手な親父は入学当初、誰とも口をきくことが出来ず、いつも教室の片隅にぽつねんと佇む少年であった。そこに声を掛けてあげた心優しい少年が、これを機にその後40年もの親交が続くことになる、通称「こいちゃん」である。
酔った親父の口から語られる彼との青春の日々。
聞き手である私はいつも嫉妬のような羨望を覚えるのだ。
学校が終わると鞄を自宅に置き、すぐさま自転車を飛ばし「こいちゃん」の自宅へ向かう。
彼の家の二階の窓へ、道端の小石を拾いコツンと当てる。
窓を開けて彼は一言、毎回「おう」とにっこり微笑む。上がれよとの合図である。
彼の家では毎晩のように漫画を読んだり、当時はやりの音楽を聴いたり、ときには将来について朝まで語り合うこともあったという。
ただ、両者ともに学校の女子には興味がなかったらしく、恋ばなの類いだけは話題に上らなかった。酔った親父の「女子は相手にしなかった」という頑とした口述に対して、「相手にされなかっただけでしょ」などとはむろん口を挟まない。彼は相手にしなかったのである。男の中の男。立派である。
試験前ともなると二人で徹夜の勉強会をした。
試験の結果を比べ一喜一憂し、ともに成長していった。
高校受験の時期になると進路の相談を共にし、同じ高校へ進むことを誓った。
毎晩のようにこいちゃんの家で勉強をし、どちらかの成績が落ちると片方が叱咤を繰り返す。そんな日々が続いた。
彼らは無事同じ高校へと進んだ。
親父は野球部に入部したこともあり、二人の会う機会は減っていった。
それでも暇さえあれば自転車を飛ばし、こいちゃんの二階の窓へコツン。
中学一年生から変わらない「おう」の一言とともに二階の窓から笑みを覗かせる。
親父はその瞬間が堪らなく好きだったという。
大学は別々だったものの、その後のふたりの親交は変わることはなかった。
両者の結婚式ではそれぞれが友人代表のスピーチをつとめあげたそうだ。
口下手な親父のスピーチは聴くに耐えないものであったことは想像に難くない。
中学一年での出会いから高校三年までの「こいちゃん」との6年間は親父の青春そのものであり、焼酎を片手に当時を語る親父の目頭にはいつも涙が浮かぶ。
こいちゃんは55歳という若さで自ら人生の幕を閉じた。
還暦をともに迎えられなかった親父の無念は計り知れない。
現在、親父は職場が自宅から近いこともあり、毎日自転車での通勤をしている。
なぜかわざわざ遠回りをして帰宅するのが日課となっている。
親父とお酒を酌み交わすようになってようやくその理由が分かった。
中学時代に毎日通ったあの道を、こいちゃんの家へと続く川沿いのあの道を。
仕事帰りに自転車を走らせていたのだ。
こいちゃんの家の前で自転車を止め、川に向かって小石を投げるのだ。
そしてあの頃のように心の中で叫ぶ。
「おーい、開けてくれ」
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なお親父は語る。焼酎を片手に。
親父の人生を形作ったものとしてアルバイト生活があるそうだ。
それは元バイトのコンビニ店長だった。
あやつはイカれていたという。
当時20歳になったばかりの彼より6歳年上。
コンビニのオーナーさんに気に入られて、店長に大抜擢された。
オーナーさんが店にめったに顔を出さないのをいい事に、バイト採用を女の子で囲った。
店のバイトは女の子しかいなかった。
面接時の店長の一言目が、「うち、女の子しかいないっしょ」
その場で帰ろうとも思ったが、逆に悪い気もしないところが情けない。
その面接でなぜか店長と意気投合、店長が『店長』になって初の男子採用となった。
店長とはよく飲みにいったという。
親父のバイトが17時に終わると、仕事が残っているはずの店長は、「あとよろしくー!」とバイトの女の子に一言残し、親父を連れて新宿西口の街に駆り出した。
くだらない話の記憶しかないが、それでも未だ胸に残るものがあるという。
また、店長は車を愛していた。
住まいは新宿まで歩いてこれる距離のはずが、なぜか車で出勤していた。
ある日なんて、バイト終わりに一緒に吉野家に寄ったあと、「○○、送ってくよ!」と新宿から、地元の茨城まで車を飛ばした。
荒いなんてもんじゃない。あの人といると、命がいくつあっても足りないという。
そんな店長だけど、本当に優しい人だった。
「優しい」と「ちゃらい」は紙一重なのかもしれない。
そう錯覚せずにはいられない何かがあった。
人を惹きつける何かがあった。
当時20歳にして恥ずかしいが、親父は兄貴と喧嘩して夜に家を飛び出したことがある。
荷物をまとめて家を出ると、泣きながら店長に電話した。
「泊まるとこはあるのか」
「ない」
「じゃあとりあえずうちに泊まれ」
「うん」
その夜、店長は家出については何も聞いてこなかった。
二人で缶ビールを飲みながらいつものようにくだらない話をした。
親父が大学3年生になると、公務員の勉強を始めたこともあり、徐々にバイトは減っていった。
それに伴って会う機会も減り始めた。
ひさびさに「今日飲む?」と連絡があったが、本格的に勉強が忙しくなった親父は、それに返信せず、それ以来、店長からの連絡はなくなった。
その後、公務員試験には失敗したが、就職が決まったことを報告しようとメールを送ったが、宛先不明で返ってきた。店長との連絡は完全に途絶えてしまった。
先日、ひさしぶりに新宿西口に寄ったという。
そのコンビニの前を通ると店は違うコンビニチェーン店に代わっていた。
もちろん『店長』もいない。
まぁどっかでブイブイいわせてることは間違いないけど、ちょっと体が弱かったことを今でも心配しているそうだ。
当時店長が住んでいた新宿3丁目。
なんのめぐり合わせか分からないけど、最近建設を始めた場所の最寄駅だという。
街でまた会えることを切に願っている。
そして会えたならばこう言いたいそうだ。
「貸してた1万円返せ」
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ところで広辞苑によると、『偶然』とは「ある他のものと因果関係が明白でなく、したがってその生起、様態をあらかじめ想定しなかった事柄」を指すらしい。
彼と彼女の出会いもまた、その偶然によってあらかじめ想定し得なかった事柄であろう。
静岡県は伊豆での出来事である。
彼女もまた別の会社の社員旅行で伊豆を訪れていた。
格別なお湯につかり、それぞれ大広間での大宴会。偶然彼のとなりのテーブルに座り、お酒で頬を少し赤らめた彼女が、のちの私の母である。
彼の一目ぼれだった。お酒の力を借りて一言、
「出身地はどちらですか」
彼の、しぼりにしぼっても一滴の雫さえ奮えない勇気を出した瞬間だった。
この一言が無ければ私はこの世に存在しなかったわけであるから、なるほど彼は勇敢な父親である。
「秋田です」と彼女もまた一言。
それはそれはと、彼もまた秋田県で育ったこともあって、二人の偶然に感謝感激TOKIOに嵐である。
話しは弾み、彼は彼女の電話番号の書かれた一片の割り箸袋を入手。驚いたことに彼女の名前は彼の生みの母親のそれであった。これは運命と確信した彼は「東京で会いましょう」と一言残し、グデングデンに酔っ払い就寝したのであった。
6時間後の彼である。どこを探しても割り箸袋が見当たらない。このままでは私も生まれないわけであるから必死である。頑張れ頑張れと声援を送ることしか出来ないのがもどかしい。
どうしよう、と思ったそうだ。どうしようと思ってもどうにもなるものでもなく、二日酔いの頭をさますべく一階の喫茶店でいっぱいのコーヒーを飲みながら思案する彼。そこに彼女が現れたというから、これまた偶然とは恐ろしくもある。
その後、東京で何度か逢瀬を重ね、婚約に至る。
パジャマと布団一式のみで彼女のアパートに転がり込み、転がり出たのが私であった。
彼女は婚約当初、この人で大丈夫かしらと婚姻届の提出を一年間見送ったそうだ。
アウトローいっぱいの彼の貯金通帳の残高が3円だったというから、これはこれは彼女に同情してやまない。賢明な見送りである。ただ、フォアボールを待たずして、左中間へのヒットを決めさせた彼の優しさには最大級の賞賛を送らねばなるまい。
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親父が突然言った。
「橋を架けたかったんだ」
相変わらず片手には焼酎だ。
安定した職に就きたいと公務員を目指したものの、フォークソングとウィスキーにはまり、大学を卒業した彼は土建の道を辿ることとなった。分からない。
「なぜ公務員から土建屋なの?」との私の問いへの回答が、上記、彼のお得意、論理飛躍の明快答である。
左手にはウィスキーを、右手にはフリクションならぬシラフリクションで臨んだ公務員試験に見事敗北。惨敗だった。当時の彼は惨敗を心配することもなく、いつものようにフォークギターを奏でながら新聞を眺めていたそうだ。
そこにたまたま掲載されていた会社に即入社を決めたというから、なるほど彼は立派である。
「自分の手で橋を架けて将来、息子に自慢したい」と思ったそうだ。私は彼が架けた橋を見たことはないし、そもそも親父は橋を架けた経験がないというから驚きはなおさら一層である。
私が20代の前半、よく父親とドライブに出かけたものだ。
助手席に座る彼のナビゲーションのもと、色んな道を走った。
隣の彼はハイボール片手にニヤニヤと、窓の外を眺めてこう言った。
「さっき通った道な、おれが造った道なんだ」
親父、立派に橋を架けたじゃないか。人生という名の。
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現在、建設会社の社長にまで登り詰めた親父の社会人生活というのは奇怪でしかない。
奇怪というか奇跡の連続でもある。
入った会社は次々に倒産し、その度に縁のあった方から声がかかる。
「それならうちの会社来ないか」
バブル時代が起こした奇跡とも思えるが、それを割り引いても親父のキャリアは彼の人格が作ったものと言えるのかもしれない。
人に恵まれる。
とにかく人に恵まれるのだ。
酔った親父の口から語られた、現在の会社での話である。
社員は数千人という中規模の会社。
ただ、社長がちょっと変わっていた。
今振り返ると、あんな社長のもとで働けた親父はどれだけ幸せだったんだろうと思う。
だが今はもう会社に『社長』は、いない。
あれは2月の寒い日だったと記憶しているという。
友人の紹介で面接に行くと、30代半ばの女性が対応をしてくれた。
「お待たせして申し訳ございません。社長はすぐに参りますので」
温かいコーヒーを出してくれた。
「いえ、お構いなく」と笑顔で応えるが、悴んだ体には嬉しかった。
コーヒーを飲みつつ、社長を待った。
10分ほどだろうか、部屋の内装を眺めながらホッと一息ついていると、
「いやぁ、すんまへん」。
真っ黒日焼けの顔に、ド派手なスーツ。どこからどう見てもその道の人にしか見えない。
名刺交換をして社長が一言、「○○君、わいヤクザやないで」とにっこり。
初対面で「君」付けするあたり、さすがナニワのおっちゃん。
気さくな感じに悪い気はしない。
一見こわもて風貌のこの社長。その実、口調や表情は穏やかな人だった。
その風貌にも理由があったのだ。それは後々分かった。
社長は饒舌な人だった。
自分の今までの人生と、娘、孫の話。
仕事の話では自分のことを「先生」と呼んでくれるが、
プライベートの話では「○○君」に戻る。
そして話のほとんどは後者が占めた。
「○○君、人生なんてあっという間だよ」
なにか達観した様子でいつも語っていた。
社長の人生論の前では、親父も生徒に戻ってしまったという。
背筋をピンと伸ばし、学生時代を思い出す。
そんな時間がなにか好きだった。
何度目かの訪問のとき、社長はめずらしく真剣な面持ちで跡継ぎの話をした。
会社を継ぐ者がいまだ決まらないという。
借り入れなどの難しい問題も絡み、後継者が見つからないのだ。
社長は会社のこれからを心配していた。
実は末期の癌だった。
余命1年と医者に宣告され、社長はそれから1年3か月を生きていた。
「この通り、体もピンピンしとるんですよ。
このまま、癌も無くなってしまうんじゃないですかね。
いや、最悪のことはいつも考えておりますよ。
私が明日死んだらここの社員はどうなってしまうんでしょうかねって」
一代でここを築いた社長は会社のこと、そして社員のことを愛していた。
家族のように愛していた。
だからこそ、自分がいなくなった後のこれからをとても心配していた。
真っ黒日焼けの顔も、ド派手なスーツも、癌でやつれていく自分の姿で社員に心配をかけないための心遣いからのものだった。
抗がん剤治療のあとに日サロに通うとか、そんなこと、あの社長にしか出来ない。
こんな若造が言うのもあれだけど、その姿は本当に尊敬する。
面接が終わっても話が尽きない社長。
ようやく話が終わると社長は会社の玄関まで送ってくれた。
挨拶をして、玄関を出てから100メートルほど歩いても、振り返るとずっと頭を下げていてくれた。
とても丁寧に対応をしてくれる人だった。
仁義深い、心の広い人だった。
親父が入社して1年。
社長が突然亡くなった。
娘、孫に看取られ最期を遂げたそうだ。
ただ、ずっと会社のことを口にしていたという。
あの笑顔、気遣い、ユーモア。もう存在しない。
人が死ぬとはどういうことなんだろう。
当たり前だけど「もう、いない」ということは事実だ。
突然の訃報には驚いたと共に、親父はなぜか安心した。
やつれた体でもう気丈に振る舞わなくてもいい。
抗がん剤治療に苦しまなくてもいい。
ただ、あの笑顔にもう会えないことだけが、寂しいという。
会社は親父が後を継ぐことが決まり、社長の愛した社員の雇用は維持された。
社長の意志はこれからも社員達の中で生き続ける。
天国で社長もホッと一息しているだろうか。コーヒーでも飲みながら。
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そんな親父が最近転職をした。
64歳の親父が、である。
中規模会社の雇われ社長だった親父は、オーナーとうまく行かず、転職を決めた。
今までハローワークには縁の無い社会人生活だった。
辞めようと思えば、縁のある方から仕事が舞い込んできた社会人生活だったのだ。
今回も土木の資格を活かし、仕事を無事獲得した。
またしても中規模会社の雇われ社長だ。
私は親父の背中をいつも追っていた気がする。
大学も最初は建築学科に入った。
親父と同じ仕事をしたいと思った。
いつかは親父と酒を酌み交わし、仕事についての愚痴を言い合う中になるんだろう。
そう思っていた。
時は流れ、私は弁護士という道を選んだ。
今でも葛藤は、ある。
あの時、大学時代に図面一枚うまく書けていれば親父を助けてやれたのではないか。
あの時、デッサンをうまく描けていれば親父を救えていたのではない。
及第点ばかりの建築学科生活だった。
自分でも自分が嫌になり、現実逃避に近い形で仮面浪人を決め、弁護士になろうと決めた。
先日、十数年に及ぶ弁護士試験人生に終止符を打った。
酒を酌み交わす親父の顔は張れ誇ったようだった。
「おまえが俺の息子でよかった」
涙が止まらなかった。
おれは親父の背中を超えたかったんだ。
言葉が、出なかった。
ただ頷いた。
親父の仕事は順調を極めている。
下請け会社が、「○○さんのもとでなら」と仕事を持ってきてくれるそうだ。
親父の履歴書はボロボロで立派なものとは言えないだろう。
ただ、これだけ愛に満ち溢れた履歴書も数少ないだろう。
あなたは色んな人に愛されて、仕事をしている。
そんな目の前の呑んだくれを本当に誇りに思う。
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さて、親父の旅の結末を書かねばならない。
親父の酔いは一気に醒めた。その手はアルコールのせいではなく、驚愕で震えていた。
北海道で偶然出会った中年の夫婦。
彼らは一枚の写真を親父に手渡した。
「これがあなた、いや、私達の母親よ」
お茶を出してくれたのは親父の実母の娘だったのだ。
母親が自分の息子を若い頃、養子に出した話は知っていたようだ。
親父は涙が止まらなかった。
妻もなぜか隣で咽び泣いていた。
この世にもう母親はいない。
だが、父親はやっと実の母親と会えたのだ。
「母さん、ただいま」
親父は呟いた。