《可愛いですね。》宮原瑠偉
「ハーイ! 時間デース。」
Riccaのなんとも気の抜けた声が道場に響く。
「よし交代。秀美も少し休め。」
「ハイナー!」
冴木が秀美と入れ違いにリングに上がる。
すると、宮原もすぐにリングに上がって来た。
「冴木さん。お願いします。」
「おう!」
宮原の意気込みに冴木が答える。
「宮ッチ頑張って!」
宮原と入れ違いで秀美がリングから降りる。さすがに汗はかいているが、まだまだ声に苦しさは感じられない。
(…この体力バカめ。)
「ハッ! ハッ!」
宮原が果敢に冴木に関節技を仕掛ける。
冴木がそれを切り返して技を掛ける。
宮原がさらにそれを切り返す。
どちらかの技が決まるまでそれを繰り返す。
いわゆる、関節技の“極めっこ”である。
苦労の割には地味な稽古である。
しかし、宮原はこれこそが自らを強くするものと信じていた。
体の小さい宮原ではギガントのような強力な打撃は使えない。
浅川のようなバランス感覚も持っていないので飛び技もあまり効果的ではない。
それでも、関節技なら技術を磨けば高見を目指せる。
寝技で強くなれば誰が相手でも十分勝ち目のある闘いが出来る。
幸いな事に彼女は『最強のレスラー』冴木晶と好きなだけ稽古をすることが出来た。
冴木は“極めっこ”でも『最強のレスラー』であった。いや、むしろ“極めっこ”の強さが『最強のレスラー』の土台を形成していた。
そして宮原は、冴木との“極めっこ”で何度も技を極めなれながら必死に技を覚えて行った。
理屈を考えるのは得意な宮原は関節技の技術を覚えるには苦では無かった。
だが今は、いつもとは違う事を考えていた。
(さっきの秀美さんの動き。あれがレスリング。“極めっこ”とは違う動き…。)
良いポジショニングを取って、相手をコントロールする技術。
(あの技術。覚えれば、体の小さい私でも余裕を持って闘える。)
「ボサっとすんな!宮原!」
宮原が考え事をして集中力を欠いた隙をついて、冴木が左腕を取ると一気にひねり上げる。
(…っしまった!)
左腕を背中に回されひねり上げられる。
“V1アームロック”や“腕がらみ”と呼ばれる基本的な技だ。
しかし、実に実用性の高い実践的な技である。
特に冴木のそれは“アキラ・ロック”とゆう特別な呼び名があった。
なぜなら、冴木はこれまでに異種格闘技戦を7回ほど経験していて、
その全てで勝利を得ている。
そして、その試合で7回のうち6回を“アキラ・ロック”で仕留めている。
冴木のコアなファンの間では“真の必殺技”と認識されている。
実際、冴木自身も最も信頼している技であった。
見栄えのいい技では無いので、試合ではあまり使ったりしないのだが、ここ一番の大事な試合はこの技で凌いで来た。
だからこそ、練習では必ずこの技を使って、技術が錆び付かない様にしていた。
宮原は冴木にたいして積極的に“極めっこ”を挑んでいたので、
結果的に星の数ほど“アキラ・ロック”を極められている。
そんな冴木相手に集中力を欠いた状態で闘える訳が無い。今度も極められてしまった。
(冴木さんとのスパーリング中に考え事なんて。『最強のレスラー』を相手にしているってのに。
私も何ブッたるんでんだ。だらしない。)
「よーし。立て宮原! もう一本だ!」
冴木は“アキラ・ロック”を解くと宮原を立たせる。
(私はこの人に鍛えられて強くなっている。まだまだ弱いけど無力じゃない。
今の私の弱点は体格不足によるフィジカルの無さ。長所はこれまで必死に磨いた寝技の技術…)
「お願いします!」
(…やってやる!)
宮原の頭から雑念が消えて行く。肝が据わって行く。
「はい! 時間でーす。宮ッチ今度は僕とやろう!」
浅川の声が響く。
「いや、今は止めとく。」
「えぇぇ~。なんでだよ~。」
「いや…胸が…。」
「なんじゃそりゃー!」
「冗談だよ、冗談。」
すると宮原は秀美に向かって叫んだ。
「秀ミン!」
秀美が驚いた顔で宮原を見る。
「秀ミン。やりませんか。」
宮原が秀美をリングに誘う。
秀美が満面の笑顔になる。
「…ハイナー! 宮ッチ。今いきまーす。」
飼い主に呼ばれた犬の様に秀美がリングに駆け上がる。
「秀ミンって呼んでくれたね。」
「うん。」
宮原が小さくうなずく。
「タメですからね。」
「いくよ! 秀ミン!」
「ハイナー! 宮ッチ!」
宮原はタックルにはいかず、左手を取りに行った。
「むぅぅ!」
秀美が呻いた。宮原が予想外な仕掛けをして来たからだ。
タックルでも組み合いでもなく、いきなり立ち関節技を仕掛けて来た。
(レスリングなんてさせない。いきなり“極めっこ”に持ち込む。
いや、一方的に問答無用に左腕を極める。秀美には何もさせない。でも…。)
秀美が素早く腕の曲がる方向に転がって関節技から逃れる。
(この動き! やっぱり関節技からの逃げ方を知っていやがる。どうせ関節技も知ってると思ってたよ! 天才め!)
宮原は左腕を放さず追撃する。
(逃がすか! アンタがどんな奴だろうとこっちはプロレスラーなんだよ。極めてやる。)
すると今度が秀美が宮原を自分の方に引き込もうとする。
(しまった! 引き込まれたら押さえ込まれておしまいだ。)
宮原は大げさなくらいに横っ飛びして回避する。しかし、左腕は放さない。
着地するや直ぐに腕をひねって体重を乗せる。“脇固め”と呼ばれる技だ。
しかし、これも秀美がすぐに体勢を入れ替えて逃げてしまう。
(くそ、近づかないで技をかけても逃げられてしまう。だけど、迂闊に近寄りすぎると押さえ込まれてしまう。
そうなったら、アイツに有利な位置で技を極められてしまう。)
宮原は八方ふさがりで気持ちが折れそうになる。
(…だからなんだ。もっと速く、もっと上手に技を掛ければ大丈夫。
これは単純に私がヘタクソだから問題になっているだけだ!)
強引に気力を奮い立たせる。まだまだ諦める必要は無い。闘える。
速度をどんどん上げる。技に技を重ねる。
しかし秀美も極めさせない。どんどんポジションを変えて捕まらない。
時間がドンドン過ぎてゆく。
すると、秀美が勝負を掛けてきた。
今まで逃げまくっていたのに、突然宮原の懐に自ら飛び込んできた。
(…っこの!)
すかさず宮原も左手を極めにかかる。
秀美より体が上の状態で密着しているこの体勢は、関節技を極めるチャンスであった。
しかし、秀美の方が一瞬速かった。
宮原を自分の腰の上に軽々と乗せると、一気に体を回転させた。
「…がっ!」
体重の軽い宮原はなす術も無くこの回転に巻き込まれる。
あっと言う間に攻守逆転、宮原は秀美に上にのしかかられる体勢となった。
(くそったれ! なんてパワーだ。こっちだって必死に堪えてるのに!)
「パワーじゃないよ。これは技術。相手をひっくり返す技術だよ。」
「! 何だよ。解るよその位! 当然だよ!」
秀美がさらりと頭の中を見透かしたような事を言ってくる。
悔しいので、さも知ってる様に嘘をついてやった。
「しゅっ…!」
秀美は一息入れるとすぐさま体重をかけて潰しに来た。
金メダルを取った、世界一の圧力である。
しかし、宮原も一瞬速く対応していた。
下から自らの両足を秀美の両足に絡めて、足を広げさせる。
下半身の自由を奪う事で良いポジショニングを取らせない様にして、
かつブリッジに移行する事を防ぐ。
すると秀美は宮原の胸、厳密には肋骨の上に左腕の肘をおいて体重をかける。
宮原の肋骨に激痛が走る。
(…っいっ! 痛い! 痛い痛い痛い痛い! 何すんだこのアマ!
肋骨が折れる! いや割れる! プレス機で潰されるってこんな感じ?
アタシはター○ネーターじゃ無ェて!)
痛みで絡めた足が緩むと、秀美はすぐに外そうとする。
「くぅ! させるか!」
宮原は激痛を堪えて、再び足をより固く絡め直す。
すると秀美は再び肘で肋骨を潰しにかかる。今度はさらに体重をかけて。
「はぁぁ…っ、はぁはぁ、くぅぅぅ…!」
激痛に呻く声が抑えられない。
しかし秀美は隙を見せると足を外そうとするので、苦しくても堪えて足のフックを弱めない。
「…む。」
その時、自分のモノでは無いうめき声が聞こえた。
(えっ。誰の声? 秀ミン? 秀ミン呻いてる。)
宮原は必死に眼を見開いて、秀美を睨みつける。
秀美は宮原を観ていない。その視線は、宮原の足。絡み付いて動きを封じている足。
必死になって宮原の足を外そうとしている。必死になって!
(秀ミン嫌がってる! 私の足のフック嫌がってる! 効いてるんだコレ!
この野郎! やっと弱み見せやがった!)
「イヤァァァァ!」
雄叫び一閃! 宮原は自分の肋骨を押し続けた秀美の左腕を一気にひねり上げる。逆関節である。
肋骨にこれまで無いほど体重がかかって来たが、かまわずひねり上げる。
骨が軋むような感覚と痛みが襲いかかってきたが、ここはこれまでで最高の好機である。逃すわけにはいかない。
下からなので自分の体重がかけられない分、多少不十分であるが、強引に仕掛ける。
奇しくもその形は上下こそ違うが、“アキラ・ロック”と同じものであった。
「ウウウガァァァァー!」
(逃すか馬鹿野郎! この極まれ極まれ極まれ極まれ極まれ! 極まってくれ!)
フッ。
不意に体が軽くなる。一瞬体が浮かんだような感覚を味わう。
「…へっ?」
宮原は一瞬呆気にとられる。
その隙に秀美が素早く体を離すと側転する様に横に転がってる。
それはつまり、上から圧力を掛けられる圧倒的に有利なポジションを放棄する事となる。
(…え、なんで。ってこれって…。)
リスクを負ってまで獲得した有利なポジションを放棄する理由。
それは。
(私の関節技から逃げるため! オリンピック金メダリストが私の技から逃げた!
あのままなら押さえ込む前に極められると判断したんだ!
私に極められて負けたくなくて逃げたんだ! 私の技は危険だと思いやがったんだ!)
宮原の胸に一瞬熱いモノが混み上がる。
(私の技、通用してる!)
「逃がすかーーー!!!」
雄叫びを上げると再び左手を取りに行く。
まだ極めた訳では無いのだから
(極めてやる! 極めてやる! 極めてやる! 金メダリストだから何だってんだ! 勝ってやる!)
「よーし、時間だー!」
号令と同時に秀美が尻から座り込んだ。一気に緊張感が抜けて行く。
宮原は膝建ちで息を整えている。
心臓が早鐘の様に脈を打っている。思っていたより随分疲労している。
潰された肋骨も大層痛む。
しかし頭の中はそれどころではなかった。
(じ…時間?時間。時間切れ! 逃げられたって事!)
そこに浅川が飛び込んでくる。
「凄いよ宮ッチ! 一回も押さえ込まれなかったよ。」
「ハァ…ハァ…。違うよ。 一回も極められなかったんだよ…。」
絞り出す様な声で宮原がつぶやく。
(思ったより通用した。動きも悪くなかった。でも、極められなかった。これが今の私の限界なのか?
くそっ! くそっ! なんで極められない!)
悔しさで歯を食いしばる。
しかし、うつむいたりはしない。汗まみれでドロドロになりながらも、眼はギラついている。
「…ねぇ、宮ッチ。」
秀美が声をかけてくる。息が少し荒くなっている。
「アタシ、宮ッチのこと超大好き! マジで好き!」
満面の笑顔で秀美が言った。
「…ハァハァ、そ…そうですか。ま、まぁ、やっと腹が減って来た程度ですけどね。」
宮原が息を切らせながらも不敵な笑顔で返す。
(秀ミン、肩で息してる。やっと可愛いところ見せやがったな。)
「秀ミン、ボクはー?」
「もちろん大好ーき! でもごめん。アタシ浅ポンのこと大好きだけど、やっぱり胸は大きくないと駄目なの。」
「なんじゃそりゃー! 宮ッチだってちっちゃいじゃん!」
「…多分、宮ッチはこれから結構おっきくなる。私そう断言する。絶対です。」
「ボクだっておっきくなるよー!」
「…浅ポンごめん。私、おっぱいで嘘はつけない。」
「だそうだよ浅ポン。私はどうやら金メダリストのお墨付きだ。私はあなたを待たないよ。」
「浅ポンハ、メキシコデハレディニハナレマセンネ。チン○ツケマスカ?」
「なんだよボクのおっぱいはお先真っ暗かよー! ひどすぎるよ、ボクがなにしたー!」
「何もしてない。いや、どちらかと言うと何も無い。無乳。」
「なんじゃそりゃー!」
「ふふふっ、お気の毒だね。でもきっと需要はあるよ。ガンバレ。」
満面の笑顔で宮原が言った。今日初めての心からの笑顔だった。
すると冴木が頭からタオルをかけてくれた。
「よくやったぞ。」
少し上ずった声でそう言うと、凄い勢いでタオル越しに頭をこする。ちょっと可愛くなってる。
宮原の頭が凄い勢いで揺さぶられる。再び頸椎骨折の危機である。
ガラガラガラッ。
「お疲れさまです。日本スポーツの者です。本日はよろしくお願いします。」
道場のドアが開くと、スポーツ新聞の記者が入って来た。
「おう、いらっしゃい。今日は頼むよ。」
ギガントが記者たちを出迎える。
「あぁ、昨日の記者さん達だ。」
浅川が騒ぎだした。
「ねえ、秀ミンの取材に来たの? いいなぁ。私も取材してよ。」
「ダメ浅ポン。胸無イ娘ハ取材モ無イネ。ブー」
「エー! そんな事無いよね日スポさん!」
日スポ記者、無言。
「なんじゃそりゃー!」
「冴木さん! 一本闘りませんか!」
秀美が突然、大きな声をだした。
道場が一瞬、凛と静まる。
あからさまに冴木をスパーリングに誘っている。
まるで、記者達が来るのを待っていたかの様に。
「ようやく記者さん達も来た事ですし。たぶん、私と冴木さんのスパーリングがお目当てでしょうし。」
(なんだよ、記者さん達を待ってた事を隠しもしないのかよ。しかもちょっと毒吐いてるし。)
宮原がまだリングの上にいる秀美を見ると、彼女は青いコーナーの上に腰掛けて冴木を見下ろしている。
これではまるで…。
(挑発。)
そう。これは挑発である。天之川秀美は冴木晶を挑発している。『最強のレスラー』を!
「いいとも! やろう。」
するとほとんど躊躇無く冴木が答える。
「私もそれがお目当てだ。」
そう言う冴木の顔のは、不敵な笑みが浮かんでいる。
ギガントは彼女の事を『荒事以外は本当にウブ』と評している。
さすがである。その評価は実に的を得ている。
これは言い替えれば『荒事には大層慣れている。』とゆうことだ。
確かに彼女は荒事には滅法強気だ。今も引くつもりは全く無い。
何の躊躇いも無くリングに上がる。
「冴木さん!」
「冴木っちゃん!」
宮原とギガントが駆け寄ってくる。
「あぁ。行ってくる!」
子供の様に目を輝かせて冴木が答える。本当に楽しみにしていたのだろう。
私たちに軽く拳を突き出してみせる。
(何だろう。強いのは解ってるんだけど、なんか放っとけないんだよな。この人。)
「…強いのは解ってんだけどね。何だろうね、この可愛げは。」
苦笑しながらギガントがつぶやく。
さすがである。やはりギガントの方が宮原より冴木を良く知っている。
「ンジャア、始メ~。」
なんとも気合いの入らないかけ声でRiccaさんがかけ声を掛ける。
秀美も冴木も静かに距離を詰めながら互いの腕を取り合い始める。
「秀ミン慎重ですね。タックルに行きませんでしたね。」
「いや宮ッチ。さっきお前がいきなり関節技仕掛けたりするから、警戒してんだろ。」
「…宮ッチって、もう定着ですか?」
「体重制限は無いよな。」
ギガントが腕を組んで答える。
「スパーリングは打撃無しが暗黙のルールって感じになってるけど、こうなるとローキックとか打てないのが冴木っちゃんには辛いなぁ。」
リングでは腕の取り合いから組み合いに移行している。
「むっ!」
冴木がうめき声をあげる。
秀美が組み合いの体勢から、冴木を大きく揺さぶって体勢を崩すと
一気に圧力をかけて潰しにかかる。
しかし、冴木は潰されるよりも速く、自ら倒れて秀美の足首を取りにかかる。
秀美はすかさず足を取らせない様に逃げる。やはり関節技から逃げることに慣れている。
そして、冴木が体勢を整える前に、再び体重を乗せて潰しにかかる。
しかも、冴木の立ち上がろうとする出鼻を挫く絶妙のタイミングで身体を被せて来た。
「うまい!」
宮原が思わず声を上げる。
『最強のレスラー』冴木が、潰されて押さえられている。あまりにも呆気なく。
「信じられないッ…と言いたいところですが、これが世界一のレスリング技術ですね。」
「やばいな。私はさっき全然逃げられなかったぞ。秀美が圧倒的に有利な体勢だ。
お前はさっき、こうなりたくなくて組まずに技を掛けまくったんだからな。」
「…はい。」
冴木は必死になってもがいていたが、やはり秀美の下から脱出出来ないでいた。
やがて動きが弱くなると、今度は秀美が仕掛ける。
右腕を取って関節技を仕掛けて来た。
『腕拉ぎ逆十時固め』
プロレス以外でも多くの格闘技に存在する、実践性の高い技である。
(…っ!)
宮原の背筋に冷や汗が走る。
冴木がかなりのピンチに陥っている。
(…冴木さん。やられるのか? 私はまだ貴方を一度も極めた事が無いんですよ!)
日スポ記者が凄い勢いで写真を撮っている。
『最強のレスラー』が関節技を極められる姿を望んでいるのだろうか。煩わしい。
「まずいな。秀美の奴、最高のポジションだ。」
秀美が体重をかけるのを止めて、右腕を取る。
右腕を強引に引っ張る。
体勢を変えて両足で右腕を挟み込む。
右腕を握り直す。
尻の位置を整えて技を掛け易くする。
右腕を離さない様に両手でしっかりクラッチする。
右腕をのばすために後ろに倒れ込む。
「………。」
冴木は右腕を伸ばされる前に、身体を反転させて立ち上がる。
今度は冴木が上になる。有利なポジションである。
秀美のクラッチを外すと腕関節を狙う。
秀美は素早くブリッジして、冴木を跳ね上げて逃げるスペースを作ると一目散に退避する。
冴木は深追いしない。いや、少し驚いているのかもしれない。
目が真ん丸に見開かれている。
「……。」
これを見ていた宮原は、首から上だけをゆっくりとギガントに向ける。
ギガントも同じ様に首から上だけを宮原に向けていた。
その表情は見ては行けないモノを見たようになっていた。
(…多分、私もあんな顔してる。)
するとギガントが、蚊の鳴くような小さい声でたった一言呟いた。
「…遅っ。」
宮原も答える。
「…下手っ。」
「えええええええっっっっっ! なんでなんで! 秀ミン関節技知ってるんじゃないんですか! 逃げるのあんなに巧いのに、なんで仕掛けるのはあんなにヘタクソなんですか! 何でも出来る天才じゃないんですか!?」
宮原がビックリするほど声を低くしぼり、且つ激しくギガントに問いつめる。
「いやいやいやいや、そんな事知らんて! ってゆうか冷静に考えてみたらむしろそれが普通!? アイツはレスリングだから関節技は知らないはずだろ! あの動きは確かにプロレス聞きかじった奴が見よう見まねでやったような感じだぜ。」
うろたえながらもギガントが冷静に分析する。しっかり声を低くしぼって。
「でもどうして? ちゃんと技をかけられても凌げるのに! あれこそ素人には無理な動きですよ! 何度も稽古しないと身に付くような者じゃないですよ!」
「…えっと。関節技を仕掛ける事は無いけど、逃げる必要はある生活環境だったとか?」
「なんですかその面白い生活環境は! そんな環境金メダル獲得に絶対不必要ですよね。」
宮原がツッコむ。
ちなみに彼女たちは、秀美の姉・天之川清美の存在はまだ知らない。
「ヒョッ!」
秀美が冴木の足首を取ろうとしている。
「アンクルホールド狙いですね。レスリングの技ですね。」
「だけど冴木っちゃん相手に足関節って…」
すかさず冴木が切り返す。逆に足首を極めにかかる。すぐさま秀美は逃げる。
「やっぱり悪手だよなぁ。足関節は技術に差があるとキツいよ。」
「技術もそうだし、バリエーションも冴木さんの方がありますね。」
再び秀美がアンクルホールドを狙う。やはり、使える技に固執してしまうようだ。
「駄目だ。冴木っちゃんはワザと隙を作って足関節の取り合いに持ち込もうとしてる。」
「結構危険だと思うんですが、これだけ技術に差があれば、押さえ込まれるより良いと思ってるんでしょう。冴木さんはもう秀美の技術を見切ってますね。」
案の定、切り返されている、秀美が慌てて逃げている。なんだかんだでよく凌いでいる。
(よし、凌いだ。これだけでも実は結構たいしたもんだけど。)
宮原が拳を握る。いつの間にか秀美贔屓で見ている。手に汗を握っている。
「冴木っちゃん。後から技をかけても先に極めちゃうな。あのぐらいの技術では冴木っちゃんは極められないよ。
一瞬でも間があいたら冴木っちゃんには極められないよ。」
「いや、一瞬とは言えないくらい間が空いてますよ。ぶっちゃけ遅いです。あれぐらいなら私だって極められませんよ。あんなならならもっと深く仕掛けてやれば良かった。すっごく才能魅せ付けられたんで、警戒しすぎました。まるで『天才天才詐欺』ですね。」
「『天才天才詐欺』って…。」
ギガントが苦笑する。
「別に秀ミンがなにか言った訳では無いだろうに。こっちが勝手に勘違いしただけだろ。」
「…体重制限と年齢制限に引っかかってますよ。」
「ななななっ…! 宮ッチも今日はそれ押し!」
「…宮ッチって、やっぱり定着ですか?」
「体重制限は無いよな。」
再びリングで大きな音が響く。
秀美が冴木を押さえ込んでいる。しかし、もはや下になっても冴木は無駄にもがいたりしない。
秀美が動いた隙に技を仕掛けようと虎視眈々と狙っている。
上になっている秀美の方が、むしろ余裕が無い。
どう動いても冴木の方が先に技を極めてしまう。今の秀美の技術では打つ手無しである。
「はぁ、はぁ…」
秀美が冴木の上で息を整えている。しかし正直、安全なポジションに逃げたような印象だ。
宮原の時の様に肘で潰すような余裕が無い。
(…何やってんだよ! あんな有利なポジションなのに。)
宮原がイラついている。もう完全に秀美贔屓になっている。
秀美が腕を取りに行くのだが、そのために腰を浮かすと、冴木はすぐさま隙間に足を入れて来て逆に秀美の腕を極めようとする。
(私はあんなに苦労したのに、冴木さんは秀美を翻弄している…。)
「秀ミン。『極めっこ』じゃ勝てない…。」
じれて思わず言葉が漏れる。
「ん。宮ッチは秀ミン贔屓?」
「…えっ! いや、そう言う訳じゃ…。」
(しまった。声に出てた。)
宮原が慌てて答える。顔が少し引きつっている。
ギガントが二ヤついている。宮原のイラツキに拍車がかかる。
「宮ッチ。目つき怖いよ。」
(しまった。目つきに出てた。)
慌てて目元をこする。仕草が小動物っぽい。
(あらカワイイ。)
ギガントがまた二ヤついている。宮原のイラツキにさらに拍車がかかる。大車輪のごとく。
「ハァ、ハァ!」
秀美の息づかいが聞こえてくる。
再び冴木を押さえ込んでいが、やはりここで手詰まっている。
切り返しを警戒してか、腕も足も取りに行けないでいる。
(秀ミンなにビビってんだよ! それとも遊んでんのか! まだ打つ手はあるだろ!)
「秀ミン!」
思わず声を上げる。
(しまった!声でちゃった。)
秀美がこちらを向いている。
(ヤベぇ…目が合っちゃった。)
秀美が瞬きしないで宮原を見つめている。
(ううううぅっ、すっごいこっち見てる。)
瞬きしないで宮原を見つめている。もうガン見である。
(ええぇい!しょうが無ェ!)
「秀ミン! 関節技はだめだ! 押さえ込みを外さないで、そのまま首を極めるんだ!」
「ハイナー!」
秀美が元気な返事を返すと、すぐさま動き出す。
「オイオイオイオイ宮ッチ! なんだいなんだい裏切りかい!?」
ギガントが抗議の声を上げる。でも顔はニヤついている。
「…いいじゃないですか。ちょっとぐらい味方しても。」
「ちょっとじゃ済まないかもな。」
リングでは秀美が冴木の胸を押しつぶしながら、少しずつ身体を上半身の上にズラしている。
そして冴木の耳元で戯れ言を呟く。
「冴木さん。結構おっぱいありますね。いわゆる美乳ってやつですね。身体ズラすのにスッゴク邪魔になってますよ♥」
「…っな! 練習中に何言ってんだ!」
冴木は顔を赤くして叱り飛ばす。実に素直な反応である。
「…可愛いよなあ。」
「可愛いですね。」
癒される。
「…ムン!」
冴木が狼狽えた一瞬の隙をついて、秀美が胸の上にしっかりと圧力をかけたまま頭に手を伸ばす。
「グガアアアアアアア!」
「…ガッ!」
そのまま一気の頭を抱えて絞り上げる。
冴木の首が強引に伸ばされる。
渾身の『袈裟固め』である。
しかし。
「だめだ秀ミン! 急所に入ってない。これじゃ単純に首を引っ張ってるだけだ!」
「さすが冴木っちゃん。ポイントずらした!」
「ウオオオオオオッッォ!!」
秀美はかまわず強引に絞り上げる。
二の腕が盛り上がり、冴木の頭を力強く締め上げる
急所は外してしまっているが、もの凄い腕力で締め上げられていて、もがいても頭を外せないでいる。
「…フグッ…ンンッ!」
冴木がうめき声をあげた。首は尋常じゃないほど捻り上げられている。
秀美もなかなか技を解かない。全力で力を込めているはずなのに、全然力が緩まない。
もう一分近く締め上げている。凄いスタミナだ。
次第に冴木が動かなくなってくる。
「オイオイオイオイ! 冴木っちゃん。冗談だろ。」
(…嘘でしょ。極るの! 強引に極めちゃうの!)
「ダアアァァァァァッッッッ!!!」
道場が軋むほどの雄叫びをあげて、渾身の力で引き絞る。
冴木はもう僅かも動かず、されるがままになっている。
「…っあはぁぁ…。」
肺から空気が抜ける様な音を出して、秀美が力を緩める。
全力で締め続けるのもさすがに限界なのだろう。
しかしその瞬間、今まで全然動かなかった冴木が驚くほど素早く動き出した。
秀美の左腕を下から取るやいなや、身体を丸めて回転させて、下になっている状態から脱出して、
同時に回転の勢いと全身の力で、秀美の左腕一本を取る。
今度は冴木が秀美の上になって、左腕を捻り上げる。
形勢は完全に逆転した。
渾身の『アキラ・ロック』である!
「ウオオオオオォォォォ! 冴木っちゃぁぁぁん! さすがっ!」
ギガントが歓喜の声を上げる。
しかし、当の冴木は少し目が泳いでいる。『袈裟固め』で絞められすぎて、まだ思考が巧く出来ないようだ。
(冴木さん、考えるより先に身体が動くんだ。身体が『アキラ・ロック』を覚えているんだ。ここまでやれるからこそ必殺技なんだ。)
秀美が逃げようともがきだすと、冴木の表情が引き締まった。頭が動き出したようだ。
すかさず技をしっかり固める。これまで幾重もの修羅場をくぐり抜けた技だ。ミスなどしない。
遂に完璧に極る。もう逃げられない。
「………。」
すると秀美が潔く抵抗をやめる。冴木の身体を二回かるく叩く。
タップアウトの意思表示。降参。ギブアップ。
冴木の勝利である。
冴木が技を解く。ついでに緊張も解ける。
日スポ記者が凄い勢いで写真を撮っている。
秀美はリングに尻餅をついたまま左腕をさすっている。
(…秀ミン。)
「ごめんね宮ッチ。極めらんなかったわ。」
苦笑いしている。
(左腕。私と冴木さんに徹底的に責められて…。)
「誰相手にしてると思ってるんですか? 『最強のレスラー』ですよ。」
宮原が複雑な感情を無理矢理笑顔で隠す。
冴木が勝利して正直安堵している反面、秀美に勝たせてやりたかったとも思っていた。
それは確かである。
「さすが『最強のレスラー』だな。金メダリストをものともしない。」
「見出しは『金メダリスト陥落! 冴木晶、最強の証明!!』だな」
日スポ記者が騒ぎだした。はっきり言って煩わしい。
(そんな圧勝じゃないよ! 秀美にとって『極めっこ』は畑違いなのに、これだけやったんだぞ。メチャクチャ大したモンよ。スポーツ記者のくせに、アンタ達には解んないのかよ!)
宮原が記者の言葉に少し腹をたてる。するとギガントが肩に手をおいて宥めてくれた。
「ドウドウドウ。まぁ怒るな宮ッチ。ウチに取っては悪くない結果だ。まぁ裏切りモンとしては心中穏やかじゃないだろうけど。」
「また宮ッチって…。もう絶対体重制限かけます。」
「なななななっ…!」
「さぁ、秀美。もう一本やろう。」
冴木が秀美に激と飛ばす。おそらく手応えを感じたのだろう。すごくキラキラした少年の様な目をして手を差し伸べる。
「…いや。」
「えっ…」
秀美の口から出て来たのは、まさかの拒絶の言葉。
そして秀美はリングを降りてしまう。
「えっ…」
冴木が呆然としている。
「オイオイオイオイ…」
ギガントがつぶやく。
「………。」
Riccaさんがボケッとしている。いつでもマイペースな人である。
秀美がリングを降りると、自分の荷物を取りに行ってしまう。
(え、か、帰るのかよ…。)
宮原は自分が意外に動揺している事に驚いている。
(何だよ。もっと居ろよ。たかが一本極められただけだろ。)
その時、浅川が叫ぶ。
「エエエエェェェェッッッッ! 秀ミン帰っちゃうのー! ヤダよー! もっと居なよ!」
(そうだ浅ポン。さすが浅ポン。いけいけ! 今こそ言え!)
宮原が心の中で浅川にエールを送る。こうゆう時は、物怖じしなくて頭も使わない奴は便利だ。
「…帰るって?」
秀美が振り返る。
「いやいや、まさか。」
秀美が再びリングに戻ってくる。手には封筒を持っている。
「帰らないよ浅ポン。帰る訳がない。」
秀美がリングに上がる。
「ここには私が欲しいものがあるし…」
冴木を見る。
「それ以上のものもあった。」
宮原を見る。
そして、冴木に封筒を差し出す。
「…これは?」
冴木がきょとんとして答える。勝負勘は凄くあるのに、基本的には察しが悪い。
「履歴書です。」
「へ?」
「唐突で申し訳ありませんが、天之川秀美。
『戦場』へ入団を希望します。」
「…あっ。」
冴木が言葉に詰まる。一瞬、何が起こったか解らないでいる。基本的には察しが悪い。
「私は冴木さんに負けたのですから、ここで指導を受けるのが筋かと思いました。」
「…え、ええっ。」
冴木が思考停止している。
その間浅川がリングに飛び込んで来た。
「ヤッター! 秀ミン! これからは一緒だーーっ!」
浅川は秀美に飛びつく。
(浅ポン、速ェよ!)
続いて宮原もリングに上がる。
ギガントとRiccaもリングに上がって来た。
「イイネ秀ミン。コレデ六人デスネ。偶数デスネ。ダレモ余ラナヨウ試合組メマス。メデタイネー!」
「嬉しい理由、大した事無いよ。Riccaさん。」
「大シテ無イノハ、浅ポンノ胸ダネ。」
「なんじゃそりゃー!」
ギガントが冴木に駆け寄る。
「こんだけやれるんだ。入団テストはいらんだろ、冴木っちゃん。」
ギガントが冴木の肩を叩く。
「…あ、ああ。そうだな。」
冴木がの表情から動揺が消える。
改めて秀美と目を合わせる。
左手で履歴書を取ると、すぐ右手で握手をする。
「良く来てくれた。歓迎するよ。」
「有り難うございます。よろしくお願いします。」
秀美が強く握り返す。
「ここからプロレス界にドエライ事してやりましょう。」
「ドエライ事って…」
冴木が苦笑する。
「いいじゃねえか冴木っちゃん。コイツはマジで景気がいいぜ!」
めずらしくギガントがハイテンションではしゃいでる。よっぽど嬉しいのだろう。
ガッツポーズまでしている。ギガントガッツだ。暑苦しい。
そして秀美が宮原と目を合わせる。
「よろしくね宮ッチ。」
肩をすくめて宮原も手を差し出す。
力強く握手する。
「『戦場』へようこそ。ちなみにこう見えてウチは結構武闘派ですよ。」