《餌付けされてんじゃねーかー!》冴木晶
「…来てるって?金メダリストが。」
ギガントから耳打ちされた女は試合前のウォーミングアップを中断した。
彼女の名は冴木晶。プロレス団体『戦場』のエースである。
元々は女子空手の出身で、格闘技をベースにした妥協の無いスタイルで勝利を重ね、いつしか『最強のレスラー』と呼ばれるようになっていた。しかし彼女のスタイルは次第に所属団体のスタイルと合わなくなってしまい、ついには辞表を提出し、自分の団体『戦場』を立ち上げた。
今、彼女には4人の仲間がいた。
団体のナンバー2にして唯一の悪役・ギガント満代。
メキシコでフリーで身を立てていたベテランのルチャドール・Ricca
新人ながら、新体操出身でアクロバティックな動きを得意とする・浅川早紀
最年少でまだ高校生。体も小さくまだまだ未熟だが滅法気が強い新人・宮原瑠偉
なかでもギガントにはかなり世話になっていた。
職人気質な性格のためか社交性が無く、試合しか出来ない冴木の代わりに、人を集めて、営業をして、若手のコーチもしてくれた。
試合でも『魅せる技術』でファンを楽しませ、頑丈な体としっかりとした受けの技術で
淡白になりがちな冴木の試合を見応えのあるものにしていた。
もしギガントがいなかったら、『戦場』など半年で無くなっていただろう。
それだけに冴木はギガントには大変感謝していて、また信頼もしたいた。
ゆえにギガントの言葉は決して無視はしなかった。
「…金メダリストって天之川秀美の事?本当にプロレス見て回ってるんだな。」
「で、どうする?」
ギガントが冴木を真っすぐ眼を合わせて聞いてくる。
「そんな事行っても、プロレスラーじゃない。ただの客だぞ。どうもしないよ。いつもの試合をしっかりみせ…」
「ただの客じゃない!金メダリストだ!興味ないのか!」
冴木は思わず息を飲んだ。
(興味は…ある。正直ある!強さに拘ってここまできたんだ。アマレス金メダリストの強さには大いに興味あるよ。なんといっても『世界一』なのだから)
「だけど…」
冴木が言い及んでいると
「金メダリストって僕より強いかな?僕が勝負挑んでみるよ!」
この話を盗み聞きしていた浅川が、脇から口を挟んできた。
(…うわっ。不味いのに聞かれた!)
冴木の表情に焦りが伺える。
(浅川の奴は物怖じしないが、頭も使わない。絶対何も考えないに違いない。メダリストとはいえ客に勝負を挑むなんてバカな事、こいつならやりかねん。いや、止めなきゃ絶対にやる!)
「ちょっと、まっ…」
「まーまーまー、待ちなよ冴木っちゃん。」
止めようとすると、ギガントが両肩を押さえる。
「なにすんだ! 浅川の奴を止めないと。あいつがバカなのはアンタも知ってんだろ!」
肩を押さえる両腕に力を込めてギガントが絞り出すような声をだした。
「ここは…やらせてみようぜ。あの金メダリストがどうするか観たい。」
「しかし…。」
「責任は私が取るよ。」
冴木が目を吊り上げてギガントを睨みつけた。
「それは私の役目だよ。」
「浅ポンいいぞー! 跳べ跳べー!」
観客がまばらな会場の最前列『特別リングサイド』で、金メダリストの声が勢い良く響く。
たった一人で会場を暖めまくっている。他の観客達も煽られて声援を送っている。
(なるほど確かに華がある。でも、浅ポンってなんだ? 浅川だからか? センス悪くないか?)
「ヤッハーーーッ!」
浅川がトップロープの上を走って対戦相手にドロップキッックを撃った。
リングではなくトップロープである。綱渡りである。
このアクロバティックな動きに場内が歓声で沸き立った。
それを観ていた冴木は感心してウムとうめく。
(さすがだな、新体操出身とはいえコイツのバランス感覚は尋常じゃなよ。)
相手も必死に拳を振るうが、浅川はその攻撃をことごとく躱してしまう。
とにかく反応速度がとんでもなく速い。
体が小さくて軽い事を考えても『戦場』では一番、もしかしたらプロレス界でもトップかもしれないほどである。
「…これは役者が違うな。」
この試合はおそらく浅川が勝てるだろう。それは問題じゃない。
問題はむしろいつあの金メダリストに手を出すかであった。
ギガントにほだされて、やらせてみる事にしたが、正直不安だらけである。
(迂闊な事でもやらかして金メダリストを怪我させたりしたら大問題だし、
金メダリストが怒って浅川をKOしてしまったら、プロレスラーの面子にかかわるし。)
「心配すんなよ。なんかあったらすぐアタイらが出るからさぁ。」
冴木の近くにギガントが寄って来た。
「だけどさぁ…」
一言返そうとすると、場内が沸いた。闘いが場外に移っていた。
浅川がトップロープから場外の相手めがけて、反転宙返りで飛びかかる。ラ・ケブラータだ。
かなりの高さがあるダイブなのだが全く躊躇無く跳ぶ。
鞭のように体をしならせた美しいフォームに、感銘のどよめきが起こる。
そしてとうとう浅川が仕掛ける。
場外乱闘ではない。
実況席からマイクを拝借すると対戦相手そっちのけで客席の秀美に向かって行く。
場内が異変を感じてざわめき始める。
冴木とギガントの間にも緊張が走る。
「ヤッホー! 金メダリスト!ボクは浅川ってんだ。
アンタって強いんでしょ。アタシと勝負しようよ!」
秀美に息がかかりそうなほど顔を近づけて叫んだ。
秀美はキョトンとしている。目を真ん丸にして浅川を見ている。
(大丈夫か…。大丈夫かぁ…。)
冴木はかなりハラハラしながら、目が離せなくなっていた。
「…ホットドック。食べる?」
「食べるーーーーー!!!」
突然、秀美は浅川の鼻先にホットドックを出した。
それを何の躊躇も無く頂く浅川。
コイツはやっぱりバカだった。
「オレンジジュース。飲む?」
「飲むーーーーー!!!」
「はい。カメラはこっちこっち。」
「オーーー! スマーイル!」
パシャ!
「餌付けされてんじゃねーかー!」
叫ぶ冴木。今までかなり緊迫した雰囲気だっただけに、この状況は一体なんなんだと頭を抱えた。
後ろではギガントが爆笑している。
「ブワァハァッハハハハハハハハ! 凄いなメダリスト!
アドリブ効くじゃないか! プロレス向きだよ! ブ…ブ…ブワァハァッハハハ!」
「ギーガーンートー。笑い方が変だよ。
後、日スポのカメラマン。なに写真撮ってんだよ。乗せられやがって。」
リングでは秀美に諭されて浅川がリングに戻っている。
ーーほらほら、リングアウト。ヤバいよ。
ーーオットット。ヤバいヤバい。
ワンッ、ツーッ、スリーッ!
「十二分三十四秒、回転エビ固めで浅川選手の勝ちとなります!」
喜ぶ金メダリスト。
「イエー! 浅ポーン! ヤーハー!」
すると浅川はリングを降りて真っ直ぐに秀美の所に行って
ハイタッチ。ハグ。スマーイル!
パシャ!
また写真撮られている。
しかし、ハグしたときに浅川の耳元でなにか囁いていたのを
冴木は見逃さなかった。
「イアヤー楽しかったよ!金メダリスト!」
「それは良かったな。楽しそうで何よりだ。こっちはハラハラし通しだったよ」
冴木が苦虫百匹ぐらいはかみつぶした様な顔で控え室に戻って来た浅川を出迎える。
「で、どうだったよ。金メダリストは?」
ギガントが口を挟んできた。
「…スゴイねあの人。スッゴイ骨太。ハグしたとき解った。あんな頑丈な体してる人、初めてだよ。」
ひと呼吸おいて浅川は続けた。
「…冴木さんやギガントさんを良く知ってる上で言ってるよ。」
さっきまでの弛んだ空気が引きしまる。
冴木の顔が厳しいモノになってきた。
(自分はともかくギガントより頑丈なレスラーを私は知らない…。)
「…浅川先生はずいぶん高評価だね。素材からして違うってことか。」
ギガントが不敵な顔つきで答える。プライドが大きく刺激されたようだ。
「それと、金メダリストがアンタに何か言ってた?」
「うん!」
「なんて?」
「“前向きに検討します”って。」
カンカンカンカン!
「二十三分十五秒。ギガントボムでギガント満代の勝利となります!」
メインイベントが終了。
冴木はタッグマッチでギガントと対決したのだが、今夜の暴れっぷりは凄かった。
さっきの浅川の言葉が結構答えていたのだろう。
頑丈な巨体を売りにしているだけに、意外に機嫌を悪くしていたのかもしれない。
そのすさまじい荒れ方ときたら
“最強のレスラー”を持ってしても止めることが出来ず、
とうとうパートナーが仕留められてしまった。彼女の必殺技『ギガントボム』で。
相手を真っ逆さまに担ぎ上げて頭から落とし、後は上から100㎏を超える体重をかけてフォールする。
一般にはパワーボムと呼ばれる技だか、ギガントが使えば必殺の『ギガントボム』となる。
冴木とてこれをまともに喰らえば肩を上げる自信は無い。
「…オイ、マイク頂戴。」
リングの上からギガントがマイクを要求した。
「イヤーー! ギガントーッ! 待ってましたー!!!」
秀美が興奮して叫んでいる。目一杯プロレスを満喫している。本当にプロレスが好きなんだろう。
「ヤアヤア、ご来場の皆さん。今日は有り難うございます。
今日はなんだか異常に盛り上がってたね。ついついやりすぎちゃったよ。」
ここでひと呼吸ためて、おもむろに秀美を指差した。
「特にそこ! 天之川秀美さん。天下の金メダリストさん! 応援ありがとね。
今日はうちの浅川が失礼しちゃったね。ゴーメーンーね!」
(オイオイオイオイ、ギガントさん。どうしたの?
なに言い出すんだよ。何する気?)
冴木が突然の事に動揺する。
しかし、決してそれを表には出さない。
『戦場』のエースとして、そして“最強のレスラー”として弱みは見せられない。
「…ところでさ、アンタさ、プロレス好きかい? 興味あるかい?」
ギガントが優しく、そして楽しげに語りかけた。だが、目が笑っていない。
秀美が無言で行きよい良く立ち上がる。腕を組んで仁王立ちである。不敵な笑みを浮かべてギガントを真っ直ぐ見つめている。
ギガントのそれは明らかに挑発で、秀美はそれを良く理解していた。
「どうだい。ちょっとリングに上がってみるかい?」
ギガントは片手でぞんざいに手招きする。
(ギガントは喧嘩を仕掛ける気だ!)
冴木は戦慄した。ギガントはあの金メダリストを『戦場』に留めるための賭けに出た。
プロレス好きの秀美ならこの挑発に乗ってくるかもしれない。
乱闘劇を起こして、抗争状態に持ち込んで、なし崩しに『戦場』に上げるつもりだ。
しかし、そんなメチャクチャたとえ通っても、社会的信用はガタ落ちだ。
第一、秀美が普通に法的に訴えてきたら明らかに勝てない。
そうなれば、ギガントは責任を取らなくてはならない。レスラーは廃業だ。
ギガントはそうまでしても『戦場』に金メダリスト・天之川秀美が欲しいのだ。
(そんな事はさせない! そのときに責任を取るのは私だ。)
冴木の腹も決まった。
そして、秀美がリングに向かって歩き出した。
しかし、秀美はリングには上がらない。彼女は実況席にやってきて、おもむろにマイクを取った。
「初めましてギガントさん。オリンピック金メダリスト・天之川秀美です! 今日は目一杯楽しませてもらいましたよ。ありがとうございます。」
そして急に客席に向かって、
「みんなも楽しんだーーー!!」
叫んだ。
場内は大歓声で答える。
すると秀美はゆっくりとリングの周りを歩きながら話しだした。
「ギガントさん! 先ほどはリングへのお誘い有り難うございます。大変光栄にございます。」
大きく手ぶりを加えながら舞台役者の様にマイクアピールする。
「しかし、しかーしギガントさん。それはダメなのです。受け入れられないんです。なぜなら私は金メダリストである前に、大のプロレスファンなんです。プロレスバカなんです。」
ここで、ひと呼吸おく。おかげで言葉が聞き取り易い。
「私はプロレスファンだから、リング上がりたいですよ。でも、他所でどんな実績があろうとプロでもない奴が調子に乗ってノコノコリングに上がるのは嫌なんですよ。ファンとして応援で上がるならともかく、金メダル持ったからって軽々しくリングに足乗せるようなマネはファンとして納得出来ないんですよ。そこはキッチリ線引きしておきたいんです。」
そして再び客席に向かって、
「みんなもそうでしょーーー!!」
叫んだ。
場内は大秀美コールで答える。
(…コイツ、このマイクはギガントだけじゃなく、観客に向けてアピールしていやがる。だから、観客の意識を集めるためにリングをまわって皆の目に入る様にしていたのか。こんなことに気が回るなんて、ホンットにプロ向きだな。)
冴木は呆れるのを通り越して感心していた。
ギガントも完全に毒気を抜かれている。もう、乱闘する空気では無くなっていた。
「しっかーし、しかししかししかし、せっかくのプロレスラーのお誘い。ファンとして無駄にはしたくありません。やっぱりリングには上がりたいです。そこでです! 今度練習をご一緒させていただく事は出来ますでしょうか? 私めはプロの練習にも大変興味があります」
「おう、いいぜ!」
乱闘が失敗に終わったと思ったら、向こうから食いついてきた。
ギガントは即答で答えた。
「いつが良いですか?」
「善は急げだ。明日来なよ。」
「では明日お伺いしまーす! ギガントさん、冴木さん、『戦場』の皆さん。そして会場のみんな! ありがとーねー!」
そう叫ぶと、秀美は観客とハイタッチしながら会場を後にして行ってしまった。
(あの野郎。さんざん引っ掻き回して行っちまいやがった。でも、おかげで最悪の事態を回避出来たよ。)
冴木はさすがにホッとした。気苦労が絶えない日だった。
ギガントが耳元でこっそり囁いた。
「こっちも持ってかれちまったな。」
翌日の日スポでは浅川と秀美のスマイルした写真が一面で使われていた。