逃亡
アースが魔族の味方になると宣言した後、魔族たちの態度は豹変した。多くの者がアースを受け入れるように笑顔で話しかける。当然、アースを気に入らない者もいるが、それはごく僅かだった。魔族は同族に対しては異常なまでに寛容なのだと思い知った。
翌日、アースはとある部屋に連れてこられていた。壁には何もなく、椅子とテーブルが四つずつあるだけの質素な部屋。その椅子の一つにアースは腰掛けている。
「それでは、本日より、勇者様への講義を始めたいと思います」
アースの目の前いる半人半獣の女の子が口を開く。
「講義は私、アイラ・ルプスが務めさせていただきます」
自らをアイラ・ルプスと名乗った女の子が深々と頭を下げてくる。そこでようやく、アースは目の前の女の子の名前を知った。既に顔を合わせていたにも関わらず、初めてだ。
「この講義は魔族について何の予備知識もない勇者様に、魔族などについて説明するものです。既に勇者様は魔族の一員ですからね。一緒に戦う仲間のことぐらい知らなくてはなりません」
アイラが腕を組んで自分の言葉に狼たちと一緒に頷きながら、事重大そうに告げてくる。
「では、はじめにこの国、サタナボーデンと君主様についてですね」
そう言って、アイラは数時間に及ぶ講義を始めたのだった。
「以上で説明は終わりです。何か質問は?」
アイラは実に満足そうにしていた。気のせいか顔に生気が満ちている。対して、説明を受けていたアースはテーブルに突っ伏している。長時間に及ぶ説明に体力の限界がきていたのだ。
「む~、質問はありませんか?」
アースの態度に不満なのか、アイラは頬を膨らませて尋ねてくる。しかし、アースは口を開かなかった。体力の限界もそうだが、一度に多くの知識を詰め込みすぎたせいで、脳が整理しきれていないのが現状だ。
「……分かりました。それでは本日の講義は以上で終わりになります。続きは明日になります。部屋までご案内しますよ」
アースは無言のまま立ち上がり、アイラの後に続いた。
部屋に戻る途中、アースはアイラの説明を振り返っていた。
都市国家サタナボーデン。魔族たちが住む都市であり、一つの国にもなっている。レンガ造りの建造物が並び、広さは直径十キロ以上にも渡る。都市国家の名に恥じぬ巨大さだ。現在、アースがいる場所は都市の中心にそびえ立つ城だ。天を穿つ純白の巨城、都市を一望できるこの城こそが国の象徴であり、王の居城となっている。
そして、この国の王として君臨するのが、若干十五歳の少女、レイナ・ヘルシャー。アースに自身の血を飲ませた少女だ。魔族の王は代々ヘルシャー家が継いでおり、先代の王が早くに死んだ為に嫡女であるレイナに王位が移ったのだ。
しかし、少女は王としての職務を全うできなかった。幼すぎたのだ。そこで、政治をパストゥール・ドローススというあの眼帯をした男に一任され、戦争をガルディア・グラオベンというアースと対峙した鎧の男に一任されている。
そんな無能な王であるレイナが国民である魔族たちに好かれるわけがない。そう思うのは普通だ。しかし、レイナは王として機能はしていないが、国の象徴としては十全に機能している。魔王として純粋なる血族、美しさと可愛らしさを兼ね備えた風貌。そして、何よりも圧倒的な強さ。
魔族は進化の過程で各種族が強さを求めて姿を変えていく。それに対して、王の血族であるヘルシャー家は進化する必要がない程の強さを既に得ている。その証拠が一見人間と区別のつかない姿だ。体毛や硬い鱗で身を守る必要もない、圧倒的なパワーを持つ四つの腕も、空を飛ぶための翼もいらない。最も貧弱な姿で最も強いのが王たる由縁だ。
そして、もう一つ。アースの身体に起こった変化についてだ。
アースの身体は魔王であるレイナの血を取り込んだことにより、魔族とほぼ同じものとなった。具体的に言えば、魔力の制御が可能になった事と、人間とは比べ物にならないほどの寿命を得た事。しかし、今のところどちらに関しても利益不利益が現れていない。なので、そこまで重要度は高いとは思えなかった。
「では、明日も今日と同じ時間にお迎えにあがりますので」
アースを先導していたアイラが告げてくる。
アイラ・ルプス、上半身はまさに人間だ。しかし、下半身は三つの頭を持つ狼になっている。普段は王であるレイナの世話係をしているが、アースが現れたことでアースの世話係にも任命されたらしい。レイナとは歳が近いこともあり、主従関係よりも友人関係に近いらしいことは、アースも少しだけ見かけていた。
「それでは、おやすみなさい、勇者様」
アイラは部屋の前で一礼すると、元来た道を戻っていった。アースはそれを見送ってから、部屋に入った。
アースにあてがわれた部屋は地上五階に位置する。どうやら来客用の部屋らしく、壁には調度品が飾られ、ベランダからの景色は街を一望できるようになっている。部屋に備え付けられている家具も一見しただけで一級品と分かる物が並んでいる。
アースはよく弾むベッドに倒れこみ、天井に目を向けて、考え込む。
——今朝、部屋から街の全体像は確認した。使えそうな道も大まかだけど見当は付いてる。あとは……
アースは口では魔族の味方になると言ったが、あれは本心ではない。可能ならばすぐにでもこの都市から逃げ出そうと考えていた。
アースは部屋の中を見渡して、使えそうな物を探した。アースの直剣はすでに折れており、手元にはない。その代わりとなる物が欲しかったのだが、どうやら何も無い。あまり期待していなかった分、すぐに頭を切り替えて考える。武器が無いということは戦闘を避けていくしかない。そうなれば、必然的に見つからないように都市を抜け出さなければならない。
人間ならば夜が来れば眠る。どの城にも警備兵が存在するが、昼間ほど人の目を気にしなくても良い分、隠密移動が楽になるのは必然だ。しかし、魔族の生活リズムをアースはまだ知らない。夜になれば眠るのか、夜行性の魔族も存在するのか。
しかし、そんなことを考え出せばきりがない。ならばと、答えの出ない疑問にアースは考えることを放棄した。そして次に、こうなったら今夜この城から逃げよう。そう決心した。
月が満ち、城全体が静まり返った頃、アースは行動に出た。部屋のドアノブに手を掛け、ゆっくりとドアを開いていく。頭だけを廊下に出し、左右を見渡す。廊下には誰もいない。それもそのはずだ。戦闘の前線でもない都市の中心に建てられた城の中に警備兵などいるはずがない。この城の中で警備兵がいるのは精々、城壁周辺だ。
アースはアイラに案内された道順を思い出しながら一階を目指した。一階まで行けば、逃げ道は無数に存在する。城壁を登ることも、城の中を流れている小川を利用することも可能だ。
幸い、誰とも遭遇することなく、アースは一階まで降りることができた。やはり、魔族といえど、夜になれば睡眠するものなのだろう。
階段付近の窓から身を乗り出し、芝生の上に着地する。数秒間、身動き一つせずに周囲を警戒する。音はおろか気配すら感じられない。これならば脱出は容易そうだ。アースはそう思った。
城の中庭を抜けて、城の中を流れている小川へと向かう。それを利用すれば、城壁を突破する必要はない。流れに身を任せて、都市の外まで行けばいいのだ。そんなことを思いながら、アースは足早に移動した。
小川の目の前でアースは小さく舌打ちをした。小川の流れは緩やかで、流されるだけでは都市の外にたどり着くまでに多くの時間を費やしてしまう。少々目立つが、泳ぐしかなかった。静寂に包まれた夜に水の音というものは実に目立つ。それが自然ではなくイレギュラーな音ならばなおさらだ。しかし、それでも、時間を掛けて流れるよりかは幾分か安全だろう。
アースは小川に足を入れると、思わず少しだけ身震いしてしまった。今の季節がいつなのか分からないが、水温は低い。長時間浸かっていれば確実に体調を崩すだろう。しかし、そんなことを気にしている場合ではない。アースは身体を水中に沈め、流れに乗りながらゆっくりと泳ぎ始めた。
泳ぎ始めてから十分もすれば、城壁をくぐることができた。その際、念のため水中に潜ったが、警備兵は見当たらず杞憂に終わっていた。
城壁を抜けると、小川は都市の中を流れていく。ここまで来れば小川を利用する理由は薄い。昼間に目星を付けた道を行ったほうが早く都市の外に行けるだろう。
アースは小川から這い上がり、周囲を確認した。誰もいない。そう確信すると、濡れた服を脱いで絞り始めた。濡れた服を着たままだと、想像以上に体力の消耗が激しい。そして、なにより気持ちが悪い。
——くそっ、体を冷やしすぎたか……
手足の先が寒さで少し震えている。さらに、胸の辺りが少し苦しい。寒さからくる呼吸の乱れだろう。それでも、アースは一通り服を絞り終えると、休む間もなく再び移動を開始した。
サタナボーデンの街並みは空が広かった。高い建造物は城を除いて存在せず、顔を上げれば、無数の星が瞬いているのが見える。しかし、それゆえに道に迷いやすい。特徴的な建物が城以外になく、慣れていなければどこも同じ景色に見えてしまう。
アースは都市の端を目指しているおかげで道に迷うことはないが、似たような景色にうんざり来ていた。自分がどのくらい進んだのか分からないのだ。終わりが見えない道のりは精神的に辛いものがある。体温の低下に伴う体力の消耗が激しい。胸は時間が経つほどに苦しくなっている。もしかしたら、水の中に人間には毒になるような成分が含まれていたのかもしれない。
そんな事を考えていると、ようやく悪夢の様な道のりに終止符が打たれた。
都市の端。都市の内外を仕切る壁がアースの目の前に現れた。高さ十メートルほどの壁だが、造りは立派で多少の攻撃にも耐えられるように出来ている。門には魔族が駐屯し、一応は警備をしている。しかし、やる気は感じられない。
——やっとか……
アースは安堵の息を漏らし、近くにあった門へと向かった。ここまで来れば、強行突破しても逃げきれるはず。そう考え、あえて正面から堂々と近づいていった。しかし、アースの足取りは重かった。
——胸が、苦しい?
門へと近づくにつれて胸が苦しくなってくる。額からは玉のような汗が流れ落ちていき、今にも吐き出してしまいそうな程に気分も悪い。
濡れた服を着ているせいだとか、精神的に追い詰められているからだとか、そんな理由ではない。何か見えない力が作用している様に思えた。心臓以外に胸で何かが脈動している。
——くそ、あの石かっ。
そう思った時には既に手遅れだった。アースの足は完全に止まり、意識が朦朧としてきた。視界はボヤけ始め、手足の感覚がなくなってきている。それでも、胸の苦しみからは解放されない。自分がどうなっているのかさえ分からず、アースはその場に立ち尽くすのが精一杯だった。そして、最後に一度だけ大きな痛みが胸を襲い、アースはその場で気絶した。