勇者
高らかな勝利宣言。レイナを魔族の心地よい怒号が包む。しかし、不意に背後から気配を感じた。
——嘘だ。嘘だ。あり得ない。どうして生きていられる……どうして、生きていて……くれた……
身震いがする。驚愕と喜び。二つの感情が混ざり合う。混沌を胸に振り返ると、そこには全身血まみれのアースが立っていた。直剣を支えにかろうじて立っていられる状態。吹けば飛びそうな程にか細い存在だが、確かにそこに生きて、立っている。
「いってぇ。魔力がなかったら死んでるな……」
アースの軽口に困惑してしまう。そして、レイナは困惑を払しょくする様に拳を振るう。もはや、アースには防御する力すら残っていない。無防備にレイナの連撃を喰らい続ける。アースの身体は縦横無尽に吹き飛ばされる。しかし、アースは立ち上がる。
何度も、
——くそっ!
何度も何度も、
——くそっくそっ!
何度も何度も何度も、
——くそっくそっくそっ!
何度も何度も何度も何度も……
「クソックソックソックソォォォ!」
レイナに殴られようが蹴られようが、皮膚が裂けようが骨が折れようがアースは立ち上がる。全身ボロボロになりながらも立ち上がる。
「なんで……なんで倒れないんだ!?」
困惑するレイナ。その拳に籠める力が徐々に弱くなってくる。目の前の人間は何なのか。なぜ、こうも私の前に立ちはだかるのか。なぜ、私をこんなにも惑わすのか。なぜ、こんなにも涙が溢れてくるのか。流れ続ける涙を止めることもせずにレイナは拳を振るう。
そんなレイナにアースは答える。
「お前を助けるまでは、倒れるわけにはいかないんだ!」
レイナの血まみれの拳を受け止める。もうレイナの拳には魔王としての力はなかった。ただの少女の拳だ。
「アイラと約束したんだ。レイナを助けるって。それまではアイギスやグラオベンにだって顔向けできない」
「アイラ……アイギス……グラオベン……」
レイナの中に楽しかった頃の記憶が蘇る。しかし、それはすでに失われた過去。もう自分には必要のないものだ。レイナは頭を振って過去を否定する。
「お前はもう何もしなくていい! 魔王なんてやめていいんだ!!」
一人の女の子として生きていい。アースはそう言った。しかし、
「くそっ! 私は魔王だ! 魔王は人間を駆逐、するんだぁ!」
レイナには魔族を導く義務と力がある。生まれた瞬間から負わされた責務だ。レイナは傷付いた魔族たちの姿を力に変え、アースを吹き飛ばす。
――やっぱりダメか……奇跡なんて起こるわけはない、か……
アースは最後のチャンスが終えたことを悟る。そして、最後の覚悟を決めた。
レイナは頭を抱え、もだえ苦しむ。アースの言葉、魔族の期待。全てを捨てたい気持ちと全てを捨てられない気持ちがレイナの頭の中を掻き乱す。頭がおかしくなりそうだった。
「一撃だ……一撃で決めてやるからな……」
アースは直剣の切っ先をレイナに向け、体勢を低くする。感覚の無くなった左脚を支えに、右足に力を籠める。そして、一気に大地を蹴った。
突きは一筋の光となり、レイナ目掛けて伸びる。単調な一撃。当然、レイナもそれに反応している。反射的に手で払いにいく。しかし、レイナの手が刃を弾く瞬間、
——私は人間が嫌い。でも、戦争はもっと嫌い。私がいなくなれば戦争はなくなる。そうなれば、みんな平和に、幸せになれるのかな……
レイナの腕が止まる。魔力を消し去り、直剣を胸で受け止める。その瞬間、レイナを包む赤黒いモヤが四散し、大気に溶けてなくなる。アースを絶望が支配し、レイナを手に掛けた事実が襲う。しかし、レイナは笑っていた。
刃の通過に抵抗するものは無く、直剣はレイナを貫いていく。
——あぁ、こんなに痛いんだ。グラオベンにアイギス、アイラもごめんね。こんな痛い思いさせて……
赤い血が薔薇の様に散り、レイナの身体が地面に吸い込まれていく。すでに直剣から手を離しているアースはその光景を眺めていた。自分のした事を理解したくなかった。しかし、すぐにレイナを抱きかかえる。
「レイナ……」
直剣はレイナの心臓を捉えている。もう助かることはあり得ない。傷口から、口からおびただしい量の血が流れ出る。
「アース、私……もう魔王やらなくて、いいんだよね?」
レイナは花が咲くような笑顔で口にする。
「魔王、やめたら普通に暮らしたいな……戦いとは関係ない、生活。あっ、でもアイギスとの組手はやりたい、かな……」
少女が夢見る世界。それは戦争なんてない世界。
「アイラとも毎日、遊ぶんだ……でも、遊んで、ばかりだと、グラオベンに……怒られちゃうね……」
レイナの頬が大粒の涙に濡れる。アースは顔を隠すこともせずに泣いていた。
「ねぇ、アース……」
レイナの声にアースは耳を傾ける。
「魔王がいなくなれば、世界は平和になる、よね?」
魔王がいなくなれば世界は平和になる。それは分からない。しかし、アースは、
「あぁ。もう魔族と人間の戦争は起こらない。俺が起こさせない!」
約束した。目の前の少女、魔王レイナ・ヘルシャーに。
「ははっ、さすが勇者だね…………さすが、わたしの……ゆう、しゃ……ありがと……」
レイナの全身から力が抜け落ちていく。美しい人形の様に、レイナは笑顔のまま逝った。アースの腕の中で最後の時を迎えた。
短い記憶がアースの中に蘇ってくる。勇者として召喚された日、楽しかった日常、アイギスを失った夜。本当に短い間だったが、その全てでレイナは全力で生きていた。そんな少女が魔王として戦い、最後には勇者に倒された。そして、最後の瞬間、少女は平和を願って逝った。
レイナの最後を看取ったアースは声を殺して泣いた。今はまだ泣き言を言っている場合ではない。レイナとした約束を現実のものとするために。
アースはレイナの身体を地面に寝かせると、周囲の魔族に向かって宣言した。
「魔王レイナ・ヘルシャーは勇者アース・グラーヴォノエが討伐したっ! これ以上、無駄な戦いはする必要はない! 魔族軍は即刻武器を捨て、立ち去れ! そして、二度と人間の前に姿を現すなっ!!」
アースの言葉に魔族たちは声を上げて抵抗する。魔族の中にはアースを魔族軍の勇者として認めた者もいる。そんな魔族をアースは裏切ったのだ。
「頼む! レイナは戦争を嫌っていた! 人間は俺が必ず説得してみせる! だから、撤退してくれ!」
アースは膝を着き、地面に頭をつけて懇願する。そんな姿になのか、レイナの思いを汲み取ったのか、魔族の中から武器を捨てる者が現れ始める。そして、それは波紋の様に周囲へと広がり、全ての魔族が武器を捨てて撤退を始めた。
アースは心の中でレイナに報告をする。平和への第一歩は成功した、と。
今回の戦闘に対する人間の共通認識はこうだ。
結果的に人間と魔族の総力戦は人間の勝利に終わった。一時は魔族優勢だった戦況も、突如現れた勇者により一変した。敵陣へ突撃する勇者に続けと人間軍は士気を取り戻したのだ。そして、最後には勇者が魔王を討ち取り、人間軍を勝利へと導いた。
そして、戦闘が終わると魔族軍はすぐさま撤退を開始した。人間軍は掃討作戦に打って出ようとするが、勇者の言葉により思い止まる。これにより人間と魔族の戦争は終結する。勇者と魔族の間に何かしらの密約が交わされた事は確かだが、それが人間社会の平和に繋がる事は間違いない。
魔族が住んでいた都市はそのほとんどが破壊され、魔族もその土地を去り、魔族がいた土地にわざわざ居住する人間もいないため、今はただの廃墟群となっている。
そして、人間軍の勝利に貢献した勇者だが、戦争終結後に忽然と姿を消した。
都市サタナボーデンの中心に位置する城。戦争の影響で至る所に大きな穴が出来上がっており、生活に使われなくなった建物は風化が激しく、あと数年で倒壊してしまうだろう。しかし、そんな城に一人の男がいた。
男は大広間に玉座を四つ作り、花を手向けている。そして、それらに語り掛ける様に口にする。
「戦争が終わっても、人間の魔族に対するイメージは中々変わらないな。さすがの勇者でも魔力を持ってるなんて知れたら、大問題だからな」
男は自分の腕に魔力を集めて眺める。すると、自然と笑みが零れてきた。
「アイギスは短い間だったが最高のパートナーだった。背中を預けられる最高のパートナーだ。グラオベンとはどっちの実力が上かハッキリさせたかったな。この直剣を使えば、俺が勝つんじゃないか? アイラはアレだな。狼を撫で回してみたかった。それから……色々とありがとう」
最後の一つ。一際豪華な椅子に男は語る。
「レイナが望む平和はまだ先の話だろうが、いつかきっと実現するさ。その時はみんなで祝えると良いな。あっ、でも——」
男は苦笑する。
「俺は魔力の影響で人間とは思えない程に長生きになっちまったしな。そっちに行くのはだいぶ先になりそうだ。それまでは、ここで墓守りでもして生きていくよ」
男の言葉。風になびいた花が四人の答えを代弁するように頷いた。