片鱗
——ギリギリ、か……
アースの走る速さは人間の比ではない。しかし、馬に適う程ではなかった。それでも、瓦礫を避ける馬と瓦礫を飛び越えるアース。少しずつだが確実に距離は縮まっている。
身体に風を感じ、体勢を低くしていく。瓦礫を華麗に飛び越え、距離を詰める。
あと数メートル。そんな距離になった時だった。指揮官は馬を止め、振り返ってきた。不気味めいたものを感じ、アースも立ち止まって距離を取った。
周囲を見渡せば、人間が数人並ぶだけでいっぱいになる程に狭い路地だった。まだこの一体は攻撃を受けていないのか、建物は本来の姿のまま建っている。
「こんな所まで追ってくるとは……」
顔を引きつらせた指揮官がそんな事を言いながら、腰に帯びていた弓を取り出した。そして、上空へと一本の矢を放った。
一瞬、アースは何をしたのか理解できなかった。しかし、次の瞬間には全てを理解した。
「——罠かっ!?」
矢が放たれた上空。そこには先ほどと同じような光景が広がった。直径数メートルの岩が飛来してきたのだ。しかし、
「お任せ下さい!」
即座にアイギスが盾を構えてアースの前に立つ。既に投石器の攻撃は退けているのだ。アースは肩すかしを食らった気分だった。
この程度か。アースは思った。岩が何個来ようともアイギスの盾を破ることはできない。それこそ無駄な労力だ。
しかし、岩はアースの予想していた軌道とは違う放物線を描いていた。
——ここじゃない……もっと後ろ?
岩の放物線はアースたちよりも後ろに落ちる様に描かれている。そして、そのまま岩は何の障害を受けることなく、落下した。
大きな音を立て、土煙を上げる。本来の使用方法に見合った結果だろう。徐々に土煙は晴れ、アースにありのままの姿を晒した。そしてそれはアースに驚愕をもたらした。
「——なっ」
岩の落下によって左右の建物が崩され、アースたちが来た道を塞いでいた。複数の岩が重なり、一つの大きな壁が出来上がっていた。高さは優に十メートルを超えている。アースがジャンプしたところで届くわけもない。
「バカめっ。化け物ども、これでも喰らえ!」
指揮官がそう声を上げ、建物の陰に隠れると、それまで遮られて見えていなかった物が姿を現した。
「なんだ……バリスタ、か?」
個人用のクロスボウを兵器の域まで大型にした兵器。弓が引かれ、先端が拳ほどの大きさを持つ矢がセットされている。それが五台も並んでいる。
「…………」
アイギスは無言で盾を構え直した。退路が無くなった以上、この場で自身の盾一つで防ぐしかないと悟ったのだ。その姿からは焦りにも似た緊張感が漂っている。
「……大丈夫なのか?」
「わかりません……」
壁を壊すことはできないバリスタだが、その威力は投石器の比ではない。先端の一点に圧力が集中する分、貫通力が段違いだ。
「放てっ!!」
その声と同時にバリスタから矢が放たれた。一瞬の出来事だ。矢が空気を裂き、滑空する。十数メートル離れた場所から放たれた特大の矢は一瞬でアイギスの盾に衝突した。
「——くっ!!」
アイギスは歯を食いしばり、力を振り絞った。耳を劈く様な甲高い音が周囲に木霊する。矢は盾に直撃してからも一秒ほど勢いが衰えることはなかった。アイギスが後ずさることはなかったものの、矢は盾全体に凄まじい衝撃を伝えていた。
「はぁ……はぁ……」
アイギスは自身の右腕を見た。凄まじい衝撃の影響で少しだけ痺れていたが、今はそんな事を言っている場合ではなかった。兵士たちが次々に矢を放つべく準備をしている。
「勇者様、逃げてください」
アイギスは前だけを見て、そう告げる。右手の痺れを意識の外に追いやり、呼吸を整える。
「そうは言うが……」
アースは直剣を岩に振るうが、少し削れるだけで到底破壊できそうもなかった。退路は無い。バリスタを破壊しに出れば、狙い撃ちにされるだけ。岩を登ろうとしても狙い撃ちだ。
アースが逃げ道を模索している間にもバリスタからの攻撃は止むことはなかった。兵士たちは攻撃の手を休めることなく、矢を放ってくる。
一撃必殺の矢を何本も放つ―放つ―放つ―放つ―放つ―放つ―放つ―放つ――
「早く……長くは保ちません……」
いくら頑強な盾であっても、同じ場所に強い衝撃を受け続ければ砕けてしまう。すでにアイギスの盾は投石器の攻撃を防いでいる。それは目には見えない綻びとなって、盾へと蓄積されていた。いつか破られる時が来るのは明白だった。
「くっそっ、何か……なにか……」
アースは周囲を見渡すが、現状を打破できる物は何も無い。
「もう……」
そして、無情にも盾の限界が訪れた。バリスタから放たれた矢が盾の中心に命中した瞬間、盾は音を立てて四散した。そして、
「アイギスッ——」
続けざまにアイギスへと矢が放たれる。アースをゾクリとした恐怖が襲う。
アイギスの纏った鎧は貫かれる。釘を紙の束に打ち込むように、アイギスの身体へといとも簡単に到達する。
「がっ——」
アイギスが口から大量の鮮血を吐き出し、長い金髪を揺らしながらよろめく。それでも、矢は容赦なくアイギスに襲いかかる。アイギスは身体が崩れ落ちそうになるのを堪え、両手を広げ、自身の後ろには矢を一本足りとも通させはしなかった。
矢が掠った兜が吹き飛ぶ。腕に、脚に矢が突き刺さり、苦悶の表情を浮かべる。
——主を守る。
ほんの数日前に主となったアースだが、アイギスにとってそれは関係ない。主を守ることだけアイギスの役割であり、誇りだ。その誇りを守る為にもアイギスは倒れるわけにはいかなかった。
「ハァ、ハァ……ハァ、ハァ……」
倒れそうになる身体に無理やり力を込めて何度も踏みとどまる。その度に全身から血を吹き出し、意識を持っていかれそうになる。それでも、アイギスは矢を受け止め続けた。
「くっそ! なんなんだ、あいつ。不死身なのか!?」
一向に倒れないアイギスの姿に兵士たちは困惑していた。自分たちが戦っているのは一体何なのか。本当に倒せるのか。そんな表情だ。
「うっ……がはっ!」
アイギスは大きく咳き込み、大量の血を吐き出す。確実に弱ってきている。それは紛れもない事実だ。
「…………」
アースは何もできなかった。言葉を発することもできず、絶望と共に事の行く末を見ているしかなかった。目の前の盾騎士、アイギスは死ぬと分かっていても、何もできなかった。
「……イケルぞ! ディアブロシールドを倒せるぞ!!」
兵士たちは自分たちを鼓舞しながら、弓を引き続ける。そうでもしなければ、気持ちが折れてしまう。
「主を……まもるのが、たて……きし」
アイギスはうわ言の様にそう繰り返す。最早、意識もなく、視界も狭まっている。それでも、一心不乱にアースの盾となる。命の炎が燃え尽きるまで自分の全てを賭ける。
無数の矢がアイギスの身体を貫く。常人ならば即死級の一撃をアイギスは耐え続けた。
「ゆうしゃ、さま……いきて、くだ……さい————」
しかし、それでも、アイギスの命は最後の言葉と共にアースの目の前で尽き果てた。
全身の力を失ったアイギスの身体が赤く染まった地面へと吸い込まれる様に倒れていく。アースが手を伸ばす。しかし、その手は届かなかった。
アイギスが倒れた一瞬後、周囲が歓喜に包まれる。兵士たちが雄叫びを上げて喜んでいる。アースの絶叫は兵士たちの雄叫びにかき消され、誰の耳にも届かない。
ほんの少しの間だが、アースには戦場での仲間が出来た。共に肩を並べた時間は僅かだったが、アースは妙な居心地の良さを感じていた。しかし、その騎士は自身の役割を忠実に全うする為に命を掛け、散らした。
出陣前、アイラと仲良く話していた姿を思い出す。楽しそうにレイナと組手をする姿を思い出す。
——二人の大切な……俺なんかの為に……
アースはアイギスの亡骸に這い寄っていく。しかし、もうアイギスは死んでいる。それは変わることのない事実だ。
「次は、あいつだ。攻撃用意!」
兵士たちはアースもアイギスの様に倒すべく、バリスタに矢をセットし始めた。準備が整い、アイギスの傍で放心状態のアースに照準を合わせた瞬間。まさに矢を放つ瞬間だった。
周囲に爆発音の様な轟音が響いた。その場にいた全ての者の動きが止まった。路地を塞いでいた岩が吹き飛ばされ。周囲が土煙に包まれる。
「なっ——」
あまりの事に兵士たちがアースの奥、岩へと目を向けた。アースもゆっくりと振り返った。
土煙の中に誰かがいる。岩をどかしたのはそいつだと瞬時に理解できた。しかし、そいつは一人だ。人間ならば岩をどかす必要はない。魔族ならば、心もとない援軍だ。アースは誰が来ようと関係ない。そう思っていた。もうアイギスは死んでしまっている。手遅れなのだ。
しかし、土煙が晴れ、そこに現れた者にアースは目を見張った。本来ならば、この場にいるはずがない人物。
「お前……」
真っ赤なドレスの上に濃紺の鎧を纏い、兜も無いむき出しの頭から漆黒の長髪を風になびかせている人物。魔族の象徴にして、最強の魔族。魔王、レイナ・ヘルシャー。
レイナは路地を見渡すと、おびたたしい血の量にすぐに異変を察知した。アースのすぐ傍、見慣れた鎧の騎士が倒れていることに。
「アイギスっ!!」
レイナがアイギスに駆け寄る。しかし、アイギスは何も言わない。指一つ動かすことはなかった。
「アイギスっ! アイギスっ!!」
流れ出た血の量、身体に刺さる無数の矢。それだけで、アイギスが既に死んでいる事はレイナでも理解できた。しかし、理解したくなかった。
レイナは真っ赤なドレスを更に赤く染め、アイギスを抱きしめて涙を流す。
「間に合わなかった……間に合わなかった……」
レイナが自分を責めるように呟き続ける。しかし、人間たちはこれを好機と取った。
「魔王だっ。魔王が現れたぞ! 放てぇ!!」
人間たちの最終標的である魔王が目の前に現れたのだ。これを好奇と言わず、何と言うのか。人間たちは一斉にバリスタにセットされた矢を放った。
矢が空を切り、レイナに向かって一直線で飛来する。
「避け——」
アイギスの盾をも破った攻撃だ。レイナであっても、当たればただでは済まない。アースはレイナを避けさせようと手を伸ばすが、レイナがそれよりも早く行動を起こした。
子供が駄々をこねて物に当たるように、ただ力任せに地面を叩く。そんな出鱈目な一撃。レイナの一撃は大地を揺らし、周囲の地面が爆発したように吹き上がる。矢は砂塵に巻き込まれ威力を失い、結果、レイナまで届かずに地面へと落ちた。
「…………」
その場にいた全員が驚愕に呑まれる。兵士たち、アースはあまりの光景に何が起こったのか一瞬、理解できなかった。
「よくも……よくも……」
レイナはアイギスを抱きかかえ、涙を流している。アースの位置からでは顔を覗くことはできないが、くぐもった声と時折聞こえる鼻をすする音が何よりの証拠だ。
「よくもアイギスを……」
レイナの感情は悲しみから怒りへと変貌していく。腕の中にいるアイギスへの悲しみが、目の前にいる仇への怒りに。
更に怒りは殺気を伴い周囲へと発せられる。味方であるアースですら感じる程の殺気。それを正面から浴びる兵士たちは足が竦んで動けずにいた。
レイナはアイギスをゆっくり横にすると、立ち上がった。恐怖に支配され絶望の色を浮かべる者、あまりの恐怖に笑みが零れる者、中には既に死を覚悟した顔をしている兵士もいる。どんなに絶望的な状況でも体が言う事を聞かない。身体が目の前の魔王から現実逃避をしてしまっている。
「……許さない」
レイナは静かに怒りを爆発させると、大地を蹴って走り出した。一直線に兵士たちに向かっていく。
「う、撃てぇ! 撃つんだ!!」
兵士たちの中にいる指揮官が大声を上げる。恐怖に支配された身体から無理やり絞り出した声。その声に反応した兵士たちが一斉に動き始める。未だ恐怖に苛まれているが、それでも何百、何千と繰り返した行動を身体が反射的に行った。
バリスタから矢が放たれる。無数とも言える矢の大群だったが、レイナは立ち止まり、その全てを弾いた。
矢の中腹を叩き、弾く。その繰り返しだ。アイギスの様に正面からぶつかれば威力は絶大だが、横から力を加えれば矢はその威力を失う。しかし、これは並大抵のことではない。
至近距離から撃たれる矢を一瞬で見切り、同時に手で弾く。人間では不可能。魔族でも本当にごく一部、いやレイナにしかできない芸当だ。
矢を物ともせず、ゆっくりと近づいてくるレイナの姿に兵士たちの中から逃げ出す者が現れ始めた。軍隊の中で上官の命令以外での敵前逃亡は重罰にあたるが、そんな事を言っている場合ではない。一刻も早くこの場から逃げ出さなければ、殺されてしまう。
しかし、レイナは誰一人として逃がすつもりはなかった。
「逃がさない……皆殺しだ……」
レイナは正面から矢を掴むと、それを逃げ出す兵士たちに投げ返した。
空気を裂く音が聞こえたと同時に逃げ出した兵士の一人が無残に砕け散った。大量の血が飛び散り、周囲を赤く染める。その光景を目の当たりにした兵士は嘔吐し、周囲は阿鼻叫喚の渦となる。兵士たちはバリスタを放棄して逃げ出した。全兵士が戦意喪失してしまった。
「レイナ! もうやめろ!!」
アースはレイナに向かって叫んだ。しかし、レイナは一度だけ振り返って微笑しただけで、止まらなかった。
例え、味方を殺されたからといって、戦意を失った敵を殺すのは間違っている。敵意同士がぶつかるのが戦争だ。無抵抗の者を殺せば、それはただの虐殺だ。
レイナが片手を前方に掲げると、兵士たちの逃げ道を潰すように路地が見えない力によって破壊され、道を塞いだ。そして、最後にレイナは自身の後ろ建物も破壊し、兵士たちと自分を路地の中に閉じ込めた。
何も見えなくなった。しかし、瓦礫の奥で何が行われているのかは容易に想像できる。兵士たちの悲鳴が、断末魔がアースの耳を襲う。
——やめろ……やめてくれ……
耳を塞いでも聞こえてくる殺戮の調べ。アースの精神に直接攻撃をしてきている様だった。
周囲が静けさを取り戻した頃、アースは顔を上げた。
いまだ眼前には瓦礫が築きあげられている。しかし、その中からレイナが姿を現した。全身を返り血で赤く染め、その手には部隊に指示を出していた男の頭が握られている。
身体を引きずられる男はまだ息があるらしく、何かを叫んでいる。おそらく、命乞い、憎悪に塗れた罵倒。様々なのだろう。しかし、レイナはその言葉に一切耳を傾けることなく両手で頭を掴むと、何の躊躇いもなく押し潰した。そして、
「アイギス! やったよっ!!」
レイナは天に向かって叫んだ。笑顔で涙を流しながら。